今年は珍しく涼しい夏だった。窓を開け放しておけば、眠れないほどに蒸すような晩は滅多になかった。梅雨の延長のまま秋へ向かいつつある夏休みの最終週、ペコはいつものようにスマイルの部屋で床に寝転がったまま窓の外をぼんやりと眺めていた。
 ――気が抜けるってのは、こういうことなんかね。
 さわやかな風を受けながらペコは思う。
 先週、茨城で行われたインターハイの閉会式に参加してきた。再び表彰台の一番高いところに立ってメダルとトロフィーを授かりながら、もうここでやることはなくなったなとその時思った。
 日本は制した。あとは世界へ出るだけだ。
「ペコ、宿題写すなら早くやりなよ」
 空いた手でペコの足をぺしと叩いてスマイルは辞書をめくる。へぇへぇと呟いてペコは体を起こすと、嫌々ながらシャーペンを握った。
「あんだって俺様みたいな人に、ほかの奴とおんなじに宿題出すのかね」
「平等に扱われてるっていう証拠だよ」
「平等でなくていいんすよ」
 苦い顔をして呟くと、スマイルはくすくすと笑った。
「そんなに勉強が嫌いだったら、どうしてスポーツ推薦でほかの高校行かなかったのさ」
「片高が一番近かったんだよ」
「ペコらしい」
 そういうお前は、らしくねえよな、とペコはふと思う。インハイ予選のあの日から、心配になるほどスマイルはおとなしくなった。時折、なにか言いたげな目でみつめてはきたが、それだけだ。なんだよと聞くと、なんでもないよと笑って首を振る。その寂しそうな笑顔にペコは腹が立つ。
 相変わらずスマイルはなにかを我慢している。言葉を飲み込んで、気持ちを飲み込んで、辛いのだか寂しいのだか、曖昧なふうにただ笑っている。
 そんな顔をさせる為に言ったわけじゃない。スマイルのそんな笑顔を見るたびに、ペコは罪悪感を覚えた。俺はただ、本当にあの時だけは邪魔をしてもらいたくなくて、それだけの意味で言ったのに。
 お陰で予選当日も、その後茨城で行われた本戦も、ひどく純粋に楽しめた。まっすぐに一点だけを目指して走ることが出来た。そういう意味では感謝している。けれどその本戦も終わったのに、相変わらずスマイルは言葉を飲み込んで、寂しそうだ。嫌がらせのようにいじめられるのは好きではないけれど、こんなふうに窮屈な思いをするのは、少し苦手だった。
「お前、大学どこ受けんの」
 気まずい空気をごまかすようにペコは聞いた。
「うん…まだ大学は決めてないんだ。ただ法学部か経済学部にしようとは思ってるんだけど」
「なにそれ、なにするところなわけ」
「難しい勉強するところ。経済学部の方が面白そうかな、とは思ってるけどね」
「ふうん…」
「――英会話、通うんだって?」
「言うなー、ホントに嫌なんだから言うなー」
 シャーペンを放り出してテーブルに突っ伏したペコを見て、またスマイルが笑う。
 インターハイが終わって家へ戻ったペコの前に、父親が英会話教室の入会申込書を差し出した。あにこれ、と聞くと、
「とりあえず英語ぐらいは喋れるようになっておけ」
 そうして有無を言わさず入会の手続きを取ってしまったのだ。ドイツ行くんだからドイツ語だろうとふと思ったが、英語が喋れればなんとかなると力説されて、仕方なく九月から通う羽目になってしまったのだった。
「でも確かに英語喋れれば、なんとかなるんじゃないの。生活してればそのうちドイツ語も覚えられると思うよ」
「…まあなぁ。そりゃ言葉もわかんねーで行くつもりはなかったけどさぁ」
 恐らく単身で向こうへ乗り込むことになるのだ。それなりの準備は必要だろう。
「頑張りなよ。てっぺん取るんだろ」
 そう言ったスマイルの顔を見上げて、ペコはふと呟く。
「お前、なんか元気なくね?」
「そう?」
