孝介は居間で落ち着きなく電話を待っている。
一時間ほど前に足立から電話があり、もう少しで上がれそうだと連絡をもらったのだ。仕事が終わった段階でもう一度電話が掛かってくる筈なのだが、待てど暮らせど電話の呼び出し音はピクリとも鳴らなかった。
急な仕事でも入ったのだろうか。会議かなにかが長引いているのだろうか。試しにこちらから掛けてみようかとも思うが、それこそ仕事中だったら迷惑になるだけだし、などと考えてはうろうろと台所を歩き回り、あきらめてソファーに座る。そんなことの繰り返しだった。
とりあえず落ち着こう。そう思ってゲームを始めてみたが、いつ電話が掛かってくるかわからないから呑気にレベル上げも出来ない。折り紙はどうだと思って幾つか挑戦しても、折鶴三個が限界だった。
テレビは面白くない。本なんか読む気にもなれない。電話が遅くなればなるほど、結局夕飯を一緒に食べる約束は反故になるんじゃないかと不安も募る。だがもっと待たされるくらいなら、せめて駄目でもいい、連絡が欲しい。しかし電話は沈黙を続けていた。
「だーもー、早く掛けてこーい!」
我慢出来ずに叫んでしまう。
昔の人は本当にすごい、と孝介は思った。携帯電話などなかった時代、人はどうやって待ち合わせをしていたのだろう。そしてどれくらい人を待ち続けたのだろう。暇を潰すテクニックがあるなら是非とも伝授して欲しかった。それほどまでに足立からの連絡が恋しくてたまらない。
現金なものだ、とは、自分でも思う。
とうとうあきらめて漫画を読み始めた時、やっと電話が掛かってきた。
『ごめん、遅くなっちゃったね』
「……も、待ちくたびれました」
電話を待ち望んでいた筈なのに、いざ掛かってきた時、口から飛び出したのは拗ねたような言葉だった。あまりに早く飛びついてそんなに待ってたのかと思われるのも癪だったし、機嫌を損ねているのも事実だった。だが「ごめん、本当に申し訳ないっ」と謝る足立の声を聞いていると、そうやって意地を張っているのがなんだかバカらしくなってしまった。
「いいですよ、別に。仕事なんだろうし」
そう言うと、電話の向こうで足立は安堵のため息をついた。
『そうなんだよ。そろそろ上がりって時に書類の整理言いつけられちゃってさ。ええっと、で、ご飯まだだよね? っていうか、食べられそう?』
「大丈夫です。お腹減ってます」
『よかった。じゃ、すぐに迎え行くから。着いたらまた電話するね』
「はい」
そうして電話を切ったあと、ちょっと待て、と孝介は考えた。わざわざ家まで迎えに来る気か? 飯を食うならどこかで待ち合わせでもした方がよくないか? っていうか、迎えに来るのに「着いたら電話する」ってどういうことだ?
疑問の答えは十分後に得た。再度足立から電話があり、以前止めていたのと同じ場所に車で来ているから出てきてくれというのだ。
「言っといてくれれば待ってたのに」
『いやぁ、そろそろ寒くなってきたしさ、外で待たせるのもなんか申し訳ないなって』
すぐに行くと答えて孝介は電話を切った。部屋の電気を消して玄関に鍵をかけると、既に真っ暗な道を勢いよく駆け出す。
通りに出た瞬間、足立は前と同じようにクラクションを短く鳴らして知らせてくれた。ハザードの点滅が妙にまぶしくて、孝介は目を細めて車に近付いた。ドアを開けて助手席に乗り込むと、足立は笑いながら無言で頭を撫でてきた。
「どこ行くんですか?」
シートベルトを引きながら孝介は訊く。
「あのさ、ファミレス行かない? なんか愛家も定食屋も、美味しいんだけどさすがに飽きてきちゃってさ。普通の、ごく普通のファミレスで安っぽいハンバーグが食べたいんだ」
よほどファミレスが恋しかったようだ。足立の口調はひどく熱のこもったものだった。その勢いがおかしくて、孝介は笑った。
「いいですよ、どこでも」
「よし、じゃあ行くよー」
足立は嬉しそうに言って車を出した。
「ファミレスって、この辺にありましたっけ?」
「十分くらい行った先に一軒あるかな。っていうかさあ、車で移動しないとファミレス行けないっていうのが、ホントに田舎だよね」
「コンビニもないですしねぇ」
孝介は苦笑する。
「まぁでも、お陰で君とドライブ出来るしね」
何故か不安を覚えて孝介は振り向いた。足立は気楽そうな面持ちで運転を続けている。視線に気付いて一度こちらを見ると、なに、と訊くように首をかしげてみせた。孝介は答えないまま顔を前に向けた。座席に背をもたれ、そういえばあの頃から様子が変になったんだよな、と考えた。
