やけにきれいに晴れ渡った朝だった。
「コーヒーが良かったら、自分で淹れろ」
「孔は?」
「私はウーロン茶」
「自分で飲まないくせに、なんでコーヒー置いとくの」
「たまに飲む。客にも出せる」
 まぁ客など滅多に来ないがなと言って孔は笑った。
 トーストと目玉焼きの簡単な食事をしながら、二人は何度もキスをした。
「口のなかのものを飲むまで待て」
「駄目」
 もごもごと口を動かし続ける孔に、スマイルはそっと唇を重ねる。テーブルに向かい合って、身を乗り出し、互いの指をもてあそぶように握り合いながら、何度も何度も繰り返す。
「今日は仕事?」
「いや、辻堂に行く。春休みのあいだは昼に部活、夜に仕事」
「岡野くんによろしく言っといて」
「ああ」
 食事を済ませると、二人は互いの携帯を取り出した。そうして自分の機械に登録してあるお互いの電話番号を消しあった。
「まあでも、来る気になればいつでも来れるんだよね。場所わかってるし」
「今度来る時はダンボールを持ってこい」
「ダンボール? なにに使うの」
「そこに『拾ってください』と書いてな、お前がなかに入るんだ。私は冷たい目でそれを見て、知らん振りしてドアを閉める」
「ひっでー」
「一晩中うるさく鳴いたら、入れてやる」
「ドア叩きまくってやる」
 くすくすと笑って、またキスをする。手を握り合い、そうしながらも、スマイルは立ち上がった。
「じゃあね」
「ああ」
 握り合った手をゆっくりと伸ばして離れてゆく。何度も振り返りながらスマイルは玄関で靴をはき、ドアを開け、笑って手を振り、手を振られ…そうして、二人は別れた。
 きれいに晴れ渡った、気持ちのいい朝のことだった。


 四月。
 学校が始まる頃、既に桜は散ってしまった。道路を汚すゴミと成り果てた美しい花びらを踏みしめながら、スマイルは住宅街を抜けてタムラへ向かった。
 子供たちは相変わらず道場に入り浸り、スマイルの周囲をグルグル回っては歓声を上げている。元気な叫び声を耳にしながら、スマイルはやれやれとため息をつきつつモップを動かす。
「なあおいスマイル、ペコが全日本出るって本当か?」
 いつものように煙草をくゆらせながら、カウンターのなかからオババが聞いた。
「本当だよ。この前ペコの家に電話して聞いたら、来月の半ばぐらいに戻ってくるってさ」
「大会は六月だろ?」
「いろいろ手続きとかあるんじゃないかな、よくわからないけど」
 言いながらもスマイルは窓の外を眺めている。はす向かいの家の庭で、一本だけ、大きな桜の木が満開になっていた。
「今頃咲いてる桜もあるんだね」
 そう言うとオババは振り返り、
「ありゃあなんだ、よっぽど日当たり悪ぃのか」
「まさか」
 暖かな春の日射しがさんさんと降り注ぐなかで、淡いピンクの花びらが風に揺れている。まるでそこだけ遅れてやってきた新しい季節のようで、奇跡って案外簡単にみつかるもんなんだなと、スマイルはぼんやり考えていた。

  −幸せの匂い 了−

   04/05/01 一部改訂


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