孝介は窓の外をぼんやりとみつめている。ぶ厚い雲が空を覆っているが、雨を降らせるような重さはない。もう七月も下旬になる。いっそのことカミナリでも鳴って、ひどい嵐にでもなればいいのにと思うのは、やはり八つ当たりなんだろうか。
ため息をついてシャープペンシルを置いた。テスト用紙への書き込みは全て終わっている。これさえ済ませてしまえば、あとは何も考えなくても夏休みになる。本来は喜ばしいことの筈なのに、今の孝介にとっては苦痛でしかなかった。退屈でも授業の方がまだマシだ。余計なことを考えずに済む。こんな風にただ時間を潰すしかない時が、一番辛くて耐えがたかった。
孝介は机に突っ伏すと目をつぶって無理矢理に眠ろうとした。ここ何日ものあいだ、一分一秒が何倍もの長さに感じられていた。何かを待つというのがこんなにも苦痛だとは知らなかった。しかもどれだけ待てばいいのか、いつまでこらえればいいのかもわからない。これは拷問だ。下手をすれば一生終わらないのかも知れない、永遠の責め苦だ。
しばらく努力を続けて、結局眠れずに体を起こした。テスト用紙を表に返して、もう一度最初から問題を解き始める。自由の時が怖かった。ずっとこうやって解かなければならない問題が存在すればいいのにと、バカなことを考えてしまう。
やがてテスト終了を知らせるチャイムが鳴り響き、教室にざわめきが戻った。回収に来たクラスメイトにテスト用紙を渡しておいて、孝介は大きなため息をついた。
「終わったなぁ」
「古文、意外と難しかったね」
陽介たちの会話を聞きながら、それでも真っ先に携帯電話を調べてしまう。着信はなかった。メールも届いていない。三度こちらから電話をして、三度とも無視されたことになる。最後の電話では、時間がある時でいいから連絡をくれと伝言まで残したのに、それすらも足立は知らぬフリを決め込むようだ。
孝介はイライラと携帯電話を閉じた。やり場のない苛立ちをどこへぶつければいいのかがわからない。午前中で終わりになるテスト期間を、こんなにも苦痛だと感じるのは初めてのことだった。
「月森、帰んねぇの?」
カバンを持った陽介が脇に立ってこちらを見下ろしている。千枝と雪子はこのあと勉強会をすると言って、仲良く連れ立って帰っていった。
どのみちずっとここに居るわけにはいかない。孝介はあきらめて立ち上がった。
「んだよ、元気ねぇな」
「……そういうわけじゃないけど」
雨が降ればいいのに、と強く思う。
陽介は隣を歩きながら、時折何か問い掛けるような目を向けてきた。だが実際口から出るのはどうでもいいような話題ばかりで、それが友人なりに気を遣ってくれている姿なのだということは痛いほどに理解出来た。イラついているからといって友達を困らせるのは本意ではない。しかし孝介にもどうしたらいいのかがわからなかった。昇降口で靴に履き替えながら、内心こっそりと謝るだけだ。
「捜査の方、なんか聞いてる?」
校舎を出たところで陽介が訊いてきた。孝介は首を振った。
「叔父さん、俺が事件のこと訊くと怒るんだよ。『お前が心配することじゃない』とか『余計なことに首を突っ込むな』とかさ」
「やっぱ疑われてんのかねぇ」
曇天を見上げて陽介はため息をつく。孝介は、どうかなと呟き返すことしか出来なかった。
諸岡の死は特捜隊の面々に様々な衝撃を投げかけた。誘拐されるのはテレビで取り上げられた人物だという予想、テレビに入れられる前からマヨナカテレビに映るという事実、それらのことが否定され、更に容疑者は高校生の少年だということが追い打ちを掛けた。
