酒を飲むなんて久し振りだなとぼんやり思いながら、風間は居酒屋の座敷であぐらをかきながら壁に寄りかかっている。
 酔いにかまけた騒ぎの声があがるのにつられて笑ってはみせるが、どことなく意識は遠い。酔いの回りきらない頭のどこかが、いつもなにか別のことを考えているような、さっきからそんなおかしな感じがずっと続いている。
 とはいっても、別に酒を飲んだからそうなったわけではない。実はここ一年ほども、そんな状態のまま過ごしてきた。ひたすら練習に打ち込んでいても、大学で授業を受けていても、下手をすると試合中ですら、どこか自意識とはかけ離れたなにかが自分のなかに存在していて、それが頭のなかで勝手に動き回っていた。
 原因はわかっている。
「なんだおい、静かだなぁ」
 声に顔を上げると監督の吉田が、赤い顔をして風間を見下ろしていた。手に持ったグラスをガダンっと音がするほど勢いよくテーブルに置いて、空いたままの風間の隣に腰をおろしてくる。
「飲んでるか?」
 有無を言わさぬ勢いでビール瓶をつかみ、風間の目の前で三十分近くも放置されていたグラスを示してみせた。「はい」と小さく笑いながら風間はグラスのビールを飲み干し、吉田に向かって差し出した。
「なんだよ、久し振りに会ったってぇのに陰気くせぇ顔しやがって。やくざにでも因縁つけられたか?」
「何故私がそんな目に遭わなければいけないんです」
「お前は性根がとことんやさしいからなぁ、訳ありの女でも拾ってかくまってんじゃねえかと思ったんだよ」
 そう言って吉田はげらげらと笑う。吉田の言い種につられて風間も笑いを洩らしたが、本当にこの人は思いも寄らないことを言うなと内心驚きを新たにしていた。
「私は、やさしくなどありません」
「んなこたぁねえよ」
「あります。…自分でも嫌になるほど、勝手な人間です」
「おお、勝手でどうした。勝負の世界で生きるんなら、いくらでもわがままになれ。まぁ協調性を乱すなぁいかんがな」
「――はい」
 三年近く世話になった師の言葉を、風間はビールと共に飲み込んだ。
「どうだ、新しい世界は。さすがに大学の部活とは違うだろう」
 ふとしらふの顔に戻って吉田が聞いた。
「そうですね…ある意味戻る場所がないというのは、非常に清々しくて気分がいいです」
「まあ俺らと違って、卓球で食ってく奴らだからな。シビアっちゃあシビアなのは当たり前だ。だがそこへ入ることすら出来ない奴らが大勢居る。それを忘れんな」
「はい」
 風間の短い呟きを機に、二人の周囲だけが不意に沈黙に包まれた。吉田はポテトフライを口に放り込み、風間はぼんやりと手元に視線を落としている。
 大学三年の秋季大会が終わった直後、とある企業から契約選手にならないかと話をもらった。プロとして卓球が続けられる。幼い頃から卓球だけを生き甲斐にして生きてきた風間にとっては、またとない話だった。
 秋季大会以後は殆ど大学の方では目立った試合もないので、そのまま実業団のチームに参加することにした。そうして約三ヶ月が過ぎた十二月半ばの今日、風間は久し振りに大学の忘年会に顔を出したのだ。
 懐かしい顔ぶれを見て、さほど離れていたわけでもないのに、やはり安心した。そうしながらも、そんな自分の甘さに少し嫌気が差した。そして、どうしたら良いのかわからないまま、三十分近くもじぃっと自分のグラスをただみつめていたのだ。吉田が「陰気臭い」と言うのもうなずける。
 もっとも、気が晴れないでいるのはここ何日かの話ではない。もうずうっと前からこんな状態が続いていた。原因は明らかだ。
『もう来るな』
 孔と別れて一年以上が過ぎた。心の傷はまだまだ深い。
「やっぱり企業の運動部は、金回りがいいのか」
 不意に吉田が聞いてきた。
「そうですね…特に私の所属している会社はそういった活動に力を入れているので、かなり優遇されている方だとは思います。もっとも、それなりの戦績を残さないと、このご時世ですからあっさりと潰される可能性はありますが」
「まあそれはどこも同じだろうがな。経営難で潰される部も珍しくはない」
「そういった意味では本当にいい待遇です。――明後日、またヨーロッパへ行くことになりました」
「ほお。なんだ、親善試合か?」
「はい。スウェーデンを中心にいくつか国を回るそうです」
「ドイツには寄るのか」
 グラスのビールを半分ほど空けて、眠そうにげっぷをしながら吉田が聞く。
「最終地がドイツです」
