現在堂島家の車庫は空になっている。そこへ足立は車を入れてライトを消した。家に着いたあとも孝介は離れがたくて、わざとらしいかなと思いながらも「お茶でも飲んでいきませんか」と、努めて普通の声で誘ってみた。
「あー、うん。じゃあ御馳走になろうかな」
 足立はエンジンを切るとシートベルトを外した。孝介は元気よく返事をして車を降りた。玄関の鍵を開けて電気を付けて回り、暖房を入れると共に湯沸かしポットのスイッチを入れる。棚から湯呑を取ろうとして、コーヒーの方がいいかな、でもそれだとインスタントになっちゃうなと思って振り返った。
「足立さん」
 予想していた場所に足立の姿はなかった。不思議に思って孝介は玄関まで歩いていった。足立は寒々しい空気の残る三和土に突っ立って孝介を見上げていた。
「どうしたんですか」
「あーっと、その……」
 ポケットに入れていた手を出して足立は申し訳なさそうに鼻を掻いた。
「ごめん、やっぱり帰るよ」
「え……」
 一瞬混乱してしまった。まさか帰るなどと言い出すとは思わなかったから、なんと返事をすればいいのかわからなかった。孝介は廊下に立ち尽くして足立を見下ろしている。足立はポケットに手を戻すと困ったようにうつむいた。
「いや、こういうこと感じるのが初めてなもんで、ちょっと自分でもどうしたらいいのかわからないんだけど」
「……」
「……その、こうやってなにもなかったみたいにまた君と仲良くなるのってさ、虫が良すぎる気がしない? いや、僕がっていうことなんだけど」
「そんな」
 だが孝介は言葉が続けられなかった。気にし過ぎだと言ってやるには、思い当たる節があり過ぎた。足立は、でしょ、と言うように小さく笑った。
「だから今日は帰るよ。一回くらい自分にバチ当ててやんないと、なんか申し訳なくって」
 なんとなく納得がいかなかったが、孝介は無言でうなずいた。足立が帰ると言うのであれば邪魔立てをするわけにもいかない。しかし帰ると言った癖に、足立はやはり動こうとしなかった。
「――で、帰るつもりなんだけど」
 つもりなんだけどさあ、と繰り返してまた困ったようにうつむき、ガリガリと頭を掻いた。そうして髪の毛をぼさぼさにしたままちらりと目を上げた。
「このまま帰るのも、ちょっと淋しいので」
「ので?」
 足立は無表情に両手を広げた。
「帰る前に、一回抱きしめてもいい?」
 返事をするよりも早く腕のなかへ飛び込んでいた。足立はためらいながら腕を上げ、そっと背中を抱き返してくれた。
「……帰っちゃうんですか」
「うん」
 顔を上げると、足立は困ったように笑っている。なんだか妙に大人な態度が憎たらしくて、孝介は両腕に思いっきり力をこめながら再度訊いた。
「帰っちゃうんですか」
「あだだだだ、ちょ、背骨折れる、背骨っ」
 孝介は苦笑して腕の力をゆるめた。
「……遠慮とか、足立さんらしくないですね」
「うん。僕も自分で驚いてる」
 そう言って額を合わせてきた。
「なんか、君と会うようになってから初めてってことが多くてさ」
 口元が苦笑するように動くのが見えた。
「たとえば?」
「……仕事ほっぽり出しても会いたいって思ったり、声が聴きたくなって夜中に電話したり、一日中いやらしいことして君の可愛い顔ずっと眺めてたいとか思ったり」
「もういいです」
 孝介は恥ずかしくなってうつむいた。足立は小さく笑うと片手を上げて頬に触れてきた。
「……不用意なこと言ってまた傷付けるんじゃないかって怖くなったり、生まれて初めて後悔したり、大事にしたいんだけど大事にするってどういうことなのかわからなくて」
「……」
「ホントにわかんなくって、正直ずっと困ってる」
 そうして初めて、まぶたに唇を触れた。そのまま、また強く抱きしめられた。
「おかしいよなあ。僕、頭いい筈なんだけどなぁ」
「……そういうこと言うと頭悪そうに聞こえるからやめた方がいいですよ」
「うわ、ムカつく」
 不意に鼻をつままれた。
「こーんなに生意気なクソガキなのになあ。図体だってでかいし、妙に小賢しくってたまに腹が立つのに」
 足立は一度指先で髪を梳いた。そのまま頬に触れようとした手を寸前で止めて、孝介の背中に回してしまった。
「なんか、僕なんかがさわったら壊れちゃいそうで、怖くてさ」
 足立のかすれた声は玄関の寒々しい空気のなかで静かに消えた。顔を上げようとするのを、強く抱きしめる腕が押さえつけた。
「好き過ぎて、どうしたらいいのかわかんないんだ」
 いつの間にか背広にしがみついていた。ゆっくりと顔を上げると、足立は苦しそうな顔で眉間に皺を寄せている。孝介はそっと額を合わせて言葉を考えた。息を整えてからでないと嬉しくて泣いてしまいそうだった。
「笑ってください」
 足立の目は、まだ不安そうに落ちている。
「なにして欲しいとか、俺だって自分でもよくわかりません。でもこうやって一緒に居てくれるだけですごく嬉しいんです。だから、その……」
「……そんなことでいいの?」
「俺にとっては『そんなこと』じゃないんです。それが一番なんです」
 なにも出来ないのは自分だって同じだ。正直自分なんかのどこがいいんだと問い詰めたいほどだ。孝介は額を離して目をみつめた。
「いつもみたいに笑ってください。足立さんが元気ないと、俺まで元気なくなります」
「それは困っちゃうね」
 言葉どおりに足立は苦笑する。孝介も同じように笑い返した。
「足立さんが居てくれるだけでいいんです」
 こうして腕のなかに居ると、このひと月、どれだけ淋しかったのかを実感する。わけもわからず離れることになってどれだけ辛かったのかを思い出す。ふと泣きそうになり、孝介はあわてて息を詰めた。目を上げると、足立もわずかに目を潤ませて孝介を見ていた。声もなく笑った時、唇が重ねられた。
 足立が居る。ここに居る。
 こんな気持ちでまた会えるなんて夢みたいだ。
 唇が離れたあと、孝介は急いで目を上げた。少しでも目を離したら足立の姿が消えてしまう気がして怖かった。足立はその不安に気付いているのか、優しく笑ったあと、頬に手を触れてきた。
「……帰っちゃうんですか」
「うん。今日だけ」
 足立の意志は固いようだった。頬に置かれた手に手を重ねると、足立はそれを握って手の甲に唇を触れた。
「おやすみ」
 指が離れていく。扉が開けられた。扉を閉めようと振り返った足立は一度はっきりと笑い、なにも言わずに閉めてしまった。
 車に乗り込む音が聞こえる。エンジンがかけられた。
 車が去っていく時、一度短くクラクションが鳴らされた。孝介は三和土に立ち尽くし、足立の唇が触れた手をもう一方の手で握りしめたまま、それを聞いていた。


