孝介は本のページをめくる途中で菜々子の寝息に気付き、朗読をやめた。本の隅からそっとうかがうと、幼い従妹は既に夢の世界へと旅立ってしまっていた。無意識のうちに洩れる笑みを静かに抑え、なるべく音をたてないよう立ち上がる。そうして明かりを消すと、部屋を抜けてふすまを閉めた。
 台所には孝介一人きりだ。
 ふと思い付いて孝介は居間を横切り、庭へと通じる窓のカーテンを開けた。家に帰る頃まで降り続いていた雨は、どうやら上がったらしい。流れの速い雲の隙間から時折夜空が見えた。これで今晩は安心して眠れる。そう思ってホッと息をつく反面、一体いつまでこれが続くのだろうと暗澹たる気持ちになった。
 なにもないことが売りだった筈の稲羽市で、先月二件の殺人事件が起きた。遺体の状況から見て、犯行は同一犯に依る連続殺人だと目されている。しかし一人目の犠牲者が出てからひと月近くが経つというのに、捜査はいっこうに進展していなかった。
 事件の解決は警察に任せるしかない。だがその裏で、孝介は仲間たちと独自の捜査を行っていた。勿論非合法だし、その事実を知っているのは片手で数えられるほどの仲間たちしか居ない。
 何故そんな危ないことをしているのか?
 理由は簡単だ。孝介たちは、世に出なかった「三人目の被害者」を知っているからだ。
「たっだいまー」
 玄関の引き戸が開くと共に、耳馴れない陽気な声が飛んできた。あきらかに酔っ払いの声だった。続いてガシャンという耳障りな音。孝介は驚いて玄関へと飛んでいった。そこでは顔を真っ赤にした大人二人が互いに肩を組んだまま、横並びで狭い玄関に入ろうと奮闘しているところだった。
「あーっと、えーっと、」
 酔っ払いの片割れが、にまにま笑いながら片手を上げて孝介を頼りなく指し示す。
「月森です」
「あぁそうそう、堂島さんとこの」
「おー孝介、叔父さんはぁ今帰ったぞっ」
「見ればわかります」
 千鳥足で玄関に入り込んだ足立も、それに続き引っ張られるようにして入ってきた叔父の遼太郎も、どちらもあからさまに酒臭かった。呆れて見ていると、遼太郎は崩れ落ちるようにして上り框に座り込み、履いていた靴を脱いでは豪快に放り投げていく。
「今日は軽く引っ掛けるだけのつもりだったんだけどなあ、こいつがもぉ、酔っ払うとしつこくってなあ」
「またまたぁ。堂島さんだってグイグイ行ってたじゃないすかあ」
 ただでさえ締まりのない顔を更にゆるめて足立が笑った。孝介は言葉もない。
「お兄ちゃん? 誰?」
 騒ぎで起きてしまったらしい。菜々子が柱の陰から不安げに顔をのぞかせた。そうして父親の姿をみつけ一瞬嬉しそうに笑ったものの、酔っ払いどもの醸し出す異様な雰囲気に気圧されたのか、あっという間に笑顔を消した。
「おー菜々子、ただいまぁ」
「……お帰りなさい」
 遼太郎は腕を伸ばして菜々子を呼ぶと同時に、おぼつかない足取りでふらふらと立ち上がった。
「まだ起きてたのかぁ? 早く寝ないと駄目じゃないか」
「寝てた。お父さんの声で起きたの」
「そうか、そりゃあ悪かった悪かった。じゃあ一緒に寝直すとするか」
 娘に手を引かれて遼太郎はのろのろと自室へ向かった。途中で倒れやしまいかと不安になり、孝介もあとを追う。
 部屋に入った遼太郎は布団に菜々子を寝かせると脇にどっかりと座り込み、やや乱暴な手つきで娘の頭を撫でた。酔っ払っているせいで口元は意味もなくゆるんでいるが、菜々子を見下ろす視線は、確かに父親のそれだった。
「あのね、今日ね、お兄ちゃんが本読んでくれた」
「そうかそうか。よかったなあ」
「今度、お父さんも読んでね」
「おーいいぞ。何冊でも持って来い」
「叔父さん、布団敷きますからもう寝てください」
 言うあいだに孝介は押入れを開けて布団を取り出していた。遼太郎は酔いの回った声で「そうかそうか」と返事をすると、ネクタイを取って無造作に放り投げた。そうして下着とランニングだけの姿となって孝介の敷いた布団の上へ倒れ込み、あっという間に眠ってしまった。
 孝介は苦笑しながら毛布と布団をその上に掛けた。菜々子は眠そうな目で父親の寝姿を眺めている。
「起こしちゃってごめんね」
 そう言うと、「お兄ちゃんのせいじゃないよ」と菜々子が笑った。
 放り出されたままのスーツとネクタイを適当にハンガーに掛けて、孝介は電燈の紐に手を伸ばす。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 本日二度目の退室である。
 ――やれやれ。
 静かにふすまを閉めて孝介は息を吐いた。それはため息だった筈なのに、不意に口元がにやにやと笑ってしまい、あわてて手で押さえつけた。
 耳の奥に残る「お兄ちゃん」という響きが、どうにもくすぐったくてたまらない。
 孝介も菜々子も共に一人っ子だ。そしてこの先、兄弟姉妹が増えるだろうとは露とも思っていなかった。だが五月三日、里中千枝に誘われて菜々子と一緒に出掛けて以来、孝介は「お兄ちゃん」と呼ばれるようになった。
 言葉というのは不思議だ、と思う。菜々子に呼びかけられるたびに、それが少しずつ自分に馴染んでいくのがわかった。菜々子の向ける笑顔が以前よりもまっすぐ入ってくるようになった。言葉に出来ないほどの微妙な変化を日々感じている。それが嬉しくもあり、同時に恥ずかしい。文字で表すと「くすぐったい」。だがそれは喜ばしい部類の居心地の悪さだった。
 孝介はにまにまと笑う口元を叩いて自分を戒めた。来週は中間テストだ。少し勉強でもしよう。
「……うわあ」
 戸締りをしようと思ってふと居間を振り返ると、なにやら黒い物体がソファーに伸びているのをみつけてしまった。孝介は一瞬見ないフリをして二階へ上がってしまおうかと考えたが、それは既に無視出来る程度を超えていた。
 いつの間に上がったのやら、もう一人の酔っ払い、足立透がソファーに大きく伸びてでかいイビキを立てている。
 ――帰ったんじゃなかったのか?
