全校生徒が揃っていても、体育館の空気は非常に寒々しかった。三月初旬の、ようやく空気が温もり始めた頃だ。陽介はパイプイスに腰を下ろしたまま何度も両手をこすり合わせた。だがそれでも我慢出来なくて、結局はポケットに隠しておいたカイロを取り出し、手のなかで握りしめた。
「あ、花村ずるい」
後ろから千枝の咎める声が飛んでくる。ちらりと振り返ると、同じく寒さに身を震わせた千枝が、いささか羨ましげにこっちを睨み付けていた。
「ずるいってなんだよ。俺が小遣いで買った俺のカイロです。いつどこでどう使おうと俺の勝手だろ」
「別に駄目って言ったんじゃないじゃん」
「お前ら、声でかいぞ」
今度はすぐ後ろから相棒の囁き声が聞こえてきた。陽介は返事代わりに肩をすくめて前へと向き直った。少し経ってから振り返ると、偶然かも知れないが再び千枝と視線がぶつかった。陽介はやれやれと首を振り、無言でカイロを差し出してやった。
「サンキュー」
千枝の弾んだ声は、マイクを通してスピーカーから放たれた教師の声にあっさりと掻き消されてしまった。
『えーでは、次。在校生、送辞』
はい、とよく通る男の声が右の方から聞こえてきた。音もなくパイプイスから立ち上がったのは、去年秋の選挙で選出された新しい生徒会長だ。通路を進んで壇上に上がり、マイクの前で一礼をする。だがくどくどしい台詞は一切聞こえてこなかった。卒業おめでとうございます、と言ってまた頭を下げ、当然のようにマイクの前を離れていく。
司会役の教師も、生徒会長が席に着いたことを確認すると、手元のメモに目を落として続く項目を読み上げた。
『卒業生、答辞』
同じく、はいと返事をして立ち上がったのは、やはり前生徒会長だ。陽介はパイプイスにもたれて壇上にある先輩の顔を眺めた。そうして、前の生徒会長ってあんな顔だったっけ、とぼんやり考えた。
「もう一年経っちゃったんだね」
千枝のボヤキともつかない呟きが聞こえた。陽介はイスの上で座り直しながら、そうだな、と呟き返す。
「四月になったら、うちら三年だよ?」
「なんか実感湧かねぇな」
陽介の苦笑に、俺もだ、と相棒が呟いた。
「早かったよね」
「……そうだな」
ふと腕をつつかれて振り返った。千枝がカイロを差し出そうとしている。陽介は前を向いたまま腕を伸ばし、温もりを受け取った。
そうしてまた自分の手を温めながら考える。去年の今頃も、やっぱりこんな気候だったんだろうか。たった一年前のことなのに、毎年春を迎えている筈なのに、どういうわけかはっきりと思い出せない。
ただ、あの時はもう少し暖かかった。――陽介は体育館の前方へと目を向けた。三年生一同が名簿順にイスに着いているあの辺り、壇上がよく見える場所で、陽介は小西早紀の死を知った。
あれから一年近くが経つ。明後日は卒業式だ。
知らずのうちにため息が洩れていた。陽介は握りしめていたカイロを膝の上に置き、何も持たない両手をごしごしとこすり合わせた。開いた手の平をじっとみつめ、何度か握ったり開いたりを繰り返す。
あっという間だった。長い一年間でもあった。打ちのめされ、悲しみにふさぎ、自分の未熟さを嫌と言うほど味わわされた年だった。
たった一年しか過ぎていないと考えると、なんだか不思議な気分になってくる。もっとずっと昔に起こったことのような気がするのだ。それだけ自分が変われたというのなら歓迎すべきことなのだろうが、実際にはどうなのだろう。相変わらずだらしないままの自分で居るようにしか思えなかった。
でもまぁ、それも俺だ。
陽介はカイロを握りしめて笑った。
どこまで続くかはわからないが、生きている限りもっと辛いことが起こるかも知れないし、たくさん嫌な目にも遭うだろう。その度にみっともなくわめいたり、だらしなくあわてたりするとしても、その全部を覚えておこうと思う。ここにある自分自身から目をそらさず、出来る限り嘘をつかずに生きていきたい。
