屋根の下へ入ると、孝介はビニール傘を畳み、携帯電話を取り出した。雨はしとしとと降り続けている。いよいよ梅雨入りだろうか。そんなことを考えながら番号を表示させて通話ボタンを押した。
 五回目のコールで足立が出た。
『もっしもーし』
「……えぇと、今大丈夫ですか?」
『うん。どしたの』
「今日は仕事休みだって叔父さんに聞いたんですけど」
『うん、お休みー。でも雨だからなぁんもする気になれなくってさぁ』
 家でぶらぶらしてる、と言って足立は情けなく笑った。
「ちょっとは部屋の片付けとかしたんですか」
『しないよぉ。だって僕が居る分には全然困んないし』
「あれで困らないってのもすごい話ですね」
 その時、電話の向こうから呼び鈴が聞こえた。
『あーっと、ごめん、ちょっと待ってて』
 がたん、という音がして足立の声が遠ざかった。呼び鈴はしつこく鳴り続けている。苛立たしげに「はいはいはいはい」と返事をする声も聞こえる。
『どちら様ですかっ』
 青く塗られた扉が開いて、足立の姿が現れた。
「――――あれえ?」
「人を招待する気ならちょっとは片付けた方がいいですよ」
 ボタンを押して通話を終了させると、孝介は片手に持った買い物袋を差し出した。
「お土産です。うるさいから遊びに来てあげました」
 足立は一瞬不快そうに眉根を寄せたが、やがて小さく吹き出した。
「それはどうも」
 そう言ってお菓子の詰まった買い物袋を受け取り、「こっちこっち」と奥へ入りながら孝介を呼んだ。そうして携帯電話を取り上げ、ボタンを押すとまた無造作に放り出す。
 部屋は相変わらずの様相で足の踏み場もない。足立があれやこれやを放り投げて作ってくれた獣道をたどり、ようやくベッドへと避難する。
「なにがいいのかわからないんで、適当に買ってきましたけど……」
「甘いのだったらなんでもいけるよ。――あ、『たけのこの里』発見でーん」
 袋をのぞき込んだ足立は嬉しそうに箱を取り出してフタを開けた。なかのひとつを口に放り込むと、ついでのように別のひとつを孝介の口に押し込んでくる。そうして立ち上がり、「なにか飲む?」と訊いてきた。
「ジュースもあるよ。なっちゃん」
「何味?」
「りんご」
「じゃあなっちゃん」
「わかった」
 テレビではドラマの再放送らしきものを流していた。トレンチコートを着た刑事が、雨の夜に誰かと話をしている。
「こういうの好きなんですか?」
 グラスを持って戻ってきた足立に訊くと、「まっさかぁ」と笑って首を振った。
「ほかに面白そうなのがなかっただけだよ。聞き込みなんて仕事で嫌って程してるしね」
 そう言って片方のグラスを孝介に渡し、以前と同じように脇へ腰かけてきた。孝介はなんとなくだが距離を置いて座り直した。
 今日の足立はこの前と同じ灰色のジャージに黒のTシャツという格好だった。寝癖も相変わらずだ。
 ベッドの隅には、壁に寄りかかるようにしてサルのアイちゃんが腰を下ろしていた。部屋の突き当りに大きな窓が二枚あり、外のベランダに洗濯機の姿が見えた。先に植わっている大きな樹木の葉が、雨粒の当たるせいで時々揺れた。
「殺人事件の方はなにか進展があったんですか」
「んー? なぁんもないねえ。こないだ、ほら、巽くんだっけ。あの子がいっとき行方不明でさ。――知ってる? 巽完二くん。一年生の」
「ええ、まあ」
 知っているどころではないのだが、適当にうなずいておいた。
「なんか関連があるのかと思って話聞きに行ったらしいんだけど、真っ暗いところに放り込まれて、あとは覚えてないってさ。なにそれ? って感じだよ」
「変な話ですね」
「おかしなクスリでもやってたんじゃないかって。だけど、この辺じゃそんなもの手に入らないだろうしなあ」
 孝介は肩をすくめただけで返事をしなかった。足立は首をかしげてジュースを飲み、突然なにかを思い出したように「そうだ」と声を上げた。
「ね、ちょっといい?」