 大通りを走っている時、どうしても我慢出来なくなって足立は車を路肩に寄せた。ハザードを出すのももどかしく運転席で頭を抱えてうずくまり、ダッシュボードをこぶしで殴り付けた。うめき声を上げて何度も何度も、痛みなどわからないまま何度も何度も殴り続ける。
 ――君と会って初めて人生を後悔している。
 顔を上げた時、大粒の涙がこぼれ落ちた。泣いている自分がおかしくて笑おうとしたが、それはそのまま嗚咽に変わった。
「なんだよ……っ」
 窓の脇を車が何台も通り過ぎていった。運転席に座った足立は世界から切り離され、これ以上ないくらいに孤独だった。
「なんだよ、今更……!」
 君に会って初めて人生を後悔した。四月の自分をやり直せないだろうかと、今はそればかりを考えている。だけど、そもそもそれが全部の始まりじゃないか。あれがなければ絶対に君を好きになんかならなかった。こんな想いを抱えることはなかった。今更だ。
 全部今更だ。わかってるのに。
 足立は涙を止められない。頭を抱え、うめくようにして泣き続けた。君を大事になんて出来るわけがない。そもそも僕は最初から君を裏切っている。こんな風にいくら格好をつけたってその事実は変わらない。変わらないのに――。
 今ここで誰かが車で突っ込んでくれないだろうか。泣きながら足立は願っていた。今だったら本当にどうなってもいい。こんな想いを抱えたまま、どうやってまた君と顔を合わせればいいんだ。だけど、心はあの子を求めている。今すぐ取って返して君と滅茶苦茶に抱き合いたい。
 どうすればいいのかがわからない。
 ほかにどうしようもないのはわかっているのに、わからない。
 頼むから菜々子ちゃんを救ってくれ。あの子は僕のせいでテレビに入れられた。生田目を焚き付けたのは僕だ。全部僕のせいだ。僕が始めたんだ、わかってる、わかってるよチクショウ!
 足立は泣き続けた。誰にも見せられない涙を流し続けた。だけどどれだけ泣いても事実は変わらない。後悔なんて意味がない、それがわかるからこそ涙は止まらなかった。
 あふれる涙のなかで見る町の景色は綺麗だった。光がきらきらと瞬くようで、孝介に見せることが出来たら喜んでくれるだろうかと、バカなことを考えた。
 ――君が居てくれたらいいのに。
 ほかにはなにもいらないから。そう思った瞬間、また激しい嗚咽が湧き上がってきた。どれだけ泣いても気が済まなかった。
 心のなかには孝介が居た。笑ってくださいという声が聞こえた。君が望むならいくらだって笑ってあげる。だからお願いだ、側に居て。君を裏切って今も裏切り続けている僕を、どうか見捨てないで――。


夢にまで見た/2011.01.25

2011.02.12 一部加筆訂正


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