「あそこかなぁ?」
運転手の間の抜けた呟きが車内の沈黙を崩してくれた。見るとガードレールが途切れ、三台ほど車が止められそうな狭い広場が現れた。孝介はその広場をじっとみつめ、反対側の山肌に細く延びる石段を見たあと、ここです、と言ってうなずいた。
タクシー代は孝介が支払った。半分出すと言ったのだが、付き合わせたの俺だし、と言って受け取ろうとしなかった。陽介はトランクから下ろした自転車のハンドルを握り、広場を囲む背の低い柵に向かって歩き始めた。その最中、タクシーは無事Uターンを済ませて来た道を戻っていった。広場を入ってすぐのところに自販機が二台並んで立っている。それ以外にはベンチもなければ案内板もない、本当にただの空き地だった。
孝介はひと足早く柵へとたどり着き、腰の高さのそれに両手を付いてそっと身を乗り出している。すぐ側に自転車を止めて同じように身を乗り出してみたが、見えるのは山ばかりだった。稜線が途切れる辺りに町らしきものがわずかに見えたが、それだけだ。
こんなところが、と思わずにはいられなかった。
「神社ってどこにあるんだ?」
景色には早々興味を失っていた。多分石段登っていったところだと思う、孝介は柵にもたれ山をじっとみつめたまま答えた。
「俺、ちっと行ってくる」
「うん」
陽介が道路の向かい側にある石段目指して歩き始めた時も、孝介はずっと山をみつめていた。
――どういう人だったんかなぁ。
車の全く来ない道路を渡り、幅の狭い石段をゆっくりと登り始めた。勾配はいささか急で、手すりにしっかりと掴まっていなければ、雨でも降った日には簡単に足を滑らせそうだ。しかも右へ左へと曲がりくねっているので、途中で振り返ってみたが、既に相棒の姿は木の枝に隠されて見えなくなってしまっていた。
どういう人だったんだろう。
目的もなく石段を登りながら陽介は考えた。あの相棒が惚れ込むほどの相手だ、浮ついた女じゃないだろう。歳が離れているとも言っていた。フラれた、などと言って簡単に終わったように見せているが、本当はどうだったんだろうか。
不安が抑えきれないのは、孝介のあの表情を見たせいだ。
『一人じゃ無理そうだ』
一緒に来てくれないかと懇願された時に見せたあの顔。どこかで見た覚えがあると思ったら、あの晩だ。足立が犯人だとほぼ確実になったあの夜、小雪がちらつくなかで隠そうとしていたあの表情に似ている。
自分が傷付けられたのだと理解出来ずに茫然としている子供のような、そんな顔。強いと思っていた孝介がそんな表情を見せるのは初めてだった。自分がどんな無理に付き合わせていたのか、陽介はその時やっと実感した。だから言ったのだ。
『嫌なら来なくてもいいぞ』
そんなことを言ったからって相棒が納得するとは思わなかったが、言わずにはおれなかった。
お前は今辛いと感じてるんだと、少なくとも教えてやりたかった。
何故そんな顔をまた見なくてはいけないのか。陽介は脇から背を伸ばす雑草を引き抜いて、石段を取り囲む林のなかへと放り投げた。なんだか胸がもやもやする。神社など行かず側に居てやった方がいいんじゃないだろうか。だけど、たとえ見るものは何も無くても、あそこはどうやら思い出の場所であるらしい。それなら少しだけでも一人きりにしてやった方が気持ちの整理が付くんじゃないだろうか。いやでも。しかし。うーむ。
そんなことを考えているうちに、足は石段を登り切っていた。神社は確かにあった。だけど普段は一般に開放されていないらしく、境内を取り囲む鉄柵が陽介の侵入を呆気なく阻んだ。入口の扉に手を掛けてみたが、案の定鍵が掛かっている。
「ちぇ」
しばらくそのままの格好で境内を眺めていたが、誰かが現れるということはなかった。耳を澄ませても話し声は聞こえない。やはり誰も居ないようだ。
――どーすっかなぁ。
ふと辺りを見回した時、柵に沿うように細く獣道が延びていることに気が付いた。日常的に使われているわけではないらしく、探そうと思って見なければ気付かないほどの頼りない道だ。どこに出るのかはわからないが、どうせほかに行く当てもなし、試しに進んでみることにした。
目の高さに伸びる枝を手で払い、下草に見失いそうな道をじっとたどっていくと、道はやがて柵から離れて林のなかへと入り込んだ。滑らないよう木の幹に手を掛け、おっかなびっくり足を踏み出す。が、仕舞いに道は途切れてしまった。
どこか目的地らしいものはないかと辺りを見回したが、それらしい建物も苔のむしたお地蔵様も見当たらなかった。草むらのなかに白っぽいものがあったので見に行くと、なんのことはない、見馴れたジュネスの買い物袋だった。風に飛ばされてここまでやって来たのだろう。
――つまんねえの。
戻ろうとして振り返った時だった。さっき掴まっていた木の幹に何かがぶら下がっていることに気が付いた。またぞろ木の蔓かなんかだろうと思って顔を近付けてみると、不細工な出来ながらそれは人形だった。しかも吊るされているわけじゃなくて、きちんと釘で打ち込まれていた。
それが何を示すものなのか、頭が理解することを拒んでいる。
