目を閉じたままでも朝の光が感じられた。続いて聞こえてくるかちゃかちゃという音がなんなのか、考えなくてもスマイルにはわかった。
ペコが起きて仕度をしている。そうして、やがて部屋を出ていってしまう。
これが最後ではない――そう何度も自分に言い聞かせて、つい伸ばしそうになる手を、ふとんのなかで握りしめた。
「スマイル、俺行くわ」
当然返事があるものというふうにペコが言った。スマイルはなにも知らないフリをして、じっと狸寝入りを続けている。
「スマイル」
もう一度呼びかけて、返事を待つ。
「…頼むよスマイル、起きてんだろ」
そう言ってベッドのそばに座り込んできた。じっと息を殺して、顔を見下ろしているようだった。
「……ペコの方がホントは意地悪だよねぇ」
「やっぱ起きてんじゃねえかっ」
「起こすなよ、起きてたけどさ…」
そう言って、笑おうとして、失敗する。もぞもぞとふとんから手首を出して、誘うように広げた。ペコはその手を握り返すと、少し照れたように笑って、
「んだよ、昨日さんざん人のこといじめといてよぉ」
「ペコがいけないんだ」
「……」
「ペコのせいだ」
「…知ってるよ」
そう呟いて、スマイルの手にそっと唇を押し付けた。
「まだ出発まで日があるしよ」
「うん」
「オババの顔も見に行かなきゃなんねえし」
「うん…」
「また、しようぜ」
「…いじめてもいいなら」
「んっとに、エロオヤジが!」
叱るように握った手をぱしんと叩いて、苦笑しながらスマイルに口付けた。
「愛してんよ」
「ん…」
「聞いてんのかよ」
「聞いてるよ」
笑いながら、また唇を重ねる。
握りしめたペコの手が温かかった。かすかに花の香りがして、スマイルは、あぁもう春なんだなぁと遠いところで思った。
桜の花びらが舞う神社の境内で、お社の前の石段に腰をおろしながらスマイルは遠くをみつめている。
吹き渡る風が午睡を誘うかのように温かい。もう三月も終わる。
今頃ペコは入団テストを受けている頃だろうか、もう終わった頃だろうか。以前恐れたように、やはりこんなふうにスマイルは、遠い異国の人を思って、一人寂しくなる。
――ペコが寂しくありませんように。
両手を組み合わせて、祈るかのようにスマイルは思う。
自分のことなど忘れて、平気な顔で、ただ前へと進んでいて欲しい。スマイルが願うのはそれだけだ。
出発までに、二度ペコを抱いた。抱き合うほどに胸のなかの寂しさは募っていった。どこまでいっても結局ペコは他人なのだ。自分の想いが伝わるわけではないし、ペコの本心もわからない。どんなにつながりあおうとしても、一つになることは決してない。
離れてしまえば、とたんに寂しくなる。
ペコの夢を応援したかった。てっぺんを取ると言った時の誇らしげな顔がうらやましかった。追いついて同じ風景が見たかった。時々立ち止まって、早く来いよと言ってくれたけど、結局追いつくことは出来なかった。自分はペコにはなれなかった。
『邪魔すんなよ、スマイル』
そう言うペコが好きだった。だから、自分が寂しいのは、当然なんだ。
寂しいことが、嬉しい筈なのに。
「……っ」
ひそかに、組み合わせた手のひらのなかに、ペコの体温を感じた。若草のようなペコの匂いを思い出して、スマイルはふと息を詰める。
――やっぱり、こうなんだ。
静かに涙を流しながらスマイルは思った。
やっぱりなにかしがみつくものがないと生きていけないと感じる。それが確かに手のなかにないと不安でたまらない。
一体いつになったらこんなことがやめられるんだろう。いつになったら自分一人の足で立って、きちんと生きていけるようになるのだろう。
こうなることはわかっていた。とっくの昔にわかっていた。覚悟は決めた筈だったのに。
こんな苦しい思いをするぐらいなら、何故昔のままで居なかったんだろう。何故あの時我慢しなかったんだろう。手に入らないとわかっていながらどうして求めてしまったのか――。
スマイルはうつむいて、深く息を吐いた。わずかにこぼれた自分の涙が足元を濡らしているのが見えた。それがまるで他人事のようにおかしくて、不意に苦笑が洩れた。
――バカバカしい。
これで良かったんだ。むしろこうなることを心のどこかで望んでいた。手に入らないものなら、いっそのこと、本当に手が届かないほど遠くへ行ってしまって欲しい、そう思っていた。
望んだとおりになった。それだけの話だ。…それだけの話だ。
そう思うのに、やっぱりスマイルは寂しくて、悲しくてたまらない。手に入れたと思ったとたんに失うことを恐れて、必死になってしがみついて、それでも結局はこの手のなかをすり抜けていってしまった。最初から手に入れてなどいなかった、そう思えばいいだけの話なのに。
幸せはいつだって遠くにある。手が届かないほど遠くにある。
遠くで、元気に生きている。
スマイルは再び熱いため息を吐いて、少し泣いた。
『笑えよ』
そう言って怒った顔をするペコを思い出しながら、静かに泣いた。そして泣きながら、誰のせいだと思ってるんだよと、小さく笑った。
−君のせい 了−