「…………びっくりしたんだ」
 不意に呟きが聞こえた。
「なんか、あんまり綺麗でさ。こんな綺麗な子が普通に生きてていいのかなって思うくらいびっくりしてさ」
 何を言っているのか最初はわからなかった。足立はそっと視線を外してテーブルの上をみつめている。しばらく聞いているうちに、自分のことを言っているのだと気が付いた。四月、稲羽署に連行されて、取調室で会った時のことを。
「最初は自分の目がおかしいのかなって思ったんだ。だって君の友達も、連れてきた警官も普通にしてるしさ、君も普通で、有り得ないくらい普通でさ、普通だから、僕がおかしくなっちゃったんだって思ったんだ」
「……」
「ひと目惚れってしたことなかったから、わかんなくってさ」
 足立は床に落ちた札を拾い上げて、しげしげと表を眺めた。
「そんな綺麗な子と出会えて、顔とかさわらせてもらえて、キスまでしてさ、そりゃあもう舞い上がったよ。そんな場合じゃないだろうって思ったけど、でも駄目だった。ずっと君のこと考えてた。相手は男だろうとか、そんなの考えてる余裕なかった。君が好きだった」
 ひと目見た時から好きだった。
 毎晩電話する前は、あれ喋ろうとかこれ話そうとか色々思うのに、変なこと言ったら嫌われるかなとか、どういう風に話したらよく思ってもらえるかなとか、バカみたいに悩みまくった。嫌われるのが凄く怖くて、本当は部屋に誘うのもいっぱい迷った。自分は駄目な人間だから、一度嫌われたら絶対やり直しなんか利く筈がない。
 僕は汚い人間だからと、足立は呟いた。
「僕なんかと一緒に居てくれるってだけで、ホントに感謝しなきゃいけないなって思ったんだ。電話しても嫌だって言わないしさ、会いたいって言ってくれるしさ」
 だから部屋から出ていかれた時は、どうしたらいいのかわからなかった。
 何が不味かったんだろうと一生懸命考えた。いや、たくさん不味いことは思い当たったけど、全部嫌だとは言われなかった。はっきり言えなかっただけかも知れないけど、でも本気で嫌がってるようにも見えなかった。
 たくさん考えていくうちに、そもそもが贅沢な悩みなんだと気が付いた。そりゃそうだ。どうして自分みたいな人間と喜んで付き合ってくれる筈がある? 考えるまでもなかった。元から好かれてなんかいなかったんだ。
 でも忘れ物を取りに来た時、だったらなんで最初から断らなかったんだろうと、ちょっと腹が立った。からかわれてるのかなとか考えて、でもそう思いながら見ててもやっぱり綺麗で、綺麗だからさわりたかった。少しでも長く手のなかに置いておきたかった。
「お金のこと言い出したのは、そうしたら怒って帰るかなって思ったんだ。フラれるんだったら派手な方があきらめつくでしょ?」
 なのに帰らなかった。だから続いてしまった。呼び出すたびに、もうこれで最後にしようと思うのに、怖くてなかなか言い出せなかった。少しでも一緒に居たかった。綺麗だからとかじゃなくて、たださわりたかった。
 初めて見た時からずっとずっと好きだった。
 足立は札を放った。飲みかけのグラスの表面に付いた水滴が、その上に落ちてきた札を濡らして貼り付けた。足立はそれを取ろうともしないで喋り続けている。
「お金とか、正直どうでもよかったんだ。君が拒否するまで続けようと思ってた。……でもなんか、どんどん我慢出来なくなっちゃってさ」
 なんでだろう。
 なんでこの子はこんなに綺麗なのに、僕なんかのところに来るんだろう。
「……俺は綺麗なんかじゃありません」
「君は綺麗だよ」
 ゆるゆると首を振って足立が振り向いた。
「今も綺麗だ」
 ほんのわずかに唇の端が持ち上がる。それからまた茫とした表情に戻って足立は前に向き直った。
「今までごめんね。……もう帰りなよ。堂島さんが心配するよ」
 孝介は足立の横顔をみつめて言葉を探した。この男の話は叔父から少し聞いている。将来を嘱望されたキャリア組の一人だったが、内部でごたごたが起きた際に貧乏クジを引かされ、エリート街道から追い出されたそうだ。何があったのか詳しくは叔父も知らない。知らなくていいと言っていた。
「……足立さんは、なんで自分を汚いって言うんですか」
 目付きに動揺が見て取れた。
「足立さんが汚いなら、俺だって汚いですよ」
「――君は、僕とは違うよ」
「一緒です」
 何をしたのか忘れたわけじゃないですよねと言って、孝介は足元にあった札を爪先で蹴った。
「俺も一緒です」
「……」
「……なんで汚いのか、教えてもらえませんか」
 足立は強張った表情でわずかに首を振った。少なくとも今すぐというのは駄目なようだ。孝介だって無理に聞き出すつもりはない。もしかしたら一生知らずに終わるのかも知れない。
「いつか教えてもらえませんか」
「……やだ」
「すぐじゃなくてもいいんです。一年後でも、十年後でもいいから」
「…………知ったら、僕のこと軽蔑するよ」
「しませんよ」
 俺、足立さんのことが好きですから。
 扇風機が部屋の空気を掻き回す。足立は何も答えない。
「言いませんでしたっけ。俺、足立さんが好きです」
「……」
「綺麗でも汚くても、足立さんが好きなんですよ」
 足立はゆっくりと息を吸い込み、緊張を解くようにゆっくりと吐き出した。
「そう」
 呟いて、何度かまばたきを繰り返す。
「――よかった」
 一瞬ののちに、目から涙がこぼれ落ちた。足立はあわてて涙を拭い、また大きく息を吐き出した。
 孝介はそっと足を踏み出した。足立は警戒しながらも逃げずにいてくれた。すぐ脇に座り込んで名前を呼んだ。返事はなかった。涙をこらえる瞳がテーブルの上を睨み続けている。
「足立さん」
 迷った末に手を伸ばして髪の毛に触れた。足立の体がゆっくりともたれかかってきた。孝介はそれを受け止めた。膝を抱いていた手が持ち上がって孝介の腕を掴んだ。
「よかった」
 まばたきをした時、もう一度だけ涙が落ちた。