陽介はそっと目をそらせると木の脇を抜けて獣道まで戻っていった。必要以上に息をひそめながら石段までの道を早足でたどる。手すりにしがみつくようにして一歩一歩確実に石段を下りていったが、ふと、どこまで下りても終わらないんじゃないかと恐ろしいことを想像してしまい、いやそんな筈はない、確か登る時だってそんなに時間は掛からなかった筈だ、もうじき終わる、ってか終わるよな? いや終わってちょうだいお願いだからと半泣きになりつつ終点を目指した。
林が途切れてアスファルトが見えた時は、本気であの世から戻ってきたような気分だった。
「あいぼおおおぉぉぉ!!!」
孝介は柵の前で地面に腰を下ろし、飽きもせずに山をみつめている。
「ちょ、聞いて聞いて! 俺すっげぇモン」
孝介は泣いていた。
自分が戻ったことに気付いてあわてて涙を拭ったが、それでも止められない涙が次から次へと溢れ、何かを言いかけた口がしゃくり上げた時、観念したように両手で頭を抱え込んで、また泣いた。
「おい――」
「いつか話す」
そう言った直後に、またしゃくり上げる声が聞こえた。
「今は無理……っ」
そうして、何が腹立たしいのか自分の頭をゆっくりと殴りつけ、しゃくり上げてはこらえきれない嗚咽を洩らした。陽介は茫然と立ち尽くしたままその姿を見下ろしていた。両腕で頭を抱え込んだ孝介は、まるでこの世から消えてしまおうとしているみたいに見えた。一人ではしゃいでいた自分が急に恥ずかしくなってきた。
「……いいよ、別に」
陽介は手すりの支柱に背を預けるようにして座り込んだ。
「無理に聞かねぇよ」
しゃくり上げる声が返事だった。
それから長い時間、孝介は泣き続けた。陽介は膝を両手で抱え込み、時にあぐらを掻き、組み合わせた自分の手や道路の向かい側にある石段や、それを取り囲む林に目を向けた。日の光に目を細め、どこからか聞こえる鳥の鳴き声に耳を澄ませ、ごく稀に通り過ぎる車の姿を目だけで追った。どういうわけかつられて泣きそうになり、実際わずかにだが涙をにじませ、気付かれないよう指で拭ってから深く息を吐いた。
――ちくしょう。
無力な自分が腹立たしかった。こうなることをちらりとも予想していなかった、愚かな自分が憎くてたまらなかった。親友が傷付いていることにも気付かず、ただ毎日呑気に笑っていた自分。あぁ、クソ。
もう一度深く息を吐いた時、我慢していた筈なのに、目の端から涙が落ちた。孝介の慟哭は胸の奥を深くえぐり、忘れようとしていた傷の在り処を目の前に突き付けてくる。しかもその傷を埋めるものは何もなく、癒せるものはどこにもない。親友の背中は一切の慰めを拒んでいる。陽介に出来るのは、ただ側に居ることだけだ。
いつ終わるとも知れないその嘆きを、自分のもののように感じるだけだ。
気が付くと日が暮れかかっていた。西に傾き始めた太陽が雲に影を生み出している。吹き付ける風が肌寒く感じられて、風邪引かねぇかなと心配になって振り向くと、孝介は体を起こしてぼんやりと遠くの景色を眺めていた。
少し前から泣き声がやんでいたのには気付いていた。小さな嗚咽がしばらく続き、何度か咳き込んだあと、座り直す音が最後だった。孝介は今あぐらを掻き、力の抜けた顔で途方に暮れている。陽介の視線に気付いて振り返ったが、その目はなにも見ていないようだった。やがて泣きはらした真っ赤な目を静かに伏せ、また山の向こうをぼんやりとみつめた。
「……腹減った」
それが最初の言葉だった。陽介は苦笑して立ち上がった。
「愛家でも寄ってくか?」
「うん」
脇に立つと孝介は一度こっちを見上げ、それから手すりに掴まってのろのろと立ち上がった。そのまま身を乗り出すようにしてまた遠くを眺め、陽の陰り始めた空を名残惜しそうにみつめた。
「……星がすごく綺麗なんだよ、ここ」
「へえ」
「俺、流れ星なんか初めて見たなぁ」
誘うように一歩を踏み出したが、孝介は動かなかった。再び足を止めて振り返った時、泣きはらした目がためらいがちにこっちを向いた。
「ありがとな」
陽介は返事に困って頭を掻いた。そうして自転車にまたがり、後ろの方を相棒に向けながら言った。
「またチャリ使いたくなったら言えよ。いつでも貸してやるからさ」
「うん」
「…………その、俺で良けりゃいつでも付き合うからさ」
一人で泣くなよ。
「……」
言った瞬間に後悔していた。人生ってのは恥の積み重ねなんだろうか。そう思った時、孝介の声が背中にぶつかってきた。
「陽介、かっこいい」
「茶化すな、アホ!」
振り返ると孝介はにまにま笑っている。陽介は腹立たしくてたまらず、一人でさっさと走り出した。
「ちょ、置いてくなよ!」
「うるせえ! 一人でのんびり歩いて帰ってこい!」
「俺死んじゃうって!」
道が下り始めるところで自転車を止めた。後ろから孝介がとぼとぼと歩いてくる。
「も、陽介最悪だな。俺マジで腹減ってるのに」
「泣き過ぎなんだよ」
孝介が後ろに乗ったことを確認すると、陽介は地面を蹴った。自転車はなだらかな傾斜に沿って滑るように走り始めた。しばらくすると、左の方を見ろと孝介が言う。一部分だけ林が途切れて町が見下ろせるのだそうだ。
言われたとおりに見ていると、木々の合間に町が姿を現した。黄昏のなかで所々、街灯や家の灯りがきらめいていた。遠目で見ると畑や田んぼがあちこちにあるのがよくわかる。田舎で、野暮ったくて、大っ嫌いだった町。
でも今は、大事な家族や仲間や、親友と共に暮らす大切な場所だ。その町が今、黄昏のなかで今日を終えようとしている。また新しい明日を迎える為に。
それも俺だ/2012.01.09