 そう言ってテーブルにグラスを置くとベッドの奥へ行き、壁に背中を付けて座り直した。振り返った孝介に向かって「ちょっとここ座って」と、開いた足のあいだを示してみせる。
「……なんですか?」
「いいから」
 苛立たしげに繰り返し手を伸ばしてくる。孝介は仕方なくグラスを置き、のそのそとベッドへ上がった。
「向こう向いて」
 足立に背中を向けるようにして座り直すと、不意に背後から抱きしめられた。
「なんですか!?」
「んー……」
 少し考え込んだあと、もうちょっと下行って、と注文が重ねられた。孝介はわけのわからないまま尻の位置をずらし、足立に寄りかかるようにして身を落ち着かせる。足立は肩にアゴを乗せると何度か腕を組み直し、孝介を繰り返し抱きしめた。そうしてぽつりと、
「やっぱ駄目か」
「……だから、なにが」
 密着しているせいで背中が少し暑かった。足立の頬が触れて煙草が香った。
「いや君、ガタイいいからぎゅってしたら抱き心地いいかと思ったんだけど、やっぱ駄目だわ。なんか硬い」
「そりゃ、ぬいぐるみじゃないですからね」
「あーあ。使えないなぁ、もお」
 そうして腕を放すと孝介の体を押し遣り、うつ伏せにベッドへ寝転がってしまった。
「やっぱ抱き枕買おっかなあ。こないだ通販で良さげなの売ってたしなあ」
 ――人を抱き枕代わりにするつもりだったんかい!
 しかも本人にひと言の断わりもなく、揚句には「使えない」ときたもんだ。失礼もここまでくると、いっそ清々しい気がしてきた。
 孝介は頭を掻くと足立とは逆の方を向き、彼の両足を挟むようにして座り直した。何気なく足首を握ってゆっくりと力をこめていく。左右の足を持ち上げると足立は抵抗なく従った。
「んー? なに、マッサージでもしてくれんの?」
「いいえ。ストレッチです」
 そうしておもむろに両足を左右の脇に挟んで持ち上げた。逆エビ固めである。足立はベッドをバシバシと叩いて悲鳴を上げた。
「ちょ! ななななにやってんの!」
「このあいだ花村たちとプロレス技の研究したもので」
「き、君ら学生でしょ! おとな――あだだだだだ! お、おとなしく勉強しなよおおおお!」
「仕事サボるような大人に言われたくないですね」
 たっぷりと一分間態勢を維持したあと、ようやく解放してやった。足立はあわてて足を引っ込めると怒りのこもった目でこちらを睨み付けてきた。
「足立さん、体硬いんですね。ちょっとはほぐした方がいいですよ」
 にっこりと笑って言ってやる。
「クソガキが……っ」
 呟いた瞬間、足立が飛びかかってきた。ベッドの上で押し倒され、もがいて逃げ出したが片足を捕まえられてしまった。脇にしっかりと挟み込まれて動けない。自由になる方の足で背中を蹴りつけたが足立は動じなかった。靴下を剥ぎ、こちらに振り向いてにやりと笑うと、いきなり足の裏をくすぐってきた。
「ちょちょちょちょっと! くすぐるのはひ、卑怯ですよ!」
「えー? なんでー? せいとーぼーえーでーっす。目には目を、足には足を、ってね」
 孝介はじたばたと身をよじったが足立も負けてはいなかった。仕方なく後ろから抱きついてそのまま倒れ込み、足をくすぐる腕を殴りつける。足立はベッドの隅に丸められた毛布で孝介をくるむとそのまま首に腕をかけて起き上がらせ、頭突きをかましてきた。一瞬目の前が真っ暗になる。
 ふと力を抜いた時、捲れ上がった黒いTシャツの下に足立の腹が見えた。孝介は考える間もなく両手を突っ込んで脇腹をくすぐってやった。足立の驚いたような声が耳元で弾けた。
「ちょ、たんまたんま!」
「嫌です!」
 逃げようとする体を後ろから羽交い絞めにして孝介は笑う。かぶされていた毛布を払うと、足立は荒い息を吐きながらベッドで伸びていた。
「も……もお、ちょっと休憩」
 息をつきながら情けない顔で笑っている。そうして仰向けに横になると、馬乗りになった孝介を呆れたように見上げてきた。
