タムラのベンチに腰かけてモップを抱えたまま、スマイルは子供たちが打ち合う姿をぼーっと眺めている。
窓の外は厚い雲が垂れ込めており、どうやらさっきから少し雨が降ってきているようだった。陰鬱な空気のなかで、オババがかけっぱなしにしていったラジオをぼんやりと聴き、そうして嫌々立ち上がっては床に飛び散った汗を拭く。
タムラでのこうしたバイトも、半ば習慣的なものになってきた。相変わらず決まった生徒を持つわけではないが、毎週火曜と金曜にはこうしてタムラで時間を過ごすことにしている。ちなみに水曜と木曜と日曜は家庭教師のバイトをしている。自分で遊ぶ金は自分で稼げと母親に言われ、まあしごくもっともだと思ったゆえのバイトであった。
もともとそんなに使う用事があるわけでもないし、だからそれほど一生懸命稼ぐ必要もないのだが、ただ昔と違って誰かと一緒に居るのが苦痛ではなくなってきていた。むしろ人が居る時の方がなんやかや考えずに済むということを発見し、近頃ではバイトに忙しいことが嬉しくもある。
「店番ごくろー」
カウンターに入って会計を済ませていると、扉が開いてくわえ煙草のオババが姿を現した。
「お帰り」
「ほれ、土産」
そう言うと、スマイルに向かってポンとなにかを放ってみせる。スマイルは両手で受け取り、じっと手のなかのものをみつめた。
「…僕、煙草は吸わないんだけど」
「私もその銘柄は吸わないんだ。軽すぎてな。お袋さんにでもやってくれ」
未開封の白のパッケージには、それでもどこか見覚えがあった。多分、孔が吸っているのと同じものだ。一応ありがとうと呟いてスマイルは自分の荷物の上に煙草を放り投げた。
「なんで吸わない煙草をわざわざ買うんだよ」
「買ったんじゃねえ。なかに入ってたんだ」
「はあ?」
「自販機で煙草買って、取り出そうとしたらなかにあった。多分前の奴が取り忘れたんだろう。一応おかしなところはないと思うがな、吸う前に点検した方がいいぞ」
「…そんなもの、くれるなよな」
冬の一日はやけに短く感じられる。雨の様子はどうかとふと窓の外をのぞくと、白いものがちらほらと舞い降りてきていた。
「オババ、雪降ってるよ」
「どうりで寒いと思ったら」
あんまり寒いとメガネが冷たくなって嫌なんだよなぁと考えていると、不意にセーターを引っぱられた。
「お兄ちゃん」
振り返ると、見覚えのある子供が立っていた。二年ほど前から通ってきている小学生の菅原という男の子だ。
「練習、付き合って」
「いいよ」
空いている一番奥の台へ行き、フェンスを立てる。
「なんの練習?」
「こう打つヤツ」
そう言って菅原はラケットを握った手を胸元に引き寄せ、手前へと振り出してみせる。バックハンドのショートカット、いわゆるツッツキと呼ばれる打ち方だ。
菅原はなかなかに根気のある子供で、一つ教えると納得がいくまでひたすら繰り返す。どこか不器用な感じも受けるが、スマイルはその熱心さが嫌いではない。
「もう少し遅めに打ってみなよ」
何度か試しに球を送るが、菅原の打ち返す球は上滑りしてしまって、時に台を飛び越えてしまう。狙って打つのならともかく、コントロール出来ないのでは意味がない。
「焦らなくていいからさ、ちゃんと球を見て」
「はい」
多球練習ののち、短い休憩をはさんでラリーをしてみた。思った以上にコツがつかめている。二年続けるうちにおおまかな基本は体に入ったようだ。
「小学校って、部活あるんだっけ」
共にベンチに座り、菅原がラケットを拭くのを眺めながらスマイルは聞いた。
「あるよ。四月になったら卓球部入るんだ。毎日練習して上手くなるからね」
「頑張れ」
目指すものを持つ者の瞳は、いつだってまぶしい。スマイルは菅原の頭をぐしゃぐしゃになるほど撫でて笑ってみせる。菅原は最初その手の感触に驚いたように身をすくませたが、やがてスマイルを見上げて、照れたように笑った。
こんなふうに誰かの夢を応援するのは簡単だ。他人事だからというわけではないが、素直に頑張って欲しいと思うし、なにか手伝えることがあればなんでもしてやりたいと思う。
ペコの時がそうだった。もっともあの頃は頑張れと思う気持ちがありながらも、ペコ自身がスマイルの目標だったせいで、手放したくないという想いの方が勝ってしまった。だから余計にしがみついて、ペコの行く先の邪魔をして…お互い求め合いながらも、結局は苦しむ為に抱き合っていたようなものだった。
『邪魔すんなよ、スマイル』
何故いつも言われるまで気付けないのだろう。何故手に入らないとわかっていながら望んでしまうのだろう。
――なんで自分以外のものはみんな、きれいに見えるんだろう。
子供の頃、世界はいつも遠かった。自分の知らない規則で勝手に動いていて、そんななかでみんな、信じられないほど強く生きていた。
今同じように生きているつもりではあっても、たとえば菅原の目に自分はどう映っているのだろう? あの頃憧れた理想的な大人に、少しでも近付いていっているのだろうか。
ペコが居なくなって寂しくて、今度は孔を身代わりにしがみついている。孔は笑って受け入れてくれるけれど、今のままでは同じことの繰り返しになってしまう。嫌な思いをさせる為に一緒に居るわけじゃない。それはわかっているのだが――。
「オババってさ、若い頃に戻りたいとか思うことある?」
わずかに積もりつつある窓の外の雪を眺めながらスマイルは聞いた。カウンターのなかでイスに座りながらオババは「ああ?」と振り返った。
「若い頃って、幾つぐらいよ」
「幾つでもいいけど…僕と同じぐらいとか」
「ああ、嫌だね。絶対に嫌だ」
予想外の反応が返ってきて、スマイルは少し驚いた。
「そんなに嫌?」
「嫌に決まってる。あの頃は卓球のことしか頭になかったからな」
「だからさ、ほかの人生を送ってみたいとか思わないの」
「思わん」
バカなことを聞くなというふうな顔をして、オババは煙草の煙を吐き出した。
「どうせ違うように生きたって、結局卓球のことで頭がいっぱいになるに決まってる。そういうふうに生きたからな」
「ふうん…」
「ほかの人生なんざ考えられん」
そう言って笑った。
そんな強さが欲しいと、誰の笑顔を見てもスマイルは思う。