運転に集中したいタイプなのかと思って、孝介も話しかけるのは遠慮していた。スピーカーからは孝介の知らないアーティストの音楽が流れ続けている。好きに替えていいよとレンタル店の袋を示すが、そのままにしておいた。
 山を突っ切るバイパスの途中で、足立は車を脇道に乗り入れた。最初のうちは畑や民家も見えていたが、やがて道の両脇を背の高い樹木が覆うようになった。ゆるやかな上り坂を車は静かに進んでいく。対向車は一台もない。
 しばらく行った先の曲がり道で一瞬だけ視界が開け、裾野に広がる稲羽市が見えた。いつの間にかかなり高い位置まで来ていたようだ。孝介は思わず驚きの声を洩らした。
「結構高いでしょ」
 ライトの射し込む夜道をみつめながら足立は笑った。
 車は山頂近くの小さな駐車場に乗り入れた。見える範囲内にほかの車は一台もなかった。綺麗に整備されていると思っていたら、この更に上のところに小さな神社があるのだという。足立は車を止めるとエンジンを切った。そうしてシートベルトを外しながら「ほら」とフロントガラスの上の方を指差した。
 満天の星空だった。
「うわ……っ」
「ちょっとした見ものでしょ」
 煙草を取り出した足立は、そう言って誇らしげに笑った。
 孝介はシートベルトを外すと、ダッシュボードに身をもたれかけて夜空を見上げた。確かに東京にはないものだ。稲羽市に来たばかりの頃、窓からの景色に当たり前のように星があるのを見て、やっぱり田舎なんだなと思った覚えがある。それでもこんないっぺんに大量の星が見えることはなかったし、実際に眺めた経験もこれまでに殆どなかった。
 煙草を吸い終わった足立は、ちょっと出ようかと孝介を誘った。車を降りた孝介はぐるりと天上を見回して大きなため息をついた。
「すごいですね」
 ほかに言葉が思い付かない。
「意外と穴場なんだ。みんな、だいたいはキャンプ場の方行っちゃうからさ」
 足立はそう言うと駐車場の縁に向かって歩き始めた。手すりにもたれかかると心地よく風が吹き抜けていった。もうここからでは町を見ることが出来なかった。見えるのは暗がりに沈む山と、星の輝く夜空と、外灯にぼんやりと照らされた足立の横顔だけだ。
「ここ、よく来るんですか?」
「んー、たまぁにね」
 足立はそれだけ言うと、手すりに両腕を引っ掛けてしゃがみ込んだ。組み合わせた手の上にアゴを乗せて、気の抜けた顔で夜空を見上げている。
「もうすぐ夏休みも終わっちゃうね」
「そうですね……」
「どっか行った?」
「祭りには行きましたけど、ほかは特に」
「あーお祭りかあ」
 あったねえ、と他人事のように呟いている。
「まぁでも、遊べるのも今のうちだからね。いっぱい遊んどくといいよ」
 そう言って足立は立ち上がり、手すりに腰を下ろすと煙草を取り出した。
「……なんか、元気なさそうですね」
「んー? んー」
 火を付けて煙を吐き出したあと、ちょっとね、と呟いて笑った。
「元気ないわけじゃないんだけど」
 そうしてのろのろと手を伸ばすと、孝介の指を握ってきた。
「学校、楽しい?」
「楽しいですよ」
「どんな風に?」
「どんな、って……友達居るし、部活も面白いし」
「そう」
 火を付けておきながら足立は煙草を吸うこともなく、けぶるままに任せていた。風が吹き、顔の前へ煙が流れてきても、厭う素振りは少しも見せない。
「……足立さん?」

