『いいの?』
「それで電話してきたんだろうがよ。――俺の方が先に着くな。邪魔なようだったら帰っけど、とりあえず病院行くから」
『ありがとぉ』
恋人は泣きそうな声でそう言って電話を切った。佐久間は携帯とスマイルの手を同時に放り出すと目に付く洋服を適当に着込み始めた。同じようにシャツに手を伸ばしたスマイルに振り返り、「お前はいいよ」と言う。
「ビール残ってんだろ? 飲んでっから帰れ」
「え、でも――」
「合鍵渡しとくからよ。戸締り頼むわ」
「わかった」
着替えの合い間に残っていたビールを飲み干し、そうしながら棚を探って合鍵をみつけだす。
「誰? 家の人?」
「いや――バカのお袋さん」
「…そう」
財布と携帯をジーパンのポケットに突っ込んで煙草を拾うと、ほい、と呟いて合鍵を渡す。一度スマイルの髪を梳き、そのまま思わず抱き寄せた。
「――わりぃな」
「気を付けて」
軽く唇を重ねて佐久間はアパートを出る。西に傾いた太陽は、それでもまだしぶとく地表を照らし出していた。
一人になると部屋はひどく静かだ。
スマイルは遠ざかる佐久間の足音をじっと息をひそめて聞き、判別が利かなくなってからようやくビールの缶に手を伸ばした。
気が付くとまだシャツを握りしめていた。膝の上から放り出し、ビールを飲んで息をつく。布団に寝転がって枕に頭を乗せたが、少ししてから思い直して、メガネを外すと布団の上に直接頭を置いた。
じっとしていると、ほんのわずかだけ佐久間の匂いが感じられた。そうして目をつむり、少し眠っていこうかと考えるが、もし佐久間が恋人を連れて部屋に戻ってきたらと思った瞬間、怖くなってあわてて身を起こした。
足音はしない。
スマイルは安堵のため息をついて、メガネをかけながら布団の上に座り直す。
テーブルにはゴミが散乱していた。ビールを飲みながら一つ一つ拾い上げてはコンビニ袋に放り込み、最後にビールを飲み干して缶を握りつぶす。そうしてのろのろと立ち上がって洋服を着始めた。
外はまだ暑いのだろうか――カーテンの隙間から射し込む光をみつめてスマイルはぼんやりと考える。わずかに翳り始めた光が、なんとなくだが気を重くさせた。
エアコンを止め、ゴミをまとめて台所に置いた。窓際に戻ってカーテンを閉め直し、薄暗い部屋のなかに立ち尽くす。拾い上げた合鍵をぎゅうと握り、もう一度だけ布団に横になると、足元のタオルケットを引き寄せて頭からかぶった。
佐久間の匂いがする。
「………バカだなぁ」
スマイルは部屋を出た。
「あーったく、オメーはよお」
「だから、ごめんってばぁ」
そう謝りながらも、恋人の顔は安堵にほころんでいる。
受付で病室を尋ねると三階の整形外科だと言われた。六人の大部屋で、奥の窓際のベッドに恋人の母親が横になっていた。
「ぎっくり腰やっちゃってねえ」
横向きに寝転がったまま、元気そうにからからと笑った。はあ、と佐久間が返事に困っていると父親がやって来て、もともと腰の調子が良くなかったのだということを教えてくれた。
「腰据えて治しなさいって前々から先生には言われてたんだけど、そうこうするうちにこれよ」
「歳を考えないで重いもの運ぶからだ」
「ねえ。やっぱり若い人と同じじゃいけないわねぇ」
「……まあ、たいしたことなくて良かったっすよ」
着替えを取りに戻りたいから居てくれと父親に頼まれて佐久間はうなずいた。根本的な治療も含めて、結局十日ほど入院することになるそうだ。
ぽつぽつと話をするうちに恋人がやって来た。
「ぎっくり腰!?」
病名を聞いた恋人は呆れたような顔で母親を見下ろした。
「ホントにそれだけ? もっとなんかほかの病気とか――」
「ないわよ。とりあえずこの腰の痛いの、どうにかして欲しいわね」
「もう、おとなしく寝てなよお」
恋人はやけっぱちのように言い、どっかりとパイプイスに腰を落とした。
「…も、すっごいビックリしたんだからぁ」
そう言って両手で顔を覆ってしまった。佐久間は困って母親を見、苦笑されるのを受けて苦笑し返した。