「ドイツっていやぁ、ほれ、あの若いの…」
 酔いのせいか、喉元まで名前が上がりながらも、口から先へ出てこない様子だった。風間は笑いながら「星野ですか?」と聞き返した。
「そうそう。あのおかっぱ頭。ありゃあしっかし、すげぇなあ」
「そうですね。やはり才能のある人間は違います」
「…才能な」
 ぽつりと呟いて、吉田はふと寂しそうな顔をする。
「俺も昔はなぁ、世界中の強豪と肩並べて戦ってやるんだ、なんて意気込んでたもんだがなぁ」
「監督は確か、全日本で優勝なさったことがおありでしたよね」
「ああ。もう二十年も前の話だがな。あの頃が俺の全盛期よ。今じゃ老体に鞭打って、ひいこら言いながらなんとかやってるような状態だ」
「そんな。監督の指導あってこその我々ではありませんか」
「…ありがとうよ」
 吉田はふとグラスをぶつけてきた。
「そういう暇もあんまりないかも知れねぇけどよ、また顔出せよ。お前のそのクソ真面目な顔がねえと、どうもみんなだらけて仕方ねえ」
「クソ真面目ですか」
 グラスを口元につけながら風間は思わず吹き出した。
「そりゃそうと、また痩せたんじゃねえか? 飯も食えないほど大変なのか」
「いえ…」
 練習量は大学の部活と比べても、それほど多いわけではない。ただなにを口に入れても美味いと感じることがなくなってしまい、ここ一年で少し痩せたのは確かだ。体力勝負の世界でこんなだらしないことではいけないと思うのだが、上手い気分の晴らし方がわからなくてずっと困っている。
 考えまいとはしているのだが、ふと気を抜いた瞬間に、孔の顔が思い浮かんでしまう。
『もう来るな』
 あまりに突然の拒絶だった。なんの理由も告げず――追究することも出来ないまま、最初からそんな関係などなかったかのように、風間の日常から孔が姿を消してしまった。それまで当たり前のようにあった腕のなかの温もりを失ってから、それがどれほど大切だったのかを思い知った。
 思うのは、いつも同じことだ。
 もしあの時、無理にでもなんらかの理由を聞き出そうとしていたら、違ったのかも知れない。もしあの時「嫌だ」と言っていれば――だが、もう遅い。全ては終わった。
 ――あきらめろ。
 何度も何度も自分に言い聞かせてきた。だがそう簡単にあきらめられるのであれば、そもそもこれほど苦しむことはない。
 ――進歩がないな、私は。
 ふとそう思って、風間はこっそりと嘆息する。
 以前、孔に告白した時も同じような状態だった。しきりに孔の姿が頭をかすめ、苦しくて飯が喉を通らなかった。ただ違うのは、あの時は自分で決断をくだした。もし会えなくなるとしても、それでもいいと覚悟を決めて想いを告げた。今とは状況が違う。
 一年以上も経つのになぁと、ぼんやり思いながら風間はグラスを口に運んだ。
「またなにか悩み事か」
 吉田の声に風間は振り返った。吉田はテーブルに片肘を突いたまま、にやにやと面白そうに笑いながらこちらを見ていた。
「お前は気がやさしすぎるんだよ。たまには好き勝手してみろいな。お前の人生だろ」
「はあ」
「やさしくなきゃ生きる資格はねえがな、やさしいだけで生きていけるほど、世の中甘くねえぞ」
 風間はふとグラスをテーブルに戻して吉田の顔をみつめた。
「物事にはなんでも裏表があってな、一つ見方を変えるだけで全部ががらりと変わっちまう。やさしいのはお前の長所だ、だが裏から見りゃあ、そんなもんはただの甘ったれだ」
「……」
「一本気なだけに、お前が心配でたまらん」
「…申し訳ありません」
 そう呟いた風間の肩を吉田は痛いほど強く叩き、
「なにあったか知んねえけどな、元気出せ」
 そう言って笑った。
「愚痴言いたきゃ好きなだけ言え。いくらでも聞いてやるぞ」
「――いえ、大丈夫です」
「そうか? たまにはばーっとぶちまけてすっきりするのも手だ。女が欲しいなら俺の姪っ子が喜んで待ってるからな」
 吉田の言葉に、風間は苦笑した。以前一度だけ試合を見物に来て紹介されたことがある。どういうわけか吉田は自分の姪を風間とくっつけたくて仕方がないらしい。かわいらしい子だとは思ったが、中学生と付き合うほど飢えているわけでもない。
 そう、誰でもいいという話ではないのだ。そのたった一人がこの手のなかになくて、もう二度と取り戻すことは無理なのかと、頭を抱え、後悔ばかりが続いている。


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