じっとりと汗ばんだ手でシーツを握りしめていた。息が荒く、鼓動が耐えられないほど速く打っている。
ベッドに横になった体は熱く、そのくせ、濡れた下着が肌に触れて気持ち悪い。
「…アクマ、てめぇ…っ」
当然のように誰も居ない部屋のなかで一人呟くと、ようやくペコは体から力を抜いた。そうして深いため息をついて、なんてぇ夢だと一人ごちた。
ひどくだるい体を起こして、薄暗い部屋のなかを見回した。そうしてドアの向こうの気配を探り、まだ同居人が起きていないことを知る。
――シャワー浴びよ。
肌寒い空気のなかで着ているものを全部脱ぐと、腰にタオルを巻いて静かにバスルームへと入る。熱い湯に全身を打たれながら、ペコはうつむいて、また深いため息をついた。
――なんで、アクマなんだよ。
よりによって何故あの男が。
それにしても、やけにリアルな夢だった。目を閉じると、未だにスマイルのささやきが耳に残っているような気がする。
『もっと欲しい?』
鈍い痛みのような感覚が走り、ペコの体は熱くなる。あわてて頭を振って、飛び散る湯のなかで頭を掻きむしった。
「だー、もうっ」
これで何度目だろう。こんなふうにして夢のなかでスマイルに抱かれたのは、今日が初めてではない。夢を見ている時はそれが夢だと全く気付かないまま、まるでなにかに酔うようにスマイルの腕に翻弄され、悦びを感じる。そうして一人で目を醒ましては深い悲しみに包まれた。
――会いたい。
ドイツへ来て一年が経とうとしている。あっという間の一年だった。
二部リーグの上位チームに入団が決まり、月に一度の公式試合をこなすうちに、チームを優勝に導くだけでなく、個人でトップの成績を収めることにも成功した。その功績を買われて一部リーグのチームから引き抜きの話をもらったのが二月の末だ。ビザの更新の為に今月中に一度日本へ帰らなければならないが、着々と目指したところへ進んでいっているという実感があった。
週に二度だけドイツ語の語学学校へ通う以外は殆ど毎日卓球のことだけを考えていられる。チーム専用のジムや体育館で好きなだけ練習が出来た。有能なトレーナーが細かく指導をしてくれて、確実に実力が上がっていることが自分でもわかった。まるで夢のような毎日だった。
なのに。
「……」
うつむいて、排水溝に飲み込まれてゆく湯を眺めながら、ペコは三度ため息をついた。
思い起こされるのはスマイルのことばかりだった。泣いちゃあいねえかと心配になり、寂しがっちゃいねえかと不安になる。そうしておきながらも心のどこかで、自分に会えないことをスマイルが寂しがっていてくれればいいとも願ってしまう。結局寂しくてたまらないのは自分の方なのだ。そのことに思い至るたびに深い自己嫌悪に包まれ、それでも懲りずに、また夢で会いに行く。
会って、腕に抱かれて、安堵する。だけど目が醒めれば、やっぱり一人なのだ。
湯を止めると体を拭いて部屋着に着替え、台所に行った。そうしてコーヒーを淹れて歩きながら一口飲み、目の醒めきらない頭のままソファーに横になる。
「んー、いい匂いがする」
隣接するもう一つの部屋のドアが開き、ジェイが姿を現した。
「おはよう、ペコ。早いね」
「うっす。ちょっとな…コーヒーあるで。飲みたきゃ飲めよ」
「有り難くいただきます」
わざとらしくそう言うと、バカ丁寧に頭を下げてジェイは緑色の目で笑う。
百九十近い長身で、ひょろりと痩せた後ろ姿は、時々びっくりするほどスマイルにそっくりだった。そのことに気付いたのはアパートで共同生活を始めてからのことだった。かすかに後悔もしたが、そんなことぐらいで部屋を移るのもバカバカしく、ジェイにも悪いと思ったので気にしないことにしていた。
ジェイは二部リーグでのチームメイトだった。ペコより三年早くブンデスリーガで活動していて、二年前に三部から二部へと上がったのだという。今年二十六になるというが(「ペコと違って遅咲きなんだよ」とジェイはよく笑う)、基本的に彫りの深い西洋人は、みんな五つは上に見えてしまう。
ジェイというのは本名ではないらしい。曽祖父の代にアメリカへと移住してきたスパニッシュ系の移民の子孫で、名前の発音が難しいからよく間違われるらしく、それならいっそのこととミドルネームのJだけで呼ばせているそうだ。
そういうペコも、勿論自分の愛称を周りに押し付ける努力を怠りはしなかった。
「浮かない顔してるね」
テーブルの向かいに腰をおろしてジェイは口の端を持ち上げる。
「嫌な夢でも見た?」
「まあな…」
飲み頃までに温度の下がったコーヒーを口に運びながら、ペコはぼんやりと生返事をする。
「元気出しなよ、今週末には日本に帰るんだろ」
「ビザの更新済ませるだけだよ。終わりゃあとっとと戻ってくる。引越しもしなきゃなんねえしな」
そう言ってペコはソファーの上で器用にも大きく伸びをする。
移籍に伴い、現在住んでいるハンブルクから、チームの本拠地であるハノーバーへ移ることにしたのだ。チーム移籍では高待遇を約束されており、恐らく誰かとルームシェアする必要はなくなるだろう。全くの自由を手に入れられるが、少し寂しくなるような気もする。
「せっかくなんだからゆっくりしてくればいいのに。別に大事な試合があるわけじゃないだろ?」
「そうだけどさ」
「一年振りに恋人と再会出来るんだからさ、もっと喜びなよ」
「恋人ねえ…」
ジェイの言葉に、ペコはふと口をつぐむ。