 孝介は玄関へ行きかけて足を止めた。足立を追い返すのなら鍵はまだかけられない。だがあの様子では、たとえ起こしたところで無事に自宅へたどり着けるとも思えなかった。仕方なく孝介は玄関に鍵をかけ、二階の自室から毛布を取ってきた。
「足立さん」
 ゆさゆさと肩を揺すると、足立はおかしなうなり声を上げてごろりと向こうを向いてしまった。
 ――なに、この駄目な大人。
 子供の頃、警察官に憧れたことが実はある。駅の側の交番に立つ制服を着たおまわりさんは、やはり戦隊物のヒーローに次ぐ「かっこいい人」の象徴だった。孝介は今、自分の憧れがビシビシと音を立てて崩れていくのを実感していた。刑事と言っても所詮は人間。わかってはいるけれど、もう少し夢を見せてくれたっていいじゃないか。まだ十六歳の少年なんだから。
「足立さん、……いやもう寝ちゃうのはしょうがないですけど、とりあえず背広だけは脱ぎましょうよ。皺に」
「あーーーーっとぉ、誰かが呼んだぁ」
 声に反応したのか、突然足立が起き上がった。しかし完全に寝ぼけているようだった。据わった目でこちらをじっとみつめたあと、誰と勘違いしたのか「アイちゃあ〜ん」と言っていきなり抱きついてきた。
「ちょ!? 放してくださいよ!」
「アイちゃ〜ん、おやすみのチュウーーーーー」
「――――――――!!!」
 人間というのは本当に悲しい生き物だ。普段は誰よりも冷静だと評される孝介だが、やはり所詮は十六歳の若造ということだろうか、なんの罵倒の言葉も口にすることが出来なかった。毛布を握っていたせいで足立を突き飛ばすことも出来ず、いやそんなものは放り出してしまえばいいのだが、そんな簡単なことすら思い付かない。迫ってくる足立の顔を見たくもないのにみつめたまま、孝介は悲鳴さえ上げられずにいた。
 頭のなかは真っ白だ。
 がっぷりと噛みつくように口をふさがれた。――ここまでだったらまだ冗談に出来た。本音を言えば冗談などで誤魔化すようなことは微塵もしたくなかったが、酔っ払いが寝ぼけているという事実と「こいつら駄目人間」という孝介のなかで確立しつつあるレッテルを確実なものにすることでなんとか耐えられた。
 しかし残念なことに舌が入ってきた。避ける暇もなかった。
 ――ちょっと待て!
 逃げ遅れた舌を絡め捕られた瞬間、気絶しそうになった。なにが気絶って、これは孝介の記念すべきファーストキスだ。しかもディープキス。ファーストでディープである。気絶もしたくなる。
 ――ちょっと待て!!
 しかも追い打ちをかけるかの如く、気持ちいい。
 ――ちょっと待ってお願いだから!!!
 いつの間にかわけのわからないものに向かってお祈りを捧げていた。これまでの数分間をやり直せるならなんでもする、あるいは今すぐ俺を気絶させてくださいそして記憶喪失にしてください、本気で孝介は祈っていた。
 げに恐ろしきは酔っ払いである。パニックからなんとか立ち直り、腕に絡む毛布を外して足立の背中と頭をガシガシ殴るまでの約一分間、孝介は存分にキスを堪能されていた。自分を誰かと勘違いしている故なのだろうが、離れようともがけばもがくほどに足立は腕の力を強めてくる。
 どうにか腕をほどいて立ち上がった時、初めて足立は夢から醒めたような顔でこちらを見た。
「あれぇ?」
「……………………!!!」
 怒りと動揺で言葉が出てこない。ひとまず、あれえ? じゃねぇだろと思ったが、口をついて出た言葉は、
「とっとと寝ろ!」
 起こそうとしてた癖に。
 足立はまだ半分夢のなかに居るかのような顔でこちらをぽかんとみつめている。その顔に毛布を叩きつけると、孝介は足音を立てて階段を駆け上がった。寝ている筈の菜々子や遼太郎に気遣う余裕などかけらもなかった。
 自室に入った孝介は扉を閉め、ずるずるとその場に崩れ落ちた。そうして頭を抱えた。
 ――最悪だ。
 記念すべきファーストキスだった。ファーストなのにディープだった。しかも相手はあの足立だ。これ以上の最悪条件は有り得ない。
 ――家に帰りたい。
 稲羽市に引っ越してきて、初めて孝介はそう思った。


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