窓の外には霧が出ている。
孝介は視界を阻む白い闇をみつめたあと、カーテンから手を放した。そのまま振り返ると、ちょうど時計の長針と短針が真上で重なり合うところだった。
電源を切ったままのテレビの画面が、わずかに明るくなって砂嵐を映し出した。孝介は息を詰めて画面をみつめた。
十秒……二十秒……。テレビは砂嵐を映し続けたあと、そっと身を引くように暗くなった。もうなにも見えない。
大きなため息をついてソファーに腰を下ろした。顔を両手で覆い、そのまま前髪を掻き上げる。そうして頭の後ろで手を組み、床を見下ろした。
大丈夫だとわかっていても、やはりこの瞬間は緊張する。完二の救出は成功したが、まだまだわからないことの方が多い。気を抜くわけにはいかないのだ。
顔を上げてカレンダーを見た。最初の事件から二ヶ月近くが過ぎようとしている。殺されたのは二人、そして以後誘拐された者が二人。
事件はどこまで続くんだろう。
立ち上がり、カレンダーの側へ顔を寄せた。明日は日曜日だ。なにをしようかとぼんやり考えながら、気が付くと隅に載る前月分のカレンダーを眺めていた。とある日付に目が留まる。指を伸ばして日数を数えた。あれから今日で九日――十日目。
指を引っ込めた孝介はふと我に返り、壁に頭を打ち付けた。なにを考えてるんだ。だが忘れようと思えば思うほど、あの日の記憶が鮮明に甦る。耐えきれなくて何度も頭を打ち付けた。そして今度は痛みに耐えかねて頭を押さえた。
その手の動きでまた思い出してしまう。執拗に抱き寄せる男の手、慰めるように動いたあの指を。
孝介はテーブルに置かれた携帯電話へと振り返った。そこには足立から押し付けられた番号が登録されていた。またおいでと言われたが、その番号に掛けたことは一度もなかった。この先もきっとない。そう思うのに、どういうわけか消してしまうことも出来なかった。
忘れたい。
なのに、忘れようとすればするほど思い出す。唇の感触と熱いため息を。
あの混乱を。
「……」
からかわれただけだ。――孝介はなんとなく窓の辺りをみつめて考える。からかわれたんだ。だいたい、初めて会った時からそうだった。いつも人を小ばかにしたような目で見て、へらへらと笑っている。そういう人だ。
からかわれただけだ。もう一度強く言い聞かせて頭を振った。
だけど、体ははっきりと覚えている。心のどこかはあの熱を欲しがっている。
あの混乱と陶酔を、恋しい恋しいと叫んでいる。
孝介は段ボールの前の方を両手でつかみ、脇から菜々子の顔をのぞき込んだ。
「いい? つかまった?」
「うん!」
足のあいだに腰を下ろした菜々子は、孝介の両腕にしっかりと手をかけ、笑顔でうなずいた。孝介はそれを確認すると、段ボールに座ったまま前方へ尻を滑らせていった。やがて斜面に達した段ボールは、二人の重みでずるりと滑り始めた。
滑走が始まったことを知って早くも菜々子が興奮の声を上げる。従妹の小さな体が放られないようしっかりと脇を締めながら、同じように孝介も歓声を上げた。どうかすると右の方へ傾きながら滑り落ちるのもおかしくて、菜々子の悲鳴に負けないくらい大声で笑った。
二人は結局段ボールの上へ倒れるようにして川原へと滑り落ちていった。孝介の腕のなかで、菜々子はまだ嬉しそうに笑い声を上げている。
「おにいちゃん、もう一回! もう一回やって! ね、もう一回!」
「よーし、もっかい行くぞーっ」
「うん!」
孝介は菜々子の手を取ると土手の斜面を上がり始めた。途中で菜々子が足を滑らせて軽くこけたが、膝についた泥を払う従妹は満面の笑みをたたえている。
いつものように授業を終わらせたあと、ちょっと買い物をと思って四六商店へ行ったところで菜々子とばったり出くわした。友達と約束をしているのだが、申し合わせた時間には少し早かったらしく、暇を持て余しているようだった。