 呼び鈴を鳴らしたがしばらく返事はなかった。出掛けているのか? と不安になりながらもう一度呼び鈴を鳴らすと、
「……は、はいぃ」
 やたら焦ったような足立の声が返ってきた。ドアが開くと、何故か下着姿の足立が小脇に大量の洋服を抱えて孝介を出迎えてくれた。
「どうしたんですか?」
「いやぁ……」
 足立は困ったようにぼりぼりと頭を掻いた。何を着たらいいのか前日から迷い続けて、結局今の今まで決められなかったのだそうだ。あんたは女子か、と思わず突っ込みかけたが、その心意気だけでも買ってやらなければ可哀そうだった。孝介は玄関に入り込んでドアを閉め、居室に戻る足立のあとを追った。
「Tシャツにジーンズでいいんじゃないんですか。そんなに迷うもんじゃないと思いますけど?」
「えー? だってTシャツって、こういうのしかないよ?」
 そう言って足立が取り出したのは青一色の普通のTシャツだった。悪くはないが、ブルージーンズと合わせるのはどうだろうか。孝介は床に放られた洋服一式のなかから適当な組み合わせをみつけて引っ張り出し、これはどうだ、こっちはいかがと、幾つかベッドに並べてみせた。足立は腕組みをしたまま不安そうにベッドを見下ろしている。
「……君はどれがいいと思う?」
「これかな」
 綿のパンツとTシャツを指差すと、足立は手を伸ばしかけたがすぐさま引っ込めてしまった。
「これ、Tシャツ変じゃない? ボロって言うか……」
「そんなことないですよ。普通ですよ」
「……ホントに?」
「ホントに」
「ズボンの皺とか気にならない?」
「なりませんよ。これくらい普通ですって」
 笑ってしまうほど不安そうな足立のケツを叩いてやっとの思いで支度をさせた。なんでそんなに心配するんだと訊くと、「だってさぁ」とTシャツをかぶりながら足立は言った。
「せっかくの初デートなのに、変な格好して笑われたくないじゃない? いや、僕だけが笑われるんだったらいいんだけど、君まで笑われるのは我慢出来ないもん」
 でしょ? と当然のような顔で同意を求められても返事に困る。
「あれ? どしたの?」
「…………なんでもないです」
 孝介はそっぽを向いて赤くなった顔を隠した。しかしその仕種が足立の不安をあおったらしく、
「え? なに? 僕、変なこと言った? なんか怒ってる?」
「……怒ってないです」
「えー……」
 足立はおろおろと顔を覗き込んできた。こういう率直さは足立の長所だと思うが、生憎それを受け止めるだけの度量がまだこちらに不足している。だが逃げているだけでは終わらないこともわかっているから、孝介は思い切って振り返り、足立の両手を握り締めた。
「あのね、足立さんはもっと自信持っていいんですよ。俺が嫌いな人と嫌々付き合うわけないでしょ? 変だったらちゃんとそう言いますから、安心してください」
「……」
「足立さんはそのままで充分かっこいいし、その……俺は、好きですよ」
 額がぶつかった。驚いて目を上げると、足立が嬉しそうに笑いながらこちらを見ていた。
「ありがと」
 触れるだけのキスをして離れていく。一瞬呆けてしまった孝介の頭を撫でて、足立は手を引いた。
「行こっか」
「――はい」
 財布と携帯電話、そのほか忘れ物がないことを確かめると二人は玄関へ向かった。今日は近場の湖までドライブに出掛けることになっている。しかも遼太郎に言って泊まりの許可も貰ってきたから、丸一日一緒に居られる初めての日だ。デート、と舌の上に乗せると未だに気恥ずかしいが、それが心躍るものであることは確かだった。
 あの日、二人は関係をやり直そうと決めた。お互いにただ好きだというところから始めようと約束した。部屋中にばら撒かれた札を見て臨時ボーナスだと足立が笑い、何故そんなものが出来たのかを思い出した奴が、あらためて好きだ、付き合ってくれないかと申し出たのがきっかけだった。孝介に否やの有る筈がなかった。無駄にしてしまった二ヶ月間を、これから二人でたっぷり取り返すのだ。
 外に出たとたんにセミの大合唱が二人を出迎えてくれた。七月もあと数日で終わりを迎える今日、太陽はその姿を惜しみなく天上で晒している。
「あっついねぇ。途中でコンビニ寄ろう」
「賛成」
 車に乗り込み、シートベルトを締めながら孝介は思う。
 あんな風に自信なさげな足立も、ひと月前までの意地悪で怖いと感じていたあの足立も、元をたどれば同じ人間に行き着く。どちらが本当の足立なのか、などとバカげたことを気にしているつもりはない。だが言い様のない底知れ無さを感じるのも事実だった。
 自分を指して「汚い」と言うことも含めて、時々孝介は思うのだ。
 もしかしたら俺はとんでもない人を好きになってしまったんじゃないだろうか――。
「それじゃあ、しゅっぱぁつ」
 足立が車を発進させた。向きを変えて道路に出ようとしている。ふと振り返って足立を見ようとした孝介の目を、フロントガラスからの太陽の光が静かに焼いて過ぎていった。反射的に閉じた目の奥にあった物は、真っ白い闇だった。


世界で一番・その2/2013.07.06


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