「えと――」
 トイレを出たところで足立と出くわした。何故か心配そうな表情で見守られていた。
「……あの、俺、用事思い出したんで、かっ、帰ります!」
「え、ちょっと!?」
 足立の制止の声を無視して孝介は靴を履き、玄関から飛び出した。外階段を駆け下りてそのまま方向も確かめずにダッシュする。息が続かなくなったところでようやく足を止め、街路樹に寄り掛かって呼吸を整えた。
 ――最悪だ。
 なんかもう、色々有り得ないことをしてしまった気がする。足立さんに謝らなきゃとか、でもなんて言って謝ったらいいのかなとか、とりあえず誰かに相談してみようかなとか、いやこんなことさすがに花村にも言えないよなとか、つらつらと考えつつ道を歩き出し、ひとまず何か冷たい物で頭を冷やすべきだという結論に至って自販機の前で足を止めた。
 ポケットを探って財布を取り出す。――筈の手が、何も掴まなかった。あれ、と思って他にも探るが、なんと携帯電話までみつからなかった。
 ――落とした?
 どこでだ? 走っている最中か?
 孝介はあわてて来た道を逆にたどり始めた。確か足立の家に着いた時はちゃんと持っていた。どちらか片方だけなら全力疾走した時に落としたかも知れない。だが両方というのが怪しかった。
 案の定足立のアパートに戻るまでそれらしき物は見当たらなかった。財布なら大した金も入っていなかったからまぁいい。だが携帯電話がみつからないとなると致命的だ。
 孝介はなるべく足音を立てないよう、そっとアパートの外階段を上った。顔だけ覗かせてドアの前の通路も見たけどやっぱり落ちていなかった。
 最悪の予感が当たったようだ。
 端から二つ目のドアの前に立って孝介は手を上げる。だがなかなか呼び鈴を鳴らす勇気は出なかった。あんな別れ方をしたあとだ、どうしたって気まずいに決まっている。
 だが結局孝介は呼び鈴を押した。そうするしか方法はなかった。
「はい?」
 ベルの音の後、遠くの方で足立の声が応えた。
「あの、すみません。……月森です」
 ドアが静かに開けられた。困惑よりも怒りの方をやや前面に押し出した足立が、薄暗い玄関に立っていた。
「…………さっきは、すみませんでした。あの……」
「これでしょ」
 そう言って携帯電話を差し出した。孝介は頭を下げて受け取り、ポケットに仕舞い込んだ。
「あと、これも」
 続いて出されたのは財布だった。すみませんと呟いて受け取ろうとしたが、孝介が掴んだのに足立は手を離そうとしなかった。驚いて顔を上げると、
「嫌なら嫌って素直に言いなよ。無理強いするつもりじゃなかったんだからさ」
「――別に、嫌だったわけじゃ」
「じゃあなんで逃げたの?」
 ――そんなの、
 言えるわけがない。
 不意に財布が重くなった。足立が手を離したのだ。しっかり握っていなかった為に、財布は足元に落ちてしまった。拾おうとして身をかがめた時、背後でドアがゆっくりと閉じた。孝介は顔が上げられないまま財布を拾い、身を起こした。
「ねえ、取り引きしよっか」
 やけに明るい声で足立が言った。
「え……?」
「ちょっと待ってて」
 そう言って足立は一度奥へ行き、財布を持って戻ってきた。そうして千円札を何枚か取り出すと、孝介の目の前の廊下に置いた。
「拾って」
 意味がわからず、足立の顔をまじまじとみつめてしまう。
「あの……どういうことですか?」
「だから取り引きだよ。僕がお金で君を買う。君はお金を貰って何時間か体を貸す。どう?」
「――――――――はあ!?」
 その「取り引き」とやらが何を意味するのか、わからない筈がなかった。売春、援助交際――まぁそういうことだ。
「悪い提案じゃないと思うけどね。ほら、物々交換みたいなもんだよ」
「物々交換って……」
「だって、僕が一方的に搾取するんじゃ悪いしさ」
 搾取。
「…………犯罪ですよ」
「知ってるよ」
「刑事の言葉ですかっ」
 足立が笑った。「正義感が強いんだねぇ」と、まるでからかうみたいに言ってのける。
「君さえ黙ってたらわかんないじゃない」
「……」
「どうする?」
 足立は本気のようだ。本気で取り引きを申し出ているのだ。
「……俺が喋ったら、どうなるんですか」
「一人の刑事の未来が終わるねぇ」
「……っ」
「って言っても、とっくの昔に終わってるし、別にどうでもいいよ。嫌ならこのまま帰ればいい」
 そう言って足立は腕を組み、壁に寄り掛かった。
「君が黙っててくれる限りは――あぁあと僕のお金が続く限りは呼んであげられるよ。あんまり期待するほどはあげられないかも知れないけどね」
「……」
「選ぶのは君だよ」
 足立の顔から表情が消えていた。まるで試すようにこちらをじっと見下ろしている。わずかに怒りの念だけは感じられたが、だからといって、ただの嫌味として条件を提示しているわけではないようだ。
 ――なんでだよ。
 なんでこんなことになってしまったんだろう。
 ほんの十数分前まで、笑いながら話していたのが嘘のようだった。足立を好きだと気付いた自分が、もはや別人のように感じられる。逃げ出したことを謝ったら許してもらえるんだろうか。あの時逃げなければ、こんなことにはならなかったんだろうか。答えを出せないまま考え続けたが、でも、もう遅い。逃げ出さないことは選べなかった。だから今、別の選択肢を突き付けられているのだ。
 断ったら全てが終わる。恋慕の日々も、あの口付けも、肌に触れる熱い指も、全部なくなる。でも代わりに嫌な思い出と、日々の平穏を手に入れる。
 もし受け入れたら?
 金が手に入る。そして、足立に会える。
 ……足立に会える。
 突然逃げ出したことで足立はもう自分を嫌いになっているだろう。それでもこんなことを言い出すのは、まだ「さわりたい」と思ってもらえているからだ。
 せめて次の「誰か」をみつけるまでは。
 もうこれしか方法がないというのなら。
 孝介は足元に目を落とした。手を伸ばして金を拾い上げた。そうしてその札をひらひらと振りながら、
「あと同じだけくれたら、今日もうちょっと付き合ってもいいですよ」
 足立はにたりと、大きく嗤った。


