陽射しが眩しかった。
九月も半ばを過ぎたというのに、厳しい残暑が続いていた。蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、じりじりと地面を焦がす太陽のお陰で、なんだか呼吸がしづらいようだった。盛夏に死に損ねたセミがあちこちで騒いでいて、その鳴き声もやかましかった。
大嫌いな夏。
だから、口から飛び出たのはため息だ。安堵して息を吐いたわけでは決してない。
人通りの殆ど途絶えた道の片隅に一台の車が止まっていて、今そこから一人の男が降りてきた。白髪交じりの髪の毛を落ち着きなく何度も掻き上げ、自分の方をただまっすぐにみつめている。口元に浮かんだ微笑と目の奥にある動揺を見て取った瞬間、思わず一歩強く踏み出していた。駆け寄りたいのと同じくらい逃げ出したくてたまらなかった。その場にとどまることが出来たのは、逃げ出せばあの人に罪が降りかかるかも知れないという恐怖心からだった。
もうこれ以上迷惑は掛けられない。今だって充分、自分がここに居るだけで迷惑になっているのだ。やめてくれと何度も頼んだのに身元引受人になった元上司。その懐かしい顔が、今ゆっくりと近付いてくる。
「――よう」
微笑と動揺がまだ残っていた。続けて何か言おうとする口が言葉を探しあぐねて、結局は閉じられてしまう。
なんて返そう。なんと言って謝ろう。ずっと考えていたのに、どうしても言葉が出てこない。目の前に立つ元上司は、返事のない自分を、それでもゆっくりと受け入れてくれている。いつだってそうだ。いっつもそうだった。
――変わってないですね、堂島さん。
そう言おうとした時、不意に風が吹いて頭上の木が揺れた。遮られていた陽射しが再び目を焼いた。込み上げてきた涙を誤魔化す為に、足立は深く深く頭を下げた。少ししたあと、堂島の手が後ろ頭に乗り、なだめるように軽く叩いていった。十二年前にそうされた時と何ひとつ変わっていなかった。
「ただいま」
堂島は相変わらず娘の菜々子と二人暮らしだそうだ。車を乗り入れた車庫も、古臭い佇まいも、記憶にあるままだった。玄関の扉だけは新しい引き戸に交換されていた。立てつけが悪くて数年前に取り換えたのだそうだ。部分的に変わっているとはいえ、覚えている通りの場所に立つと、やはり安心出来た。
三和土に入り込んだ足立は扉を閉めようとして勢いを付け過ぎ、跳ね返った扉が隙間を作った。それをあわてて閉め直している時、背後から若い女性の声が聞こえてきた。
「お帰りなさい」
振り返ると、上り框に白いワンピースを着た女性が立っていた。長く伸びた髪を後ろで二つに結んでいる。堂島の差し出す荷物を受け取り、こちらに振り返ってにこりと笑いかけられても、足立にはそれが誰だかわからなかった。
「足立さんも。いらっしゃい」
「……え……もしかして、菜々子ちゃん?」
「はい。お久し振りです」
「うわ――ビックリした、すっかり大人になっちゃってぇ」
「お前、あれからどんだけ経ってると思ってんだ」
呆れたように堂島が言い、わざとらしく笑ってみせた。「もう働いてるんですよ」と言って菜々子も笑い、足立の持つ荷物を受け取ろうと手を伸ばしてきた。重いからと断ると、上着だけでもと言って、くたくたの背広を半ば強引に奪っていった。
「麦茶でいいか。それともビールにするか?」
台所で冷蔵庫の扉を開けながら堂島が訊いた。
「いや、お酒は、あの……」
居間に所在なく腰を下ろした足立は、どう返事をすればいいのかわからなかった。酒などずっと飲んでいないからどんな味がするものなのかも忘れている。困っていると、手にバスタオルを持った菜々子が部屋から出てきて、堂島の背中へ牽制するように言葉を投げかけた。
「お酒はご飯の時にしたら? 空きっ腹で呑んじゃうと余計回るでしょ」
「へいへい、仰せの通りにいたします」
「お父さん、その言い方ムカつくから」
菜々子は一度堂島を睨んだあと、手に持ったバスタオルを差し出してきた。
「ご飯出来るまでちょっと時間が掛かるんで、先にお風呂入ってきちゃってもらえますか」
「あ、はい……」
「これ飲んだら先行ってこい」
堂島は自分のグラスに口を付けながら、テーブルにもうひとつ麦茶の入ったグラスを置いた。
「いや、先に貰うわけには」
「バカ野郎、一番風呂なんざ入れてやるのは今日だけだ。頭から突っ込まれたくなかったらおとなしく行ってこい」
「……はい」
お父さん、ひどい言い方、と菜々子が笑った。堂島はそれを無視して床に座り込み、リモコンを取り上げてテレビを付けた。大きなブラウン管のテレビだったそれが、今では薄い液晶タイプに変わっている。それに気付いて部屋のなかを見回してみると、所々がやはり新しくなっているようだった。
足立は少しのあいだだけテレビを眺めていたが、すぐに目をそらせた。もうあの力は無くなってしまったが、見ていると画面の奥から誰かの腕が出てきて引っ張られそうな気がしてしまう。
「そういやお前、煙草はいいのか」
灰皿あるぞ、と言って堂島は棚のなかを指差した。足立はあわてて首を振った。
「煙草はもうやめました。いい機会だったんで」
「――まぁそうだな。今じゃ高級品になっちまったしな」
「じゃあそのせいかな。足立さん、ちょっと太りましたよね?」
台所から菜々子が訊いた。そう? と言って振り返った時、記憶にある菜々子と現在の彼女の姿が上手く重ならなくて、足立は一瞬めまいを覚えた。
