手にしたグラスにビールが注がれるのを、足立は困惑気味に見守っている。少しでいいよと言ったのだが、菜々子は笑って首を振り、グラスの七分目まで入れてしまった。自然に盛り上がる泡を眺めながら、ビールってどんな味だったっけ、と足立は考えた。
 次いで菜々子は堂島のグラスも満たし、代わりに堂島が娘のグラスにウーロン茶を入れてやっている。きっといつもこんな風にして夜を過ごしているのだろう。菜々子の所作が手馴れていた。
 そうして注ぎ終えた二人は自分のグラスを持つと、誘いかけるようにこっちを向いた。
「ほれ。じゃあ、乾杯」
「あ、は、はい」
 足立はあわてて自分の分を持ち上げ、遠慮がちに二人とグラスを合わせた。一度ためらったのちに思い切って飲み込む。とたんに、懐かしい苦みが口のなかに広がった。
「美味いか?」
 堂島がおかしそうに訊いた。ビールの味を喉に染み込ませたあと、足立は深くうなずいた。
「出てきたんだって実感します」
「そうか」
 堂島は早々一杯目を干し終え、手酌で自分のグラスに注いでいる。足りない分は新しい缶を開け、それからこっちに向けるので、形だけ注いでもらった。
「そういえば昔、よく一緒に飲みに行きましたよね」
「おお、行ったなあ。お前、大して飲めないクセに俺と張り合いやがってよ」
「堂島さんが無理矢理飲ませたんじゃないですか」
 二人が話すのを、あいだに座る菜々子がおかしそうに見守っていた。
「私も覚えてるよ。お父さんと足立さんが酔っ払ってうちに帰ってきたの」
 サラダを取り分けながら菜々子が言った。
「すっごいグデングデンでさ。お酒臭かったなぁ」
「そんなのは一回くらいだろ」
「しょっちゅうだったよ。覚えてないの?」
「……昔のこたぁ忘れたなあ」
 わざとらしく首をひねる堂島がおかしくて足立は笑った。酒が少しでも入ったせいか、幾分か緊張もほぐれてきたようだ。
「また行きたいですね」
 菜々子がサラダの載った皿を手渡してくれた。テーブルの真ん中には大きな寿司桶が置かれ、その周りを取り囲むように手料理が並んでいる。好きに食えと堂島はしきりに言うが、これだけ並べられると何から手を出していいのかわからなくなってしまう。
「これからはいつでも行けるだろ」
「お金がないですよ」
「……」
「……仕事探さないと」
 だが一体どこが雇ってくれるというのだろう。元警察官の前科者など、一番潰しの利かない職業だ。
 しかし弱音ばかり吐いているわけにもいくまい。どこでもいいから当たってみなくては。
 気を取り直して寿司に手を伸ばした時、堂島が立ち上がって棚の上からメモ用紙を取り上げた。
「お前が良ければなんだが」
 そう言って差し出してくる。見ると『畑中硝子店』という文字と電話番号が記入されていた。
「俺の知り合いでガラス屋やってる人が居るんだ。ちょっと前に職人が一人辞めちまったとかで人手を欲しがってる。お前のこと話したら是非にと言うんでな」
 手を伸ばすと堂島は押し付けるようにしてメモ用紙を渡してきた。そうして腰を下ろし、何が気まずいのか急いた手付きで寿司を口に放り込んで、揚げ句に噎せた。
「何から何まで、すいません」
 足立はメモを二つに折って手元に置き、あらためて頭を下げた。喉につっかえたものをビールで流し込んだ堂島は、ちらりとこっちを見てから小さく鼻を鳴らした。
「ま、そのうち倍にして返してもらうさ」
「はい」
 足立はテーブルの上の缶を取り上げ、堂島のグラスにビールを注いだ。堂島はひと口飲んだあとにグラスをテーブルへ戻し、またこっちを見て、おかしそうに口の端を持ち上げた。
「なんだかお前が素直だと、こっちの調子が狂うな」
 からかうような口調がひどく懐かしかった。足立も苦笑を返し、堂島の酌を受けた。
 食事がようやくスムーズに進み始めた頃、突然玄関の扉が開いた。
「ただいま」
 飛んできた男の声に、菜々子の表情がぱっと明るくなった。
「お帰り。早かったね」
 素早く立ち上がって玄関まで出迎えに行っている。足立は持ち上げていたグラスをテーブルに戻しながら、誰だろう、と覗き込んだ。菜々子が「お帰り」と言うのだから身内の人間なのだろうが、確かここには二人だけで住んでいる筈だ。菜々子の婚約者か誰かか? でもそんなこと、堂島さんが許すわけないだろうし――。
「同僚に残業押し付けて帰ってきた」
「やだ、ホントにそんなことしたの?」
「嘘だよ。来週半ばまでは暇な時期なんだ。――はい、お土産」
「ありがとう!」
 菜々子は受け取った買い物袋を堂島に示し、「お兄ちゃんが梨買ってきてくれた」と嬉しそうに笑った。
「すまんな。お疲れ」
「いえ」