まもなく春がやって来る。
陽介は今ここに居ない誰かの為に、心のなかに席を作り、その人を座らせた。見えるのは後ろ姿だけだ。思い返してみれば、いつもこうやって後ろ姿ばかりを眺めていた気がする。きっと笑っていてくれと願いながら陽介は目を閉じた。暖かな陽射しのなかで微笑む彼女を思い浮かべ、短い時間を祈りに捧げた。
決して変わることのない彼女の姿は、今も自分の胸にある。
卒業式が近いというのは、同時に三学期の期末試験が近いということでもある。午前中だけで解放された生徒たちは、各々暗い表情で正門へと向かっている。
陽介は数学を教えてくれと頼み込んで相棒という名の個人教師を確保していた。しかし勉強するとしても、フードコートでは騒がしくて勉強どころではないし、図書館は恐らく占領されたあとだろう。うちでするか相棒の家へ行くかと、購買で買い込んだ総菜パンを片手に、二人は校舎の屋上で話し合っている最中だった。
「――あのさ」
フェンスにもたれて遠くを見ていた孝介が不意に口を開いた。
「あそこ、どうやって行けばいいかな」
「ん? どこよ」
相棒が指し示す方向を見るが、見えるものと言ったら山しかない。沖奈市とは反対方向の隣町に接する、なんの変哲もないただの山だ。
「どこよ」
「あの山。――ホラ、頂上の辺りに小屋みたいなの見えないか?」
神社があるのだと教えてくれた。見る角度を変え、目を細めてようやくそれらしきものを視界に捉えた。言われなければ絶対気付かないほど屋根は色褪せ、周りの樹木と同化してしまっていた。あんなのよく気付いたなぁと感心して言うと、まぁねと孝介は誤魔化すみたいに笑った。
陽介は同じくフェンスにもたれ、山へと続く道を目で確かめた。どうやら路線バスは通っていない方角のようだ。だが徒歩は無理だし、自転車で上がるとしても相当体力が必要になるだろう。
「やっぱ車じゃね? 堂島さんに頼んで乗っけてってもらえば?」
「……叔父さんには、ちょっと」
「じゃあタクシーだな」
陽介がそう言うと、やっぱりそれしかないかと孝介は嘆息した。
「何があんだよ」
孝介はしばらく逡巡したあと、別に何もないんだけどと言って小さく苦笑した。
「向こうへ帰る前に、ちょっと見ておきたいんだ」
「ふうん……」
そう言われると、もう何も訊けなくなってしまう。陽介は再び方向を確かめながら考えた。
「チャリとかどうよ」
陽介の言葉に、相棒は困ったように首をひねっている。
「行きはタクシーに積んでってもらってさ、帰りはチャリ乗ってくりゃいいじゃん。山下るんだったら楽勝だろうしさ」
「いいな、それ」
「よかったら俺の使う? まだちっとギコギコうるせぇけど、ちゃんと乗れるぜ」
渡りに船とばかりに孝介はうなずいた。
二人は簡単な昼飯を済ませると陽介のうちへ向かった。自宅への道を辿っているあいだ、陽介は、例の彼女がらみのことかなぁとぼんやり考えていた。
いつの頃からか孝介は恋人のことを全く話さなくなった。元々積極的に話してくれる方ではなかったが、年が明けてどれくらい経った頃か、ふと訊いてみると、「フラれた」と言って肩をすくめてみせた。それで終わりだった。
東京へ戻る時期が近付きつつもあったし、陽介は深く突っ込まなかった。必要以上に傷を広げて稲羽市に来ることを拒まれてはたまらない。それに、傷の癒し方は人それぞれだ。もし孝介が頼ってくるのであれば応じるし、そうでないならさわらない。そんな気遣いの仕方を、この一年で陽介は学んだ。
部屋へ行くよりも先に車庫へ向かった。母親が使う軽自動車の後ろに、陽介の愛車が置いてある。春に調子が悪くなってから通学には一切使わなくなったが、今でも整備をしているし、天気のいい休みの日には鮫川の方まで一緒に出掛けることもあった。