菜々子のことだけじゃない。刑務所を出てからずっと、自分が間違った場所に居るような気がして仕方がなかった。十二年も経ったんだから、あの小さかった彼女が立派な大人になっているのは当然だ、頭ではそう理解しているが、どこかに時間を無理矢理超えさせられたような感覚がある。周りはどんどん歳を取っていくのに、自分だけが二十七歳の時のまま、違う一日を迎えさせられているような、そんな感じ。
だけど実際は自分も十二年間生きてきた。もう来年には四十になる。
――ああ、そっか。
刑務所に入れられるってこういうことか、と足立は途方に暮れながら思った。閉じ込めることが罰じゃない、置き去りにすることが目的なんだ。
「どうした」
堂島の声で我に返った。心配するような眼差しに耐えられず、足立はいいえと首を振り、麦茶を飲んだ。それから買い物袋を探って着替えを取り出すと、あらためて頭を下げた。
「じゃあ、あの、……お風呂、お先にいただきます」
「おう。ゆっくりつかってこい」
「あ、汚れ物あったらカゴに入れておいてください」
聞き馴れない声にどうしても反応してしまう。足立は台所へ振り返り、振り返った自分を不思議そうに見る女性をみつめ、あれは菜々子という名の女の子なんだと自分に言い聞かせた。ぺこりと頭を下げると、向こうもまた不思議そうにうなずき返してくれた。そのまま足立は逃げるように脱衣所へ向かった。
後ろ手に扉を閉めてため息をつく。タオルと着替えを洗濯機の上に置き、のろのろとシャツのボタンを外す。
――やっていけるのかな。
自由の身になれたのだという実感が全然湧いてこない。
堂島の車に乗って、稲羽市までの長い距離を走った。その途中にある量販店で当座の着替えやら必要品やらを買い込んできたのだが、足立は店のなかに五分と居られなかった。効き過ぎた冷房も、賑やかしの音楽も甲高い子供たちの声も、これまでの生活にはなかったものだ。騒がしさと溢れるほどの色彩に耐えられず、結局買い物は堂島に任せ、駐車場の隅にあるベンチの上でずっとうずくまっていた。
戻ってきた堂島は最初呆れたような顔をしてみせたが、すぐ真顔に戻り、自販機でスポーツドリンクを買ってきてくれた。そうして並んでベンチに座り、広い駐車場を車が出たり入ったりする様を、しばらくのあいだ二人で眺めていた。
『すぐ馴れるだろ』
『……』
昔、自分がどんな風に町を歩いていたのかが思い出せない。稲羽市に初めて足を踏み入れた時、なんて田舎なんだろうと思った筈の自分が、まるで夢のように感じられる。
出てきたばかりなのに塀の内側が恋しかった。あそこではなにも迷う必要がなかった。服装も髪型も、一日の行動も全部決まっていた。皆が使う道具は全部同じ形をしていた。
自由が重くてたまらない。
『僕、どうやって生活してたんですかね』
『俺が知るかよ。ま、しょっちゅうジュネスに行ってるような話は聞いてたがな』
『……ホントにそうやって生きてたのかな』
見知らぬ他人の話みたいだった。
今日一日でこんな調子なのに、新しい住居に移ったあかつきには一体どうなるんだろう。足立は不安と共にお湯をかぶった。手早く頭と体を洗って湯船につかる。そうして落ち着いた時、胸の奥から湧き出たものは、不安が塊になったため息だけだった。
新しい住居については夜に説明するとだけ言われている。堂島の知人と一緒に暮らすことになるらしいが、詳しいことはまだ教えてもらっていない。だがどこへ行くことになるのだとしても、今感じるのは恐怖だけだ。
一体なにを目指して生きろというんだろう。
刑期を勤め上げたことで法律的には良しとされた。だが勿論死んだ人間が生き返るわけじゃない。過去がやり直せるわけでもない。親兄弟からは絶縁され、数少なかった友人たちとも連絡を取る手段がなくなった。身元引受人になったせいで堂島も立場を悪くした筈だ。これ以上自分が生きていて、一体なんの意味がある?
「……」
足立の目はシャンプーなどが並べられた小さな棚の辺りをうろうろしている。さっき石鹸を探した時に剃刀をみつけていた。でもあれじゃ駄目だ、もっと刃が出ているヤツじゃないと。それに、ここだと最期まで迷惑を掛けることになる。どこか他の場所、誰にもみつからない場所――そうだ、山にでも入ればいい。簡単じゃないか。
天井から落ちてきた滴が水面に当たった。その音で足立は我に返った。棚から目をそらせ、湯のなかに突っ込んだ手の平を意味もなく見下ろして、ホントに死ぬ気なのかなと他人事のように考えた。
本気で死にたいと思うわけではない気がする。ただ先のことを考えるととにかく不安で、どこかへ逃げ出したいと思ってしまう。
不意に磨りガラスの向こうで電話が鳴った。菜々子の声が何事かを答えている。その声を聞きながら足立は、ともかく邪魔だけはしちゃいけないな、と思った。
堂島にも菜々子にも仕事があり、二人の生活がある。これ以上自分というお荷物を抱えさせるわけにはいかない。安心させることが出来るかどうかはわからないが、なにか仕事を探して日々をつましく生きる、とにかくそれだけを考えてやってみよう。
夢も望みも今はいらない。どうせそんなもの、最初から持ってないんだから。
「……っ」
突然に込み上げてきた嗚咽を隠す為に、足立はあわてて顔にお湯を掛けた。誤ってお湯を飲み込んでしまい、変なところに入って咳き込んだ。そうやって咳き込むフリで自分を誤魔化しながら、ちょっとのあいだだけ静かに泣いた。