「……もう警察が動くことはないんですか?」
「捜査本部はだいぶ縮小されましたよ。一応犯人とっ捕まったわけだから、あとは立件に向けての証拠固めくらいだし」
「そんな……じゃあ、真由美を殺した犯人は……」
「今頃どっかで笑ってるかも知れませんねぇ」
 この町のどこかで、と足立は付け加える。
 二人のあいだに落ちた沈黙を、セミの鳴き声が乱暴に崩していた。足立は、このあとどうしようかな、と考えながら自分の影を見下ろしていた。暦の上では残暑に入っている筈なのだが、アスファルトに描かれた影は黒々と、生き生きとして見えた。まるで今にも勝手に動き出しそうだ。
「あなたはそれで平気なんですか」
 生田目の暗い呟きが足立を現実に引き戻した。顔を上げると、生田目は怒りのこもった目で宙を睨み付けていた。
「二人もの人間を殺した犯人がまだ町にのさばってるかも知れないのに、それを放っておけるんですか」
「――警察ってのは残念ながら慈善事業じゃないんです。犯人が捕まれば我々の仕事は終わりだ。それに、もう世間的にはあの高校生が三人を殺したってことになってる。今からそれを動かすのは殆ど無理ですよ。それこそ真犯人でも捕まらない限りはね」
「でも居るんだ。確実に、この町のどこかに――」
 生田目は奥歯を噛み締めながら顔を上げた。怒りに震えながらも、その目は自らの力の無さに打ちのめされていた。
 どう足掻いたって死んだ人間が生き返るわけじゃない。それを痛いほどに実感している目だった。
「……個人的には調べを続けるつもりでいます」
 足立の言葉に、生田目はハッとして振り返った。
「正直どこまでやれるかはわかりません。これまでだって全力を挙げて捜査してきたんです。それでもなにも出なかった。……今更自分一人でなにがやれるか、正直途方に暮れてるところですよ」
 そう言って足立は苦笑を洩らした。
「結局犯人はみつけられないかも知れない。でももし本当に真犯人が居るんだとしたら、僕が動くことで抑止効果になるかも知れません」
「抑止効果……?」
「『四人目』が出ないとは限らない。――違いますか?」
 生田目の瞳に生気が戻ってきた。ようやく思い出してくれたようだ。
 マヨナカテレビの存在を。
「真犯人が居るなら……また誰かが狙われるかも知れない……」
「そうです。そうならないように、個人的に捜査していこうと思ってます」
 ――だからお前は黙って誘拐続けてりゃいいんだよ。
 腹のなかで吐き捨てて足立は笑う。生田目はこちらの言葉に勇気づけられたように何度もうなずいた。
「そうですね……確かにそうだ。その通りです……」
 どうやら目的は達することが出来たようだ。足立は空気を換えるように「じゃ、自分はこれで」と明るい声で挨拶をし、車に向かって歩き出した。大きく息を吐き出しながら、やれやれ、と胸の内で呟いている。
 これで生田目の方は大丈夫そうだ。あと問題は孝介たちだが、まぁあっちは生田目が動けば自動的につられてくれる筈だ。放っておいても平気だろう――。
 そんな風に思っていたのに。
 ――なんだかなぁ。
 最近の足立は、自分がえらく無駄なことをしているんじゃないかと思うようになっていた。
 久保美津雄が逮捕されたことで町にも署内にも一気に平和ムードが訪れていた。事件のお陰で人出は少なかったようだが夏祭りも無事に執り行われた。
 足立は以前にも増して暇を持て余している。
 本音を言えばこんなところで終わってなど欲しくない。もう何人か生田目が誘拐を続けて、そのどこかで失敗して捕まるかあるいは誰かが死亡するか、それが一番面白いと思える結末だった。
 妻には離婚と共に多額の慰謝料を要求され、愛人は無残にも殺害され、本人は職を干されてその挙句に複数の人間を無差別に誘拐、そして殺害した――なんて、最高に面白いネタじゃないっすか。しかも本人には悪気がゼロ。いやあ、日本中のマスコミが稲羽市に集まっちゃうよ?
 だがその為に奔走しても結局は孝介たちが阻止してしまう。唯一の希望としては生田目がどこかで尻尾を出すことだが、その時をのろのろと待っているのは、いささか面倒くさい。
 ――クソガキが。
 あいつらが動かなけりゃいいんだ。そうすればテレビに入れられた人間もおとなしく死ぬし、生田目だって自分がなにをしていたのか理解する。――ホラ、そうすればさ、やっと本当に誘拐が止まると思うよ? いいアイデアじゃない?
 でもそれを孝介に提案することは不可能だった。久保を見殺しに出来なかった奴らだ、誰であろうとテレビに放り込まれたとわかれば、命を張って助けに行くに決まっている。
 クソガキどもが。
 足立は苛立ちと共に思う。お前なんか居なけりゃよかったんだ。少なくともあんな力さえなけりゃ、今すぐあの四角い穴蔵に放り込んで終わりに出来るのに。
 クソが――。
 足立の心は日々倦み続けている。なにをしても実際に動くのは自分以外の人間で、足立はそれを見ているしかない。所轄の人間や孝介たちがおろおろする様を見るのは楽しかったが、最近は少し飽きてきたようだ。
 結局なんの為にこんなことしてるんだっけ、と考えると、足立には理由が思い付かなかった。
 ただ出来たから。ただ面白いから。
 きっかけはそれだけだった。
 現状維持の為に奔走して、それでどうなるというんだろう? これ以上の混乱を見たいのかといえば、まぁ見れるんなら見たいけど無理にって程じゃないし、というのが正直な気持ちだった。
 元からなににも期待などしていない。
 そう考えると、今のままでもいいような気がするのだ。仕事は退屈だが、どうせどこに行ったってこんなもんだろう。公務員という立場なら食いっぱぐれることもない。春先のワクワク感は失ってしまったけれど、機会はこれから幾らでもある。そう考えると今のぬるま湯に浸かった生活も、さほど悪いものじゃないように思えた。
 それにあの頃とは違って、今は孝介が側に居る。それ自体は喜ばしいことのようにも思えるが、そもそもこいつのせいで自分が倦んだ気分を抱えているのだと考えると、またわけがわからなくなってくる。
 ――クソガキが。
 なんで君だったんだろう。なんでだっけ? 僕のこと好きだとかなんとか言ってたよね。ああそうだ、君がそう言ったんだ。ちょっかい出したのは僕が先だったけど、だってそれはさ、退屈だったしさ。
 ――お前なんかに俺の邪魔をする資格があるのか。
 いや僕だって別に本気で好きってわけじゃないよ。そりゃそうでしょ、なんで君みたいな子供相手に本気になれると思う? からかってただけだよ、当たり前でしょ? なにそんな顔して僕のこと見てんの。なに、いっちょまえに心配してくれてるんだ? バカじゃないの?
 ――お前にあの力さえなけりゃ今すぐあの四角い穴蔵に放り込んで終わりに出来るのに。
 僕がなにしたのか知らないだけだよ、頼むからそんな目で見ないでよ。心配なんかされる筋合いも、資格も、そんなもんかけらもないんだよ――。
「足立さん」
 握った手を引っ張られて、足立はのろのろと顔を上げた。孝介が不安そうにこちらをのぞき込んでいる。足立は手を引っ張り返すと、向かい合うようにして孝介を立たせた。
 指を伸ばして頬をなぞる。髪の毛に手を差し入れる。いつもの感触だ、と足立は思う。気持ちのいい生き物がここに居る。
 孝介は手を放すと、代わりに足立の肩へ、そして抱き込むように首へと両手をかけてきた。顔を寄せて額を軽くぶつけ、どうしたんですか、とかすれた声で訊いた。
「足立さんが元気ないと、なんか調子が狂うんですけど」
「……僕、そんなにいっつも、バカみたいに笑ってんのかな」
「そういう意味じゃなくって」
 困惑した目がこっちを見ている。足立は小さく笑い返すと、肩にアゴを乗せてもたれかかった。孝介の手が迷うように動き、そっと頭を撫でてくれる。
 しばらくどちらも無言だった。
 ――なにやってんだろ。
 なにがしたくてここまで来たんだろう。
 これまでの自分を思い返そうとしても、足立には明確な理由がひとつも残っていない。ただ出来たから。それが面白いことになったから。そう感じた筈の自分を、どうしても思い出すことが出来なかった。
 今、目の前には孝介が居る。わかるのはそれくらいだ。
「……今日、帰んないと駄目?」
 呟きに孝介が手を止めた。足立は顔を上げて孝介を見た。相変わらず困惑の眼差しがこっちを見下ろしている。
「無理にとは言わないけど」
「……電話してみます」
「うん」
 そうしてまたもたれかかった。孝介は何度か頭を撫でたあと、ゆるく背中を抱きしめてきた。足立は体を預けて目を閉じた。抱きしめられるのは、気持ちがよかった。