もしかしたら犯人は毎日自分と同じ道を通っていたかも知れないと思うと、それもまた孝介の絶望を煽り立てる。すぐ側で同じように笑い、誰かと話し、何食わぬ顔ですれ違っていたかも知れないとしたら。
止められなかった死。
――俺は無力だ。
雨が降ればいいのに。
痛いほどの雨が降りしきって、この身を責め立ててくれればいいのに。
祈りが届いたわけではないだろうが、その日は夜遅くに雨が降った。だがマヨナカテレビには何も映らず、孝介は日々鬱々とした気持ちを澱のように心に溜めただけだった。
決心を固めたのは日曜日だった。多分孝介は自分を罰したかったのだと思う。机の引き出しに突っ込んでおいた金を全部ポケットにねじ込んで、叔父が晩酌をする居間へと下りていった。
「叔父さん、足立さんって今日仕事?」
珍しく早めに帰ってきた遼太郎はテレビを見ながらビールを流し込んでいた。
「あいつなら俺より先に帰りやがったぞ。とっくに家に居るんじゃないのか」
「ホントに? 電波の調子が悪いのかな、電話しても繋がらないんだ。叔父さん、電話してもらってもいい?」
「構わんが、あいつになんの用だ?」
「ゲーム借してもらう約束なんだ。テストも終わったし、そろそろ夏休みだし」
笑顔は半分引き攣っていたかも知れないが、幸い遼太郎は気付かなかった。いいぞと言って携帯電話を取り出し、無造作にボタンを押すと電話を耳に当てた。
「――お、足立か、俺だ。お前今どこだ? あ、家? あぁそうか。いや、呼び出しじゃねぇ。今孝介が――」
「叔父さん、ありがとっ」
電話の最中に靴を履いて孝介は玄関を飛び出した。昼間の蒸し暑い空気はすっかり晴れて、半袖の肌には心地よいくらいの気温だった。半分だけ姿を現した月が孝介の行く手をわずかに照らしている。こんなに夢中になって駆けたのは、初めて足立のアパートへ行った日以来だった。あの時は逃げる為に走ったが、今は違う。
今は違う。
外階段を駆け上がり、息を整えながら呼び鈴を押した。青いドアの二○二号室。左右は空き部屋だと聞いている。続けざまにもう一度呼び鈴を鳴らして、更にドアを叩いた。
「…………はい」
ひと月振りに聞く足立の声が、ドアの向こう側で静かに答えた。
「俺です、月森です。開けてください」
「……なんの用?」
「いいからっ」
イライラと吐き捨てる。少しの間の後、渋々といった感じで鍵が外され、ドアが開いた。孝介は足立を押しのけるようにして玄関に入り込み、ドアを閉めた。ポケットから金を引っ張り出して奴の胸元に突き付ける。
「落し物です。届けに来ました」
「……」
部屋着姿の足立は困惑一心という顔でこちらをみつめている。やがてがりがりと頭を掻き、いかにも面倒臭いなぁという表情を作ってみせた。
「……僕、生活課じゃないし、第一今非番だし……」
「あんたの金だろ。受け取れよ」
「……」
「ずっと拾っといてやったんだ。あんたの金だ、受け取れよ!」
足立は目をそらせたまま呟いた。
「君にあげたんだから、君のものだ」
「――誰が欲しいって言ったよ!?」
足立は逃げるように奥へと向かった。孝介は靴を脱いであとを追った。足立はベッドに寄り掛かるようにして腰を下ろし、相変わらず目を合わせないまま煙草に手を伸ばして火を付けた。その手がわずかに震えているのを、孝介は見逃さなかった。
「……何しに来たの」
吐き出した煙は扇風機の風に煽られてあっという間に消えてしまう。すぐ側にあった雑誌を遠くに放り投げ、脱ぎ散らかしたワイシャツも同じように放り投げ、足立はとにかくこちらを向くまいと必死になって手にする何かを探している。
「なんで電話くれなかったんですか」
「……」