店先で一緒に駄菓子を食っている時、脇にまとめて立てかけられた段ボールを見てこれを思い付いた。最初は怖がっていた菜々子だが、馴れてきたのか何度も「もういっかい!」をねだり続けた。段ボールに座って土手の斜面を滑り降りるだけなのだが、二人同時に座ると重みのせいでスピードが増し、より興奮を味わえた。菜々子は「はやい、こわーい!」と言いながらも楽しそうだ。
衣替えを済ませたばかりの今日、薄曇りの空から射し込む陽射しは温かい。滑り降りて草のなかに倒れると、わずかに湿った土の匂いがした。
「あれえ? 二人揃ってなにやってるの」
笑い疲れて菜々子と土手の縁に腰を下ろしている時だった。背後から男の声がかけられた。孝介の顔から一瞬にして笑顔が引っ込んだ。
「あ、足立さん」
隣に腰かけていた菜々子が先に振り返り、こんにちはーと屈託のない声を上げている。少し遅れて孝介も振り返った。ぎこちない笑顔ながら、こんにちはと呟いて頭を下げる。
「こんちはー。なに、さっきから楽しそうな声が聞こえると思ったら、君たちかあ」
足立は相変わらず寝癖のついた頭で締まりなく笑っている。
「あのね、段ボールでね、ぴゅーってすべるの。すっごいたのしいよ!」
「よかったら足立さんもいかがですか」
そう言って孝介は立ち上がり、自身が腰を下ろしていた段ボールを差し出した。足立は最初、いや僕は、とかなんとか言って遠慮していたが、しつこく勧めると嫌々な風を装って腰を下ろした。その無防備な背中を見た瞬間、今だ、と孝介の心でささやくものがあった。
「で? こっから滑るの?」
「そうです。――楽しいですよ」
言うと同時に、孝介は足立の背中を蹴りつけた。態勢が整っていないままだった足立は、大きな悲鳴を上げて川原へと落ちていく。そのスピードに菜々子が感嘆の声を上げた。
「すごい! 今、すっごいはやかった!」
「加速してあげたからね」
「おにいちゃん、なんでもできるんだね!」
菜々子が尊敬の眼差しを向けてきた。孝介はこそばゆい思いで菜々子の頭を撫でた。
「あ、エミちゃんとやくそく」
時間を教えてやると、もう行くねと言って菜々子は手を振った。
「車に気を付けてね」
「うん!」
菜々子を見送ったあと振り返ると、足立はまだ川原で伸びていた。
「そうだ、気を付けないと頭打ちますよ」
「先に言ってよ……っ」
どうやら遅かったらしい。足立は側頭部をさすりながらようやく身を起こした。のろのろと立ち上がり、スーツに付いた土埃を払っている。孝介は斜面を途中まで下りて足立の差し出す段ボールを受け取った。
「なんかまあ、牧歌的でいいよね、こういうの」
さすが田舎って感じがするよと言って足立は斜面を上がってくる。その途中でなにかを踏み外したように、不意にバランスを崩して孝介の側へと倒れ込んできた。
「なんでこんなところに落とし穴が……っ」
見ると、右足が穴のようなものに刺さっていた。
「そういえばこの前、里中が作ってましたよ。カツアゲの犯人どもを捕まえるんだって言って」
「……そういうのは警察に任せて欲しいなあ」
苛立ちのこもった口調で言って足立は足を抜き、靴の泥を払い始めた。このあいだからもやもやとしたものを抱えていたので、内心かなりスッとした。
――ナイストラップ、里中。
孝介は思わずにやりと笑う。
「まあね、世の中バカな奴らが多いから仕方な――」
及び腰で斜面を上がり始めた足立は、再びなにかに足を取られてずっ転んだ。
「ああ、その辺りは菜々子が草結んでました。足引っ掛けるんだって言って」
「菜々子ちゃんまで……っ」
もはや満身創痍の足立はうずくまったまま泣き真似を始めた。いい気味、と孝介はほくそ笑んだ。
――ナイスアシスト、菜々子。