 ――足立がわからない。
 真っ暗ななかで抱き合った。窓から射し込むわずかな光のなかで孝介は足立を捜し、その熱を求めた。
 聞こえるのは互いの息遣いと自分が時折洩らす嬌声だけだ。
 抱き合っている時の足立はいつも通りだった。強引に孝介を求め、執拗に責め立ててくる。体の熱が上がると共に足立の呼吸も乱れ、二人で混乱のなかへと入り込んでいく。
 暗くてよかった、と孝介はぼんやり思った。今あの穴蔵の目で見られたら、どう反応していいのかわからない。こうして一緒に居る自分を、きっと疑問に思ってしまう。
 足立を求める気持ちは確かにあるのに、そんなの錯覚だよと言われれば、素直に認めてしまいそうにもなる。
 足立がわからない。ずっとわかっていない。
 あの真っ暗な目は、自分が誰であるのかという確認を絶えず求めてくる。好きとか言うけど、それホントなの? 気のせいじゃないの? これまでのことなどなかったかのように、あっさりと心の隙を突いてくる。
 好きだと思う。好きだと感じる。でも時々わからなくもなる。
 足立と同じように、孝介は自分もわかっていない。今は快楽だけが二人をつないでいる。
 腕を伸ばして足立の背中にしがみつきながら孝介は思う。いっそのこと、あの真っ暗な目に落ちてしまいたい。ぐだぐだになるまで考えてもわからないのなら、剥き出しになった自分で足立に溶けたい。
 足立の「なんにもない」を、自分だけで満たしたい。
 苛立たしげに足を押し上げて足立が突き上げてくる。嬌声を噛み殺す手を乱暴につかまれた。孝介は腕にしがみついて首を振った。もう嫌だという声は聞こえていないようだった。偶然唇に触れた指を強く噛まれた。その痛みで孝介は熱を吐き出した。
 気が付くと足立は泣いていた。子供のように泣きじゃくる体を、孝介はずっと抱きしめていた。


かけらもないんだよ/2011.01.12


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