そうしてまた朝がやってくる。
夢も見ずに、ただ暗い意識の底から這い上がるように、孔は目を醒ました。今日は風間が先に起きている。どうやら額や頬に何度も唇が押し付けられる感触で起こされたようだ。目が合うと、風間は照れたように微笑んで、「おはよう」と言った。
昨日の夜、寝る前もこんな感じだった。ぼんやりと孔は思いながら「おはよう」と返す。うっすらと朝日が射し込む部屋のなかで、風間の姿はやけにまぶしい。孔はわずかに目を細めて手を伸ばすと、そっと風間の髪をかきあげる。風間は孔をみつめたままその手を握り、強く口に押し当てた。
「なに…?」
なんだか、様子が変だ。風間は孔の手をベッドに置くと、熱いため息と共に孔の体を痛いほど抱きしめた。
「風間?」
「……っ」
抱きしめる腕が苦しくて、わずかに逃げるように身をよじって孔は風間を見上げる。風間はまた深いため息を吐いて、ようやく腕の力を抜き、孔を見下ろして「なんでもないよ」と小さく笑った。
泣いているようにも見える。
「そんな目を、するな」
「何故?」
「……」
――俺が、これからなにを言うのか、お前にはわからないだろう。
せめて最後は笑ってやろう。そう思いながら少しずつ決心を固めていっているのに、風間の顔を見るたびにその決心がゆるんでしまう。
「仕事は?」
「…昼から。部活は?」
「十時からだ。そろそろ行かねばな」
残念そうに笑って孔に口付けると、ようやく風間はいつもの表情に戻ってベッドを抜け出した。ズボンをはいているのを見て孔もベッドを抜け出し、服を身につける。
「なにか飲むか」
「ウーロン茶をもらえるかな」
「ああ」
二つのグラスにウーロン茶を注いで、片方を風間に手渡す。何故か指定席とは互いに逆に座りながら、言葉も交わさずにグラスの中身を空けてゆく。
ふと窓の外から視線を移すと、風間がじっとこちらをみつめているのに気が付いた。
「なんだ」
「いや――」
そう言ってまた照れたように笑う。
「我が身の幸せをとっくりと味わっているところだ」
「とっ…?」
「ええと、なんだ」
あわてて言葉の説明をしようとしたが、上手く代わりの言葉がみつからないようだった。困ったように肩をすくめて微笑むと、
「今度来る時までに説明を考えておこう」
「今度はない」
孔も同じように微笑みながらそう言った。
言葉は最初、風間の耳をすり抜けていったようだった。わずかに笑った口元がゆがんで、「え?」と聞き返す。
「今度は、ない」
はっきりとそう言うと、風間の顔から笑顔がゆっくりと消えた。口元に持っていったグラスをテーブルに置いて、
「…どういう意味だ?」
「もう来るな」
言ったとたんに、後悔した。けれどここでやめては意味がない。孔は全身の気力を振り絞って言葉を繰り返す。
「風間、もう来るな」
――嫌だと言ってくれ。
わずかに震える手でグラスを握りながら、孔はそれでも笑ったままだ。
風間はあわててなにかを言おうと口を開き、だが言葉はなく、呆気に取られたように、そして傷ついたように、孔をみつめる。
「私が、嫌いになったか」
「……」
孔はとぼけたように、それでも決して風間からは視線をはずさないまま、グラスを口につける。
――これが最後だ。
どんな表情も見逃さないようにと、孔はまっすぐ風間をみつめる。
「やはり迷惑だったのか?」
「――」
「なあ孔、」
そう言って風間は立ち上がりかけて、孔の目をみつめ、力を失って崩れるように座り込んだ。
窓の外から鳥の声が聞こえる。子供の笑い声と、自転車が通り過ぎる音。そういえば今日は祝日だった。風間の愕然とした顔を見ながら、今更のように孔は思う。
風間はまた顔を上げてなにかを言おうとした。けれど、言葉はない。うつむいて、小さく苦笑して、
「わかったよ」
そう言って大きく息を吐き出した。
「君がそう言うなら、そうしよう」
――違う。
グラスを持つ手に力がこもる。
――お前が嫌だと言えば、お前が「会いたい」と言ってくれれば、
泣きそうになって孔は歯を食いしばる。
――そうすれば、済むことなんだ。「俺が言うから」じゃない、「お前が言わないから」なんだ。
結局お互い様だったんだ、やっぱりこれで良かったんだ。そう思うのに、悲しい気持ちはどんどんどんどん強くなっていって、孔の胸からあふれそうになる。
風間は再び大きなため息をつくと、孔をみつめて、グラスの中身を飲み干した。そうして立ち上がり、
「…最後に、いいか?」
孔は小さくうなずいた。
風間はゆっくりと孔の脇に座り込むと、じっと目をのぞきこんできた。
殴られても構わない、と孔は思う。それだけのことはした。お前は今、俺に、傷付けられたんだ。怒れ、風間。
怒ってくれ、頼むから。
だが風間はいつものように微笑んで手を伸ばしてきた。そしていつかの晩のようにそっと頬に手を触れる。孔が逃げないことを確認するようにじっと目をのぞきこんで、静かに唇を重ねた。
こんなにもこの男がいとおしいと思ったことはなかった――。
風間に抱きつかないようにと、孔は体の後ろで両手を握りしめる。このまま時が止まればいいと、今この瞬間この男に殺されたいと、初めて思った。離れていく唇が寂しくて、思わずすがるような目をしそうになって、あわてて目を伏せる。
強張る孔の体をそっと抱き寄せると、
「今までありがとう。…元気でな」
そう言って耳元に軽く唇を触れて、風間は立ち上がった。泣きそうな目で孔を見下ろして、小さく笑うと、玄関に向かった。そして靴を履いて扉を開けて、閉める時まで、決して振り向くことはなかった。
足音が遠ざかるのを聞きながら、孔はゆっくりと息を吐く。そしてテーブルに残った空のグラスをみつめて、
――終わった。
深い息を吐き出した。
部屋はまるで何事もなかったかのように静かだった。外から時折なにかの物音が聞こえたが、それは今の自分とは全く関係のない世界の物音だった。
力を抜いて、壁に寄りかかって、笑おうとして、失敗する。ウーロン茶を飲もうとグラスを手に取りながらも口につけることが出来なくて、孔は歯を食いしばる。
嗚咽が洩れる。
「……っ」
声を殺して孔は泣いた。いつかの晩のように。だけど、自分を抱きしめる心地良い腕は、もうどこにもない。
−もう飛ぶ夢は見ない 了−