「叔父さんからの電話には出るクセに、俺の電話は無視するんですね」
「……仕事だからしょうがないでしょ。そんな、しょっちゅう君に付き合ってられるほど暇じゃないんだよ」
「今日は家に居たのに? 電話の一本も出来ないんですか。刑事って大変なんですね」
「……」
煙を吐き出した足立は灰を叩き落とし、あきらめの表情と共に振り向いた。
「……何しに来たのさ」
迷惑だけではない何かがそこにある。それがわかってしまうから、孝介も言葉がみつからない。
「……俺だって訊きたいですよ」
終わらせたかったのか。そもそも始まっていたのか。自分たちは一体何をしていたのか。何がそこにあったのか。
「俺だってこんな恨み言、言いたくないですよ……っ」
足立が好きだった。足立に会いたかった。足立の声が聞きたかった。それだけなのに。
札を握り締める手が震えた。足立はまだ長い煙草を消した。わずかに紫煙の立ち昇る灰皿を押し遣って、膝を抱える恰好でうつむき、ため息をつく。
「電話は、ごめん。わざと無視した」
「……」
わかってはいたが、実際に言われるとさすがにきつかった。
「電話来るたびに、言わなきゃ言わなきゃって思ってたんだけど、勇気が出なくってさ。……でも来てくれてちょうどよかった。手間が省けたよ」
淡々と語る足立の横顔を見て、孝介は血の気が引いていくのを感じた。予想していた最悪の事態だ。半ばそれを期待していた筈なのに、いざ現実になると足から力が抜けるようだった。
「もういいよね。終わりにしようよ。君も結構いいお小遣い稼げたでしょ? あんまり付きまとわれても迷惑だしさ、そろそろ――」
「……本気なんですか」
壁に寄り掛かって体を支えた。気を抜いたら呆気なくへたり込んでしまいそうだった。足立は顔を上げて手元を眺め、しばらくのあいだ言葉を探していた。何度か口を開けて喋ろうとし、だけどそのつど言葉が出なくて、またうつむいた。
「君は汚れちゃ駄目だ」
「……」
「僕なんかと一緒に居たって嫌なものしか見れないよ。だから」
鼻で笑っていた。半ばキレかけていたと思う。
「ふざけんな」
声に足立が振り向いた。怯えたような眼差しだったが、視線をそらされることはなかった。
「何が綺麗だ。何が『汚れちゃ駄目だ』だ。あんたが俺の何を知ってるんだよ」
「――君は綺麗だよ」
「うるさいっ!」
腹が立つ。
足立はじっとこちらを見上げている。その目に何が見えているのかとっくりと訊きたかった。あんたの目玉は節穴だと百万回でも繰り返したかった。結局俺は何も出来なかった。助けられたかも知れない人間一人を見殺しにして、それでいて犯人を追い詰めているとうぬぼれていたただのバカだ。
何が綺麗だ。
何が汚れちゃ駄目だ、だ。俺はただの役立たずだ。
「嫌なものならとうに見てますよ。金をやるから好きにさせろ、なんて馬鹿げたことを言う汚い大人が目の前に居やがる。……俺が嫌がりましたか? 喜んで金受け取っただろ? 嫌なら帰ればいいって言われたけど帰らなかっただろ!?」
「君は――」
「俺はそういう奴だよ、俺が綺麗ならあんただって綺麗だ、俺とあんたは同類なんだよ……!!」
握っていた札を投げつけた。紙幣は扇風機の風に乗ってばらばらと広がり、脱ぎ散らかしたシャツの上に、汚れたテーブルの上に、ベッドの上にと舞い落ちた。
孝介は息を切らせながら足立を睨み続けた。目を見開いていないと今にも泣いてしまいそうだった。足立は茫漠とした目でこちらを見上げている。その目には一体何が見えているんだ。なんで誰も俺を責めないんだ。八つ当たりなのは充分わかっていた。でも今欲しいのは慰めじゃない、誰かが自分を罰してくれることだ。