ボールの弾む音が体育館のなかに響き渡っている。
今日の体育はバスケットボールだ。普段の孝介ならバスケ部に入っていることもあるし、張り切って試合に参加するのだろうが、残念ながらそんな気にはなれなかった。順番待ちで床に座り込んだまま、ぼんやりとボールをもてあそぶばかりだ。
「――な、今日クマのところ行くだろ?」
隣に座った花村陽介がこっそりと耳打ちしてきた。しかしぼんやりしていた為に孝介は言葉を聞き逃してしまった。自分がそうしたということにも気付いていなかった。苛立たしげに肩を小突かれて、やっと孝介は我に返った。
「え? ごめん、なに?」
「だから、完二のことでさ」
そう言ったあと、陽介は用心深く周囲を見回した。孝介はとりあえずうなずいて返す。そして頭を切り替えろ、と強く自分に言い聞かせた。
とうとう四人目の被害者が現れた。まだ表沙汰にはなっていないが、孝介たちが動かなければ確実に危険な状況だった。
そう理解してはいるが、孝介の心はどこか宙をさまよっていた。そうして知らずのうちにため息までついてしまう。側に居る陽介がそれを聞き逃す筈もない。
「どうしたんだよ」
元気ないな、と心配そうな目を向けられた。孝介は曖昧にうなずいて返す。
「大丈夫だよ。今度も絶対に助けられるって」
「うん……」
そうだ、自分たちの力で助けるしかないのだ。ぼんやりしている場合じゃない。それはわかっている。わかっているだけに、こうしていつまでももやもやを抱えているのが嫌になってきた。だから思い切って訊いてみることにした。
「なあ、花村」
「うん?」
「お前、キスしたことある?」
陽介が吹き出した。
「ななな、なにを急にっ」
「ある?」
有無を言わせぬ勢いで重ねて訊いた。陽介は顔を真っ赤にしたまま、うんともいいやとも返事をしない。じっとみつめていると、陽介はしどろもどろになりながら「あるよ」と呟いた。
「マジで!? いつ? どこで? 誰と!?」
「なんだよ、なんでそんなに食いついてくるんだよ! お前そんなキャラだったか!?」
「だって知りたいし。で、いつ? 誰と?」
「いや俺だってそういう話は嫌いじゃないけど、ちょっとシチュエーションを選ぼうよ!」
逃げようとしている陽介のジャージをつかんだ時、孝介の顔すれすれのところにバスケットボールが飛んできた。驚いて振り返ると、体育教師の鋭い視線にぶつかった。
「やかましいぞお前ら! 正座しておとなしく待っとけ!」
バスケ部の顧問でもあるその男性教諭は、体育の授業とはいえさすがに試合となると真剣だ。二人はおとなしく並んで正座をした。
「で? いつだったんですか」
「……まだその話題続けんのかよ」
「始めたものはどこかで区切らないと据わりが悪いだろ」
「今ので区切られたんじゃなかったんですか。俺ら揃って正座とかさせられてるし」
「花村がおとなしく白状しないのが悪い」
「なんで俺のせい!?」
ぎろり、と体育教師の視線が飛んでくる。二人は同時に口を閉じた。そのまま孝介は隣に座る友人の腕をつついた。見ると陽介は顔を真っ赤にしてうつむいている。
「幼稚園の時」
ぽつりと呟くのが聞こえた。
「幼稚園の時だよ。初恋だった子と。ちゃんと結婚の約束までしてたんだぞ。毎日お昼寝の時間は手ぇつないでさ。……そんなことしっかり覚えてる俺ってかなりキモいな。言ってて自分で嫌になってきた」
恥ずかしそうにうつむく陽介は、まるで穴があったら入りたいといった風情だった。整った顔立ちで黙っていればモテモテであろうこの友人は、意外にも純情なところがあるらしい。
孝介は思わずため息をついていた。
「いいなあ。甘酸っぱい思い出」
「なんだよお前、俺のことバカにしてんだろ!」
「してないよ」
「どうせそれっきりだよ、それが唯一の経験だよ、お前みたいに百戦錬磨の風貌なんてかけらもないよチクショー!!」
バスケットボールが飛んできた。
「花村! 月森! お前らスクワット三十回!」
百戦錬磨。
――だったら良かったのになあ。
商店街を北に向かってトボトボと歩きながら、孝介はまたため息をつく。
完二を助ける為にクマへ渡す情報を集める必要が出た。仕方なく孝介たちはそれぞれに分かれて町中を駆け回り、あちこちの人から話を聞いている。巽完二は孝介と同じ八十神高校の一年生なのだが、授業には殆ど出席していないらしく、なかなか情報が集まらない。そこで初心に帰ってみようと、実家の巽屋という染物屋に向かっているのだった。
頭の大半は完二救出に向けて動いているが、煮え切らない部分が確実に存在する。歩きながら孝介は何度も自分の顔を叩いた。ちょっと気を抜くとあの晩のことを思い出してしまうのだ。
だってファーストキス。
しかもディープキス。
「…………!!!」
忘れたい。本当に本当に忘れたい。せめて相手があの足立でなければ。
なんの因果でこんなことになったんだろう。
古びた神社の鳥居が見えてきた。目指す巽屋はすぐそこだ。しかし孝介は気が重い。それは完二が映ったマヨナカテレビの内容にも関係していた。
『崇高な愛を求める人たちが集う施設』
――行きたくない。