 背広姿の男が台所から居間へとやって来る。ネクタイを緩め、上着を脱ごうとして、こっちの姿に気が付いた。硬直した瞳で足立を捉えたあと、会釈をするフリで目をそらしていく。
「お久し振りです」
 気が付くと立ち上がっていた。座ろうとしていた彼の動きが止まった。そのまま前髪に隠してこっちを見ている。まるで忌避するものを盗み見するかのようだ。
「え? ……え?」
 一瞬で口のなかが干上がった。部屋の空気が固まった。皆が自分を見ていた。立ち上がったのは無意識のうちに逃げ出そうとしたせいだが、横目でこっちを見る彼の視線が、足立を捕えて離さなかった。
 十二年振りに会う孝介だった。
「どうした」
 堂島の声で空気が再び動き始めた。孝介は背広を脱いで腰を下ろし、菜々子が持ってきた箸とグラスを受け取った。床に置かれた背広を拾い上げて部屋へ消える時、菜々子が少しだけ心配そうな顔をするのが見えた。足立は答えを求めて堂島を見、孝介を見て、また堂島に逃げた。
「な、なんで、ここに――」
「沖奈に住んでるんですよ、今」
 堂島からビールを注いでもらい、叔父のグラスに注ぎ返している。そうしてビールの缶をこっちに向け、
「座ったらどうですか。せっかくなんだし、乾杯しましょうよ」
 無表情に言い、催促するように缶を持ち上げた。
 足立は恐る恐る腰を下ろした。孝介が再度缶を示すのでグラスに手を触れたが、それ以上はなにも出来なかった。缶を持つ手からワイシャツを着た腕、肩、ネクタイを締めた首元を通って、孝介の顔をバカのようにみつめるだけだ。
 ビールを注ぎ終えた孝介は視線に気付いて一度こっちを見たが、すぐ気まずそうに目をそらせてしまった。
「じゃ、まあ、お疲れさん」
「かんぱーい」
「……」
 グラスに口を付けても、もう酒の味などわからなかった。形ばかりに唇を湿らせてグラスを置いた。孝介は飢えを満たすかのように次々料理を口に放り込んでいる。なるほど、三人分にしては多いと思っていたが、菜々子の手料理は彼の為でもあったわけだ。
「沖奈に住んでるって……?」
「仕事で」
 短く答えたあと、孝介はビールで口のなかのものを飲み込んだ。そうして缶を取り上げると叔父のグラスにビールを注ぎ、言葉を続けた。
「本社は都内なんですけど、こっちの支社に異動になったんです。社内で希望者募ってたから立候補して、そのまま」
「もう四年くらいになるのか?」
「三年半かな。最初はここに住んでたんですけど、残業とか続くと通うの大変だったから、向こうでアパート借りて独り暮らししてます」
「そうなんだ……」
 堂島家へやって来た時のめまいが再び襲ってきた。高校生だった孝介と、目の前で酒を飲み、背広を着て仕事の話をする彼とが、全く重ならない。ただあの孝介だということはわかる。その事実が受け入れられないだけだ。
「……で、お前の住む場所なんだがな」
 ためらいがちに堂島が目を上げた。
「しばらくうちに居てください」
 当然のように孝介が言い放った。足立は再び言葉を失った。
「――え?」
「だってここじゃ無理でしょう」
 広さのことを言っているわけじゃないのはわかった。ここはかつての自分が暮らし、働いた町だ。沖奈市だってそう離れているわけでもないけど、管轄が変われば顔ぶれも大分違ってくる。ここには当時の同僚も居るだろうし、被害者だって――。
「あ……あの、」
 ふと出た言葉に、孝介は一瞬の間を置いてから振り向いた。
「なんですか?」
「……あの酒屋は、まだあるのかな」
「小西なら引っ越しましたよ」
 吐き捨てるような台詞だった。堂島が何か言いたげに孝介を見た。その視線に気付いた孝介は一度気まずそうに目を落とし、それから何事もなかったかのようにテーブルの上の料理を見渡した。
「息子が一人居て――まぁ俺の後輩なんですけど、そいつが県外の会社に就職したんです。研究職みたいなことやってて、向こうで知り合った子と結婚した時に両親呼び寄せたんですよ。確かあっちで店開いてる筈です」
「……そうなんだ……」
「墓はこっちに残してるみたいですけどね」
「今日行ってきた」
 堂島が言って、ビールの缶を差し出してくる。足立はあわててグラスを持ち上げ、少しだけ飲んだ。
「うちに来る前に寄って、線香上げてきたよ」
「……ふうん」
 テーブルに沈黙が落ちた。戻ってきた菜々子が戸惑ったように面々を見渡している。何か言わなくてはいけない気がしていたが、何をどう言えばいいのかが全くわからなかった。ぐずぐずしているうちに、堂島が先に沈黙を破った。
「明日、俺が車で送っていってやる。なにか買っていった方がいいものとかあるか?」