ふと視線に気付いて顔を向けると、足立が怒りのこもった目でこちらを睨み付けていた。よからぬ気配にあわてて足を引いたが一歩遅かった。伸ばした腕に片足を取られ、孝介は草むらのなかへとずっ転んだ。手にしていた段ボールはどこかへと飛んでいき、転んだ拍子に頭を打ってしまう。痛みに顔をしかめているあいだに、罠から足を抜いた足立がわざとらしく覆いかぶさってきた。
「君ね、友達は選んだ方がいいと思うよ。あと菜々子ちゃんに変な遊び教えないの」
「……田舎なんで、牧歌的なことしか出来ないんですよ」
「このお」
憎々しげに口元を歪ませると、左右から頭にこぶしを押し付けてくる。反撃しようとした時、伸ばした腕を取られもう片方の手で口をふさがれた。驚いて見ると、足立は草の陰に隠れるようにして土手の方をうかがっていた。孝介が上げた抗議のうなり声に驚いて腕から手を放し、自身の口の前へ人差し指を立てる。黙ってろ、ということらしい。
孝介は足立の視線を追って頭上へと意識を向けた。――遠くの方から怒鳴り声が聞こえてくる。
「おぅ足立ぃ! ……ったく、どこ行きやがったんだ、あいつは」
叔父の遼太郎の声だった。足立は怒鳴り声が聞こえると不意に身をちぢませ、うひゃあ、と言うように口を開いた。
しばらくして声が聞こえなくなると、安堵のため息と共にようやく手をどかしてくれた。
「なにサボってんですか。仕事してくださいよ、公務員」
「うわ、税金も払ってない癖になにを偉そうに」
そうして互いに睨み合っていたが、やがて足立は相好を崩し、おかしそうに吹き出した。つられて孝介も笑ってしまう。二人は少しのあいだ、声を抑えて笑い合った。それが収まると、不意に足立が身を預けてきた。
「まあ、たまにはいいじゃないの。毎日気合いなんか入れてらんないよ」
「……この前、ジュネスでもサボってませんでしたっけ」
「あれは休憩してただけ」
「手品セットはどうしたんですか」
「結構面白かったよ。子供だましだけどね」
今度来た時、教えてあげるよと言って足立は身を起こした。
そうして気が付くと真上から見下ろされていた。孝介は焦って視線をそらせた。草いきれにむせていると、顔の脇に手が置かれた。逃げ場を失った気分になって、恐る恐る上に向き直る。足立の手が前髪を掻き上げていった。
「なんで来てくんないの?」
孝介は返事が出来ない。
「ずっと待ってるんだけどな」
「……嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ」
親指が下唇をそっと撫でる。
奥歯を噛み締めた時、唇が重ねられた。こんなところでと思いながらも、孝介はそれをはねのけることが出来なかった。
久し振りにそこへ触れた他人の体温が心地よくてたまらない。すぐに離れていってしまうのが、淋しくて仕方ない。
唇を離したあと、足立はうかがうようにこちらを見下ろした。孝介は足立のずれたネクタイを目に留め、手を伸ばして直してやった。
「遊びに来てよ」
「……今度」
「今度って、いつ?」
孝介は困って目を上げる。足立はおかしそうに笑っていた。
そうして不意に身をもたげると、再び唇を重ねてきた。今度は舌が滑り込んでくる。
スーツの肩にしがみつく手を捕えられた。手首を握って土手の斜面に押し付けられる。唇が離れたあとも、その手は握られたままだった。
「まあいいや」
足立は軽く肩をすくめて身を起こした。
「もう行くよ。お仕事戻んなきゃね」
そうして孝介の手を握ったまま立ち上がり、ゆっくりと斜面を登っていく。孝介は手を伸ばして離れそうになる指に自分の指を絡ませた。だが互いに握り合うことはなく、足立もこちらへ振り返ることはしなかった。
草の上で横になったまま、孝介はぼんやりと空を見上げていた。しばらく動くことは出来なかった。