やけどをしそうなほど熱い湯に打たれながらスマイルはうつむいて立ち尽くしている。流れ落ちる湯は排水溝に呑み込まれてゆくが、それでも間に合わずに足元に溜まってしまう。かかとを付けたまま片足を上げて、溜まった湯のなかで何度かタイル地の床に叩きつけた。
「タオル、置いたぞ」
扉の向こうで孔の声がする。ふと顔を上げて、すりガラスの向こうで動く孔の姿をみつめ、ありがとうと小さく呟いた。
酔いはすっかり醒めていた。代わりにひどい疲労感に見舞われ、まだわずかに腰に残るしびれにどうしたら良いのかわからなくなり、ともかく帰ろうとだけスマイルは考える。
――帰ろう。
携帯の電話帳から孔の登録を消そう。そうして二度と、ここへは来るまい。
扉を開けてタオルを取ると、脇に灰色のスウェットの上下が置いてあった。寝巻き代わりに使えという意味か。体を拭いてタオルを首から下げ、とりあえず下着だけはく。そうしてスウェットは無視して脱ぎ捨てた自分の服を探した。
「なにをしている」
孔はベッドのシーツを取り替えながら、ふとスマイルの姿に目を止めた。
「Tシャツ…どこやったっけ」
「洗濯機のなかだ。――まさか帰るのか?」
「帰るよ」
簡単にたたまれていたジーパンを拾い上げ、足を通しながらスマイルは答えた。
「もう電車は終わった。月本、あきらめろ」
「…いいよ、歩いてく」
「雨が降っている。駄目だ」
「傘、貸してよ」
「月本」
叱るように言うと孔はこちらに振り返った。
「なにか、用事か」
「そういうわけじゃないけど…」
「だったら泊まれ。もう遅い」
そう言うと、シャワー室の前に置きっぱなしのスウェットを拾ってスマイルに放り投げる。
「着替えろ」
仕方なくスマイルは言われるままスウェットに着替えた。
「何時に起きる」
「別に、何時でも。昼までに家に帰れば大丈夫」
孔は目覚まし時計のアラームをセットしてスマイルの腕を引き、ベッドのなかに押し込んだ。そうして電気を消して、オレンジ色の豆電球が灯るなかで自分もベッドに入り込んできた。
ふとんをかけて横になり、まだ濡れたままのスマイルの髪をゆっくりと手で梳く。
「濡れているな」
「――煙草、吸わないの」
ベッドを抜け出してタオルを手に戻ってきた孔に、スマイルは聞いた。孔は驚いて足を止めた。
「何故だ」
「…嫌な時に吸うって言っただろ」
孔は答えないままベッドに腰かけ、「起きろ」と命令する。スマイルが体を起こすとなにも言わずに頭を拭いてくれた。
「お前はなにも考えるな」
がしがしと頭を拭きながら孔が言う。
「なにも考えない。そのまま寝る」
「…うん」
「また朝になる。朝になると、辛いのが始まる。だから、今は忘れる」
「……」
「私が居るのは、嫌か」
程よく拭き上がったスマイルの髪を手で梳きながら孔が聞いた。オレンジ色の光のなかで孔の瞳はやさしく、深い。
「…嫌じゃない」
そう言うと、孔はようやく笑った。
「良かった」
タオルを放り投げて二人はまたベッドに横になる。少しためらったあと、スマイルは孔の腰を抱くようにそっと手をかけ、力を抜いた。孔は頬杖を突きながらスマイルの髪を梳いている。暗がりのなかでかすかに笑っているのが見えた。
孔の胸元に顔を寄せて、スマイルはそっと匂いをかぐ。甘い匂いがほのかに香る。孔の匂いだ、とスマイルは思った。そのまま首筋に唇を押し付けた。孔はわずかに身じろいで、ふと顔を寄せてきた。
二人は静かに唇を重ねて、ゆっくりと離した。そうしてまた孔はスマイルの髪を梳き、スマイルはその手の感触に身をゆだねながら目を閉じた。
甘い匂いに包まれながらスマイルは眠った。誰かに抱かれながら眠るのは初めてだった。
−それもまた優しい手 了−