 ――なんでお前なんだ。足立は苛立ちと共に考える。お前にあんな力さえなけりゃ、あの四角い穴蔵のなかに放り込んで、それで終わりに出来るのに。

 涼しい風が吹き抜けた。汗ばんだ肌がすっと冷やされて、孝介は一瞬寒さに身震いをするほどだった。だが足立は相変わらずどこかぼうっとしたまま、身じろぎもせずに視線を落としている。
「ちょっとうらやましいなぁ。僕なんか勉強してた思い出しかないし」
 ようやく思い出したように、足立は煙草を持ち上げて吸い込んだ。煙を吐き出すとこちらへ振り向き、なにがおかしいのかかすかに笑ってみせた。
「僕も十年前は高校生だった筈なんだけどね」
「……足立さんの高校時代って、ちょっと想像つかないな」
「ね。っていうか、もう十年も前なのか。今自分で言ってビックリしちゃったよ」
 足立はもう一度煙草を吸い込むと、そのまま足元に落として踏み潰してしまった。
 二人のあいだには人が一人入れるほどの距離が空いている。いつもの強引さで抱き寄せられることもなく、頭を撫でられることもない。握られた指だけがかろうじて二人をつないでいた。
「君、今幾つだっけ」
「十六です」
「誕生日いつなの?」
「一月です。一月十九日」
「僕と近いね。僕二月一日」
 じゃあほぼ十一歳差か、と呟いて足立は自嘲気味に笑った。孝介は同じように手すりに寄りかかって足立の横顔を眺めた。
「こんなおっさんと一緒に居て楽しい?」
 足立が突然に振り向いた。気が付くと真っ暗な穴蔵がみつめていた。孝介は一瞬なんと答えればよいのかわからなかった。
「おっさん、って。まだそんな歳じゃないでしょ」
「いやあ、もう充分におっさんだと思うよ。早い人は結婚して子供も居るしさ」
 僕なんか落ちこぼれだよと、相変わらず真っ暗な目でみつめてくる。
「楽しいの?」
「……楽しいですよ。なに言い出すかわからないし」
「へえ」
 口元が笑った。――多分、笑ったのだ。
「気のせいなんじゃない?」
「あの、」
 足立は不意に視線を落とすとうつむいてしまった。手を握り直し、そっと引いてくる。孝介は腕を引かれるままに歩み寄って足立の隣に並んだ。
「……どうしたんですか」
「どうもしない」
 そう言って子供のようにぶんぶんと首を振った。
「どうもしない」
 まるで自分に言い聞かせるかのように繰り返している。そのあとの言葉はなかった。


 昼間、足立は久し振りに生田目のところへ行った。議員秘書から運送屋へと職替えを余儀なくされた男は、お中元の時期は大変でしたと陰気に笑っていた。だが足立が差し出したものを目にしたとたん、あっという間に笑顔を消した。
「山野さんの遺品にまじってたんですけどね、どう見ても男モンじゃないすか。生田目さんなら知ってるかなーって」
「……」
 手のなかにあるのは針の止まった腕時計だった。名の知れたブランドだが高級品ではない。生田目は震える手を伸ばしてそれを受け取ると、「私のです」と絞り出すように呟いた。
「以前、一緒に居る時に電池が切れていることに気付いたんです。そうしたら彼女が、自分の分と一緒に電池交換に出すからと……」
「そのまま亡くなられたんですね」
「はい……」
 生田目はガラス盤に残る傷を指でそっと撫でている。足立は片手を胸ポケットに入れると、「それ、お返ししますよ」と言って伝票を取り出した。
「受け取りのハンコとサインだけ貰えればいいですから」
 しばらく迷った末に生田目は伝票を受け取り、確認の署名と捺印を済ませた。
「犯人、捕まりましたね」
 時計を作業着のポケットに仕舞い込む生田目は、言葉に反して暗い目付きだった。
「ようやっとですよ。まったく、ガキの癖にいい度胸して」
「高校生だという話ですが、本当なんですか」
「ええ」
「そうですか……」
 高校生ですか、と暗い目で生田目は繰り返した。
「罪状はどうなるんでしょうね」
 足立はポケットに手を入れて肩をすくめた。
「まあ三人も殺してるとなれば、普通は死刑か、最悪でも無期懲役になるんでしょうけどねぇ」
 言葉尻を濁す姿になにかを感じたようだ。生田目は怪訝そうに目を上げてこっちを見た。
「その……まず未成年ってとこが引っかかるでしょ。言ってることも結構曖昧で精神鑑定が必要なんじゃないかっていう話だし」
「そんな」
「それに、ホントに山野さんたち殺したのかどうか」
 生田目は一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。それを目にした足立は、やば、と呟きあわてて自分の口を押さえた。だが意味を理解させるには充分だったようだ。生田目は驚愕の表情で足立の腕をつかんできた。
「ちょっと待ってください、それはどういう――」
「うわーっ、ちょ、しー!」
「犯人はそいつじゃないんですか? 真由美を殺したのは……っ」
「ちょ、お願いだから生田目さん、落ち着いて!」
 運送屋の事務所から出てきた誰かが、声に気付いてこっちを見た。見知った顔だったのだろう、生田目はその女性をちらりと見たあと、ようやく我に返ったような顔付きになった。
「どういうことですか」
 低い声で問い質された足立は、「まいったなぁ」とわざとらしく頭を掻いた。
「えーっと……まぁ、生田目さんならいっかな」
 自分から聞いたって言わないでくださいよ、と釘を刺しておいて言葉を続けた。
「犯人の供述、どーも曖昧な点が多過ぎるんすよ。三人目の諸岡さん殺したのは間違いないみたいなんだけど、前の二人に関してはかなりあやふやでね。もしかしたら犯人、別に居るんじゃないかって内部でももっぱらの噂なんです」
「し、しかし、ニュースでは三人の殺害を自供してるって――」
「それがハッキリしないからこっちも困ってんすよねぇ。ま、このままいくと奴が三人分の罪かぶることになるんでしょうけど、奴がそれを望んでるんだったらねえ」
「そんな……!」
 生田目の手がだらりと落ちた。足立はわざとらしく視線をそらせたままだ。


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