夕飯の配膳が始まったので母親の体を起き上がらせてやり、あとは一人で大丈夫だと言うので、二人は今喫煙ルームに居る。よくよく父親からの伝言を聞いてみれば「たいしたことないんだけどな」とは言っているのだそうだ。
「だけどさ、それならそれで、はっきり『ぎっくり腰』って言ってくれればいいと思わない?」
「だからあとで親父さん怒っときゃいいだろうがよ」
「わかった。怒っとく」
恋人はむくれたようにそう言って紙パック入りのジュースを飲む。佐久間は煙草の灰を叩き落とすと、今更ながらに恋人のあわてっぷりを思い出して小さく笑った。
「ま、病気とかじゃなくって良かったじゃないっすか」
「…まあね」
そう言って恋人はうつむき、サンダルを半分ほど脱いで爪先でもてあそび始めた。
「ホントにごめんねマー君。まだ仕事中だった?」
「いや――」
そういえば会社を休んだことを話していなかった。とはいえ素直にズル休みの詳細を語るわけにもいかず、「用事あったんで半休取ったんだよ」とウソを言う。
「うちでぶらぶらしてしてたとこっすよ」
「そっか。なら良かった」
しばらくすると父親が着替えを持って戻ってきた。
夕飯でも一緒にどうだと誘われたが佐久間は辞退した。恋人の両親とは何度も顔をあわせており、食事をしたこともあるが、さすがに父と娘のあいだに入るのは気まずくてたまらない。「またメールするね」という恋人に手を上げ返して佐久間は病院を出た。
少し迷ったのちに、スマイルに電話を入れた。
『もしもし?』
「あ、俺だけど」
『…どちらの俺様ですか』
「佐久間家の俺様ですが」
言葉のわりに怒っている様子はうかがえなかったので安心する。
簡単に状況を説明すると、『良かったね』と安堵したような声が返ってきた。
『じゃあしばらくはムー子ちゃんが家事とかするようだ』
「だぁね。ま、たまにはいいんじゃねえの? やっぱそういう苦労も少しは知っとかねえとな」
『偉そうに』
スマイルはくすくすと笑い、佐久間は煙草を取り出しながら、いいじゃねえかよと反論する。そうしてためらいながらも、ぽつりと、悪かったな、と呟いた。
『――アクマが変なこと言ってる。明日雨降らすつもり?』
「あんでだよっ」
だけどこれ以上言うと薮蛇になりそうなので佐久間は口を閉じる。そうして、じゃあなと電話を切ろうとしたら、
『ねえ、合鍵いつ返せばいい?』
「あー…いいよ、持ってろよ」
『でもさ、』
「持ってろよ」
『…わかった』
互いにそれ以上言葉が続かず、どちらからともなく、また、と言い合って電話を切った。佐久間は携帯をしまい込み、煙草に火をつけようとして手を止めた。
――なにやってんだ、俺。
どういうわけか苦笑が洩れた。
そうして小さくため息をつき、駅に向かって歩き出す。胸のなかで色々な思いが騒いでおり、だってしょうがねえだろと誰にともなく言い訳をして、ホントかよ、とまた反論する。
――しょうがねえじゃねえかよ。
そういう気分だったんだから。
夏が終わりかかっていることを夜風が教えてくれていた。もうエアコンをつけなくても、風が吹き込んでくればそれだけで充分だ。
スマイルは窓際に腰をおろしてぼんやりと佐久間の姿をみつめている。
佐久間は布団にうつ伏せになって煙草を吸い、あまり興味もなさげな様子でぱらぱらと雑誌をめくっていた。テーブルには焼酎の瓶。今、佐久間がグラスを取ろうとしてテーブルの縁に手をぶつけた。スマイルは吹き出して、睨み返される。
どこかで一度犬の吠える声が聞こえた。スマイルはグラスを持って立ち上がり、佐久間の横に並んで布団に寝転がった。佐久間は煙草をもみ消すと雑誌を閉じて腕を伸ばす。ゆるく抱き寄せられて、スマイルも抱き返した。
佐久間の目がまるで検分するようにスマイルの顔のあちこちを眺めていた。ゆっくりと指が髪の毛を梳き始める感触にスマイルは笑う。そうしてうつむき、なにかを言おうと思って口を開きかけ、言葉が思い付かずにまた閉じる。
手が伸びてきたので顔を上げるとメガネを外された。佐久間のメガネを奪い返し、二人はそっと唇を重ねる。メガネを放り出して強く抱き合い、唇を離して、笑いあった。
最近、二人のあいだでとみに言葉数が減ってきた。
曖昧/2005.06.08