「一応揃えておいたから大丈夫だと思う。足りなければ向こうで買ってもいいし」
「そうか」
「――あ、あの」
 そうしようと思っていないのに、どういうわけかやたらと孝介を凝視してしまう。その視線に気付くと、孝介は一度目をそらせてからまたこっちを見た。前髪の陰からそっと覗くように。
「なんですか」
「その……いいのかな。僕が行くと狭くなるんじゃ……」
 孝介は、ああ、と言って首を振った。
「ちょっと前まで友達と一緒に住んでたんですけど、半年くらい前にそいつが出てったんです。元々ひと部屋空いてるから、足立さん一人くらいなら大丈夫ですよ」
「そうなんだ」
「……別に、ずっと居ろとは言いませんから」
「え?」
 孝介はもうこっちを見ていなかった。言いながら箸でサラダの残りを掻き集めている。
「足立さんが金貯めて出ていきたいっていうんなら好きにしてください。俺も、まぁ先々どうなるかわからないし」
「……そうだね」
 東京に本社があって元々そこに居たというのなら、呼び戻される可能性もある。恋人が居るのなら、たまには部屋へ呼んでのんびりしたい時もあるだろう。
 とにかく忘れてはいけないことがひとつだけ出来た。昔も今も、自分はただの厄介者なんだ。
「ね、お寿司だけでいいから片付けちゃおうよ。この時期、生もの残すの怖いから。――ホラ、足立さん、もっと食べて」
 場の空気を入れ替えるように菜々子が明るい声を出した。そうして、お前の役目とばかりに寿司桶をぐいぐい押しつけてくる。それを脇から押さえつけたのは孝介だった。
「ちょっと待て。お兄ちゃんまだ満足してないんだから」
「お兄ちゃんは最近食べ過ぎだよ。夏なのに太ったとか言ってたでしょ」
「ストレスのせいですかねぇ。口うるさい妹が野菜食えだの酒減らせだのやかましいから」
「ムカつく!」
 菜々子に背中を叩かれて孝介は大仰な悲鳴をあげた。初めて堂島が楽しそうに笑った。


 居間に用意してもらった布団のなかで足立は寝返りを繰り返している。刑務所で使っていたものとは比べ物にならないほど柔らかな布団で、それが却って落ち着かない。
 淡いオレンジ色の光のなかで仰向けになり、ぼんやりと天井を見上げた。ちょうど頭上に孝介の部屋がある。今日は泊まっていくとのことで、たらふく食べて飲んだあと、風呂に入ってさっさと部屋へ行ってしまった。
 明日から一緒に暮らすことになる。その実感も、当然なかった。
 ――たまたま、かな。
 こうなったのは偶然だと足立は思い込もうとしていた。新たに部屋を借りるにはまとまった金が必要になる。堂島には今日だけで随分金を使わせてしまった。働き口まで紹介してもらって、これ以上贅沢など言えるわけがない。
 雨風をしのげるだけでも充分だ。それに、ずっとそこに居なくてもいいと孝介は言っていた。しばらく働いて、なんとか金を貯めて、そうしたら出ていけばいい。孝介だって共同生活を望んでいるわけがない。
 だって、どんな顔をすればいい?
 なんて言って謝ればいい?
 死人に対しては、ある意味詫びればそれで済む。申し訳なかったと何千回、何万回も繰り返すしか方法はない。だけど孝介は違う。あんなことがあって、事実を知って、それでも自分を追い掛けてきた相手だ。土下座するとか、好きなだけ殴ってもらうとか、そんな程度で収まる筈がない。
 それに、孝介だけじゃない。堂島にも、菜々子にも、生田目にも、遺族にも、自分の親兄弟にも、元同僚や元上司たちにも、不安に陥れた町の人たちにも。全ての人に許してもらう方法なんてありはしないのだ。そんなことを叶えようとしたら、命が幾つあっても足りやしない。
 ――なんだ。
 ふと口から乾いた笑いが洩れた。――なんだ、やっぱり終わってなかったんじゃないか。
 ここは「自由」という名の牢獄だ。出たと思ってたけど、場所を移されただけだったんだ。なるほど、それなら実感も湧かないよね。
 天井をみつめていた足立はそろりと起き上がった。部屋の隅に大きな液晶テレビがある。布団を出て、物音を立てないようそろそろと四つん這いでテレビに近付いた。今電源は落とされ、真っ暗な画面がわずかな光を頼りにうっすらと部屋の様子を映し出している。
 顔を近付けると、自分の形に影が濃くなった。光のなかから抜き取られたカラッポの自分がテレビのなかにある。
 足立はゆっくりと手を上げた。無駄と知りながらも、そっと指を近付けていく。
 かつん。
 爪が当たる音がした。硬いガラスが足立を拒んだ。


なんでかなぁ・その1/2012.02.10


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