夏休みの終わり頃だ。久保美津雄が捕まったあと。あの辺りから足立の様子がおかしくなった。気が抜けた、などと言っていたが、それだけでは説明がつかない気がする。
なにがあったのか訊きたい気持ちは確かにあった。だけど今は怖くて無理だ。もしひと言でも話題を振って、その瞬間にまた足立があんな風になったら、多分自分は耐えられない。
足立の笑顔を消したくない。
孝介は窓の外に目を向け、流れる景色をぼんやりとみつめた。そうして、それにしても、と考えた。
この半年ほどのあいだ、本当にいろんなことが起こった。四月の殺人事件、マヨナカテレビ、諸岡殺し、久保美津雄の逮捕。仲間が出来た。楽しいことがいっぱいあった。その合間に足立とこんな風になって、でもなんだか上手くいかなくて、菜々子が誘拐されて遼太郎が事故で入院し、また足立が側に居る。
今度はいつまで続くんだろうと考えてしまうのは、やはり不安が大きいからだ。あの真っ暗な目を思い出すたびに、俺はこの人のことをなにも知らないんだなと強く思う。
なにを抱えているのか。どんな風に生きてきたのか。
たった半年で全部わかる筈はない。孝介が知っているのは足立の一面だ。それは向こうにしたって同じ筈だ。足立に隠していることはたくさんある。でもだからって好きだと思うことは嘘じゃない。
同じように足立を信じたい。だけどあの真っ暗な目を、孝介は忘れることが出来なかった。
「はい、到着ー」
明るい声が孝介を現実に引き戻した。
窓際の席に通された足立は、メニューを開きながら「ハンバーグ、ハンバーグ」と歌うように言っている。
「そんなに食べたかったんですか」
「夢にまで見た。嘘だけど」
そう言ってけらけらと笑った。
「ファミレスって洋食も和食もあるのがいいよね」
「デザートも揃ってますしね」
「あー、デザートどうしよっかなー。ミニチョコサンデーも美味しそうだけどパンケーキも捨てがたいしなぁ」
そんなに入るのかと呆れてしまった。
「とりあえずメイン食べてから考えたらどうです?」
「んー……」
足立は不意にメニューをテーブルに広げると、「お子様ランチ食べたくない?」と写真を指差した。
「すごいよ、これ。おもちゃ付きだってさ」
「……いい歳した大人なんですから」
「じゃあ君頼んでよ。一応未成年だし」
「一応ってなんですか。っていうか、ここに『十二歳のお子様まで』って但し書きがあるでしょうに」
「……十二歳の真似は」
「無理です。菜々子が居たら――」
喉の奥に言葉が詰まった。
沈黙に気付いて目を上げると、足立がしまった、という顔でこちらを見ていた。孝介は小さく笑い返しておいてメニューへと視線を戻した。
「ホラ、いい加減決めましょうよ。俺、腹減ってしょうがないんですけど」
結局足立はデザートを頼まなかった。二人は言葉少なに食事を待った。
「足立さんの職場の机はやっぱり汚いんですよね」
「やっぱりってなに。っていうか、なんで断定的なの」
とか、
「今日の寝癖も芸術的ですね」
「まあね。ま、君がどうしてもって頼むんだったら、特別に触らせてあげてもいいよ」
「嫌ですよ、だらしないのがうつりそうだし」
とか、くだらないことをぽつぽつと話しながら時間を過ごした。やがてやって来た食事をまた言葉少なに片付け、コーヒーをお代わりする頃には、さすがに落ち着いていた。
足立は煙草を吸いながら腕時計に目をやった。
「このあとどうしよっか。まっすぐ帰るのも、ちょっとつまんないね」
孝介は首をかしげて考え込む。
「またあそこ行きませんか」
「ん? どこ?」
「星の綺麗なトコ」
煙を吐いた足立は、嬉しそうに笑った。
「いいよ」
寒い時期の方が闇は濃い気がする。
山頂へ向かう道には、相変わらず対向車が一台もない。足立はラジオを付けていたが電波の調子がよくないと言ってさっき消してしまった。
孝介は林が切れる一瞬を待ち構えている。そろそろだよと教えられて目を凝らしていると、言われたとおり木々の姿が消えて、裾野に広がる稲羽市が視界に飛び込んできた。冷たい空気に晒された町の光が滲んで見えて、あっという間に闇に呑まれた。
星は夏よりも大量に見えた。少しだけ外に出たけど、寒さに負けて二人ともすぐ車に戻ってしまった。暖房を効かせた車内で足立に手を取られながら星を見た。
流れ星を二つみつけた。手が離れたので振り向くと、足立は孝介の髪の毛を梳き、突然耳たぶを引っ張った。
「帰ろっか」
足立が触れてくれたのはそれだけだ。