「君ね、少しは手加減しなさいよ」
「足立さんだって本気だった癖に」
 頭突きをくらった箇所はまだ痛んだ。足立は、悪かったよ、と言って手を伸ばし、頭を撫でてくれた。そのままじっとこちらを見ているので、なに、と訊くように目を向けると、
「あーあ。ホントはいやらしいことして遊ぼうとか思ってたのになあ。気が削がれちゃったよ」
「……」
「ざんねんー?」
 にまにまと笑う顔が憎たらしい。孝介は枕を取り上げてバシバシ叩いてやった。
「バカじゃないんですか」
「あだだだだだ」
 足立は頭を押さえて身を起こした。なんとか孝介の手から枕を奪って放り投げると、腰の辺りを強く抱きかかえ、顔を寄せてくる。上から見下ろす格好の孝介は手の置き場に困り、仕方なく足立の両肩へと落ち着けた。
 アゴを舐められて逃げるように引くと、いきなり唇が押し付けられた。孝介はためらいながらも舌を合わせた。長いキスだった。
 唇が離れたあとも、足立はじっとこちらをみつめている。
「……あの、」
「んー?」
 首筋に息がかかった。身をよじっても足立の唇は離れない。ちろりと生温かい舌先が触れて、ゆっくりと這い上がってくる。孝介は無意識のうちに足立の髪の毛をつかみ、熱い息を吐いていた。
「嫌じゃないんですか」
「なにが?」
「……その、男と、こういうこと」
「ああ」
 顔を離した足立はにっかりと笑ってみせた。
「大丈夫。僕、いやらしいことに関してはオープンマインドだから」
「オープンし過ぎでしょうが……っ」
「だって君の反応が初々しいから、可愛くってさあ」
「……初々しくて悪かったですね!!」
「あだだだだ」
 バシバシと頭を殴る両腕を捕えられ、引っ張られた。目の前に足立のにまにまと笑う顔がある。
「そう言う君はどうなわけ?」
「え……」
「あんなことされて、それでものこのこ僕の部屋までやって来てさぁ」
「……足立さんが、来い来いやかましかったからですよっ」
「それだけ?」
 気が付くと足立の真っ黒な目がこちらをのぞき込んでいた。
 ――この人は、時々こういう目をする、と孝介は思った。じっとこっちを見ている癖に、そこにはなんの感情もない。ぽっかりと空いた穴蔵みたいな目。それを見返していると、なにかを気にしたり虚勢や見栄を張ったりするのがひどくバカらしいことのように感じられてくる。きっとなにを言ってもなにをしても、この男は気に掛けたりしないんだろうなと思う。
「ねえ?」
 首元に唇が触れた。腕から離れた手が、シャツのボタンをひとつずつ外していく。もう片方の手が腰の辺りを撫でて背中を上がり、そのまま強く抱きしめられた。
 孝介は動揺してあちこちに視線をさまよわせている。肩に戻した手が緊張に震えていた。ふと視線を感じて目を向けると、足立があの真っ黒な目でまたこちらを見上げていた。
「嫌ならやめるけど、どうする?」
 笑ってもいない。試す感じすらない。
 嫌だと言えば、本当にすぐさま自由の身になれそうだった。あっさりと興味を失って、あっそ、と放り出されるんだろうと思った。
『そう言う君はどうなわけ?』
 ――俺は、なにをしに来たんだ?
 仲良く世間話だけして帰るつもりだったのか?
「……その、」
「んー?」
 孝介は唇を噛み締めてうつむいた。言えるわけがない。しかし抱きついても、足立はなにも返してくれなかった。背中を抱き寄せたままじっとしているだけだ。
「なに。言ってくんなきゃわかんないんだけど」
 わずかに苛立ちのこもった声だった。孝介は顔を上げた。足立が額を合わせて下からのぞき込んでくる。
 真っ黒な目に吸い込まれそうだ。
「……嫌じゃないです……っ」
 口の端が嬉しそうに歪んだ。首の後ろを撫でられて孝介は身を震わせた。気が付くと夢中になって唇を重ねていた。


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