「なんとなくな…夏バテか」
「まさか」
 微笑みながらも、やっぱりどこか寂しそうだ。ふとためらうようにうつむいて、
「触ってもいい?」
「…いいよ」
 シャーペンを置くと、スマイルは手を伸ばしてペコの指を握った。口元まで持ち上げて、そっと唇を触れる。そうしていとおしむかのようにキスを繰り返しながらペコの目をみつめた。恥ずかしくてペコは目をそらしながらも、俺もあんなふうにすがるような目をしてるんだろうかと考える。
「なんか…言いてぇことあんなら、言えよ」
 スマイルのやわらかな唇の感触にぞわぞわと背筋をくすぐられながらペコは呟いた。
「ないよ、別に」
「うそつけ。ずっとなんか言いたそうにしてる癖によ」
 それでもスマイルはなにも言わないまま、またペコの指に唇を押し付ける。ぺろりと舌先で舐められて、ペコは小さく体を揺らした。
「……っ、俺、言っただろ、我慢すんなって。言いたいことあんなら、はっきり言えって」
「好きだよ、ペコ」
 まるであの晩のようだ。酔っ払っているかのようにとろんとした目でスマイルはペコをみつめ、それでいて、あの時とは違って寂しそうな色が消えていない。
「…俺だって、お前のこと、好きだよ」
 そう言うと、スマイルは嬉しそうに微笑んだ。
「だからさ、もっと笑えよ」
「笑う?」
「そうだよ、んな、いっつもなんか我慢してるみてぇな顔されっとさ、腹立つんだよ」
「だけど、邪魔されたくないだろ?」
「え…」
 スマイルは自分の頬にペコの手のひらを押し付けてじっとみつめた。
「邪魔したくないんだよ。ホントはペコのことどこにもやりたくないけど、ペコはドイツ行っててっぺん取るのが夢だから、邪魔しないようにと思って我慢してる。会えなくて寂しくなるんだろうけど、慣れなきゃ駄目だと思って…」
「――まだ半年も先の話じゃねえか」
「うん」
「一生帰ってこねぇわけじゃねえんだし」
「うん…」
「…泣くなよ」
 押し付けられた手のひらに、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「泣いてないよ」
「――うそつき野郎」
「うん」
「エロオヤジの癖に」
「うん」
「ガキじゃあるまいし」
 ペコは身を乗り出してスマイルの頭を抱き寄せる。肩口に顔を押し付けたスマイルは、緊張を解くように、はぁ…と深いため息をついた。頬に当てていた手で慰めるようにスマイルの頭を撫でながら、ペコはそっと頬に口付ける。
 これじゃいつもと逆じゃねえかとペコは苦笑を噛み殺す。そうして、初めて本心からスマイルのことが好きだと思った。片手で腕にしがみついて声を殺しながら、一筋二筋、静かに涙を流し続けるスマイルが、ひどくいとおしかった。
 そうしながらも、俺はきっとこいつを見捨てるんだろうなとペコは考えた。スマイルの言うとおりだ、邪魔はされたくない。世界の一番に立つ為ならどんな障害も乗り越えてみせる、そう思っていた。そしてスマイルがその障害となるなら、それもまた乗り越えるだけだ。
 スマイルを好きだと思いながら、もしかしたら一番嫌いになるのかも知れなかった。その可能性はある。
 それでもいい――ペコはスマイルの耳元に唇を触れながら考えた。
 それでも、いい。
 今はまだこの手のなかに置いておける。いつか嫌いになる日が来るとしても、今は存分に好きだと言える。
「スマイル」
「ん…」
「スマイル、好きだよ」
「うん…僕もね、ペコが好きだよ」
「知ってるよ」
 互いの言葉に二人は小さく笑いあって、そのあと、長い長いキスをした。

  −それでもいい 了−


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