棚を探って鍵を取り出すと、掛けていたチェーンを外して車庫から引っ張り出した。日の光の下で見ると、うっすらと埃をかぶっている。陽介はあわてて車庫に戻り、やはり棚に詰めてあったボロタオルを持ってきて車体を拭いてやった。
「ほれ、これだ」
「ありがと」
陽介が差し出すそれを、相棒は怖々と受け取った。少し押してみてその場でサドルにまたがり、高さを調節している。
「返すの、いつでもいいからさ」
「うん。……あの」
孝介が自転車から降りてこっちを見た瞬間、何を言われるのかわかっていたような気がした。
「……その、勉強会なんだけど」
「ん?」
「今日じゃないと駄目かな」
申し訳なさそうに言ったあと、相棒はハンドルの方へと視線を投げた。わかっていた筈なのに、なんとなく勢いで訊いてしまった。
「もしかして、これから行くのか?」
「…………どうしようかな」
自分から言い出したことなのに、自分でも迷っているような口ぶりだった。陽介はおどけて両手を上げ、別に構わねぇよと答えてみせた。
「どうせ試験は来週だし、お前の都合がつきゃいつでも」
「……」
孝介はまだ迷っているみたいだ。両手で握りしめたハンドルから片手だけ放し、一度こっちへ押し返すようにしながらも、また自分の方へと引き戻している。
「……陽介」
「ん?」
振り向いた孝介は、やっと決心を付けたようだ。だがその口から出た言葉は、陽介には意外なものだった。
「一緒に来てくれないか」
「へ!? 行っていいの?」
「うん」
そうしてぽつりと、一人じゃ無理そうだと呟き、自嘲気味に笑った。同じような表情をいつかどこかで見たなと思う合間に、陽介は玄関へ向かっていた。
「じゃあ、とりあえず着替えてくるわ。ちっと待ってて」
「ごめんな」
「ばーか、なに謝ってんだよ。――あ、あとお前も荷物」
「うん」
放られたカバンを受け取って陽介は玄関のドアを開けた。ひょっとしたら彼女との思い出話とか聞けるかも、と不謹慎ながらも期待に胸が弾むのは、隠しようもない事実だった。
駅前でつかまえたタクシーの運転手も、さすがにその神社のことは知らないようだった。説明しますからと孝介が言うと、運転手は訝しげに首をかしげながらも車を発進させた。
トランクには陽介の愛車が積まれている。紐で閉まらないフタを押さえつけているのが、なんとなく不安でたまらない。そんなことはないとわかっていても、道路のわずかな段差などに乗り上げるたび、陽介は背後を振り返って愛車の存在を確かめずにはいられなかった。
車は一度大通りに出てバイパスを目指した。孝介が指し示した山は隣町との境になる辺りで、民家や畑が点在する以外に目立った施設はなかった筈だ。予想通りバイパスに入ったとたん、両脇を小高い丘に囲まれてしまった。孝介は前方に身を乗り出して、じっと通り過ぎる風景をみつめている。
「――あそこです」
曲がるべき道をみつけたらしい。腕を伸ばして運転手に示している。
「向こうでUターン出来る場所あります?」
「あります。大丈夫です」
運転手の不安そうな声に、孝介はしっかりとうなずき返した。
道を曲がると、急に辺りが薄暗くなった。背の高い樹木が陽射しを遮ってしまっているようだ。あとはまっすぐ行くだけですからと言って、孝介は座席にもたれかかった。そうして窓の外に視線を投げると、等身大の人形のように動かなくなった。
陽介はなんとなく声が掛けられずに居る。
車は比較的ゆっくりとしたスピードで頂上を目指していた。すれ違う車は数えるほどしかない。陽介も脇を見てみるが、これといって目を止めるものなどひとつも見当たらなかった。相棒の座る方へ目を向けた時、ふと春の陽射しが車内に満ちてあっという間に消えていった。その時だけ孝介は座席の上で座り直したが、やはり口は開かないままだった。