 シャワーを浴びた後、ジュースを飲みながら少しぼんやりした。夕方の六時に近い筈だが、外はまだ明るい。梅雨特有のまとわりつくような空気が部屋中に籠っている。
「エアコンないんですか?」
 くわえ煙草でベッドに横たわった足立は、「扇風機はあるんだけどさぁ」と言って、部屋の隅に積み上げられた荷物の山を指差した。
「多分、それのどこかに居る」
「……いい加減少しは片付けましょうよ。異動になってから三ヶ月くらい経つんでしょ?」
「いやもう、面倒でさぁ」
 そう言って、あははとだらしなく笑った。
「お掃除サービスでも頼もうかと思うんだけど、結構高いんだよねぇ。ホラ、君にいっぱいお金払っちゃったから」
「知りませんよ」
 ジュースを飲み干して立ち上がる。落ちていた洋服を身に着け始めると、足立は煙草を消して起き上がった。
「帰るの?」
「帰ります」
「はーい」
 足立は財布を探って金を取り出した。玄関に向かい、空手で戻ってくる。
 奴は絶対に金を手渡ししない。帰り際に拾っていけるよう、最初と同じく玄関先の廊下に置いておく。言い分として、足立はこの金を「落としてしまった」ということにしているらしい。それを偶然孝介がみつけ、拾っていく、という流れのようだ。
 直接金を渡しているわけじゃないから、孝介の手に金が入るのは別におかしいことではない、という建前らしいが、そもそも借りている部屋の占有地内に、しかも玄関の内側にある金を「落ちている」とするのは無理がある。
 警察に身を置く者として最後に残したプライドなのかなんなのかは知らないが、くだらない、と孝介は思う。
 ――所詮は売春だろ。
 金をくれると言うから会いに来る。金をあげるから来いと言う。二人を繋げる唯一の物は、この紙切れだけだ。おかしなものだ。自分の体がこんな、どこにでもある紙切れにすり替わっているなんて。
「それじゃあ」
「はーい。また今度ねー」
 玄関で靴を履き、金を拾いながら立ち上がる。ドアを開けて外に出る時、「また今度」が次はいつになるのか、期待するのはもうやめた。


世界で一番・その1/2013.06.17


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