そんなわがままを言っている場合じゃないのはわかっていても、正直行きたくない。
孝介は悲しいことに足立が吸う煙草の匂いを覚えてしまった。初めて会った取調室、四月下旬の月の赤い晩、そして先週。銘柄は知らないが、少し甘さの残るあの匂いを記憶してしまった。
生きるということは記憶を積み重ねていくことなのか、と孝介は思う。楽しいことばかりが毎日続くわけじゃない、そんなことも期待していない。でもこれはあんまりだ。もしひとつだけ思い出を入れ替えることが許されるなら、俺は絶対にあの晩の記憶を消す。それが無理なら足立以外の誰かにすり替える。
あの時、舌の絡み合う感触を気持ちいいと思ってしまった自分を、絶対に消す。
「そんじゃ、どもー」
巽屋の入口の戸に手をかけようとした時、それは向こう側から開けられた。外に誰かが立っているなどかけらも考えていなかったようで、孝介はあやうく出てきた人物とぶつかりそうになった。
「あれ? 君、堂島さんとこの」
間が悪いとはまさにこのことだ。出てきたのはよりによって足立だった。
孝介は無言できびすを返した。
「ちょっとちょっと、なに人の顔見て逃げ出そうとしてんのさ」
後ろから伸びてきた手が孝介の肩をがっちりとつかんだ。
「本職の刑事さん前にしてそんな怪しい態度取ったら、疑われても仕方ないよぉ?」
「人の顔見ただけで犯罪者扱いですか。冤罪で訴えますよ」
「なにそれ」
正直足立と話などしたくなかったが、逃げ出そうとしている、という言葉が引っかかった。事実孝介は逃げようとしていた。そんな自分が腹立たしくてたまらず、怒りによって足を止めた。
「いやあでも、珍しいところで会うねえ。なに、巽屋さんになにか用事?」
「……話さないといけないんですか」
「いや、別に」
足立は孝介のぶっきらぼうな言葉に少し驚いているようだった。
「ちょっと、友人に頼まれたんです」
「友人って……ああ、天城屋旅館の子? そういえば彼女元気にしてる? 一時期居なくなっちゃってたし、どうしてるのかなーって気になってたんだ」
「元気ですよ」
会話は続いているが、どうにも気まずくて顔が見れなかった。この様子からすると、やはり足立はすっかり記憶をなくしているらしい。
――うらやましい。
二十歳になったらとっとと酒を飲もう。大人はどうもそうやって嫌な記憶を飛ばすようだ。
「なに。君は元気じゃなさそうだねえ」
「……」
「なんか悩みがあるなら話してごらんよ。人生の先輩が相談に乗ってあげるよ?」
孝介は一瞬ためらったが、思い切って訊いてみることにした。傷をえぐるのは勿論痛い。しかし痛みを我慢して膿を出さなければ治るものも治らない。
「じゃあ、人生の先輩である足立さんにひとつお聞きしますけど」
「はいはい」
「…………いたいけな少年の唇を奪った人はお詫びになにをすればいいと思いますか」
「ええええぇぇぇぇぇ? なになに、奪われちゃったわけ? ねえねえねえ」
しかもお前にな、と叫びたいのを必死でこらえた。足立はにやにやにまにま笑いながらおかしそうに肩を小突いてくる。
「たとえばの話ですよ! いいから答えてください!」
「うわ、なにもぉ。今日は機嫌が悪いんだなあ」
足立は困惑しながらも考え込んだ。腕を組み、片手をアゴに当てて上を向く。そうしてなにを思い付いたのか、にたりとおかしそうに大きく笑った。
「そうだなあ。それはやっぱり、礼儀として心も奪ってあげるべきじゃないかなあ」
「……………………あんたに訊いた俺がバカでした」
「なにそれ」
失礼だなぁと言いながらも、足立は孝介の話に興味を持ったようだ。いつどこで誰に、と、昼間陽介を問い詰めた時の自分以上にしつこく聞き出そうとする。
「だから、たとえばの話って言ったじゃないですか。早く仕事に戻ってくださいよ、じゃないと叔父さんに言いつけますからねっ」
「ひっどいなあ」
僕だって仕事だよ、と反論した時、足立の携帯電話が鳴りだした。孝介はその隙を見て巽屋のなかに入り込んだ。そうして戸を閉てながら、最悪だ、やっぱり最悪だと念仏のように唱え続けた。
むわりとした空気が入口から洩れ出てくる。孝介は瞬間的に嫌な想像をしてしまった。あふれる熱気、湯気、あちこちに放り出されたタオルの数々。そして、声。
『さあ、力を抜いて……』
千枝と雪子が怪訝そうに顔を見合わせた。そうして何故かこちらへと振り返る。
「……嫌だ! 俺はぜってぇに行かねえからな!」
たまりかねたように陽介が叫び声を上げた。
「そんなわけにいかないでしょ」
あちこち駆けずり回ってようやく完二についての情報を手に入れた。それを元に完二の居所を探り当てたわけなのだが。
孝介は湯気の奥をみつめた。霧なのか湯気なのかはっきりしない白いもののなかで、シャドウらしき存在がうごめいているのがわずかに見えた。
完二をこのまま放っておくわけにはいかない。それはわかっている。わかっているが、
「……俺も行きたくないなあ」
「ちょ、リーダーまでなに言い出すのよ!」
あぁもお、最悪だ、本当に最悪だ、孝介は泣きそうになりながら念仏のように唱え続けた。
俺がバカでした/2010.11.14