手に買い物袋を提げた中年の女性は、最後まで怪訝そうな表情を崩さなかった。孝介は丁寧に礼を言って頭を下げ、霧のなかを歩き出したが、不意に疲れを覚えて足を止めた。
 腕時計で確かめると、もう二時間近く歩きっぱなしだ。少し休もう。孝介は自分を慰めるように言い聞かせた。
 見覚えのある看板を頼りに進んでいくと、やがて四六商店の前へとたどり着いた。自販機で温かいココアを買ってガードレールに腰を下ろす。フタを開ける前に缶を両手で握りしめ、暖を取った。そのあいだにも白い靄が周囲を取り囲んでいる。
 霧のせいで交通量が減っているそうだ。このあいだニュースで言っていた。外を出歩く人の姿も本当に少なくなった。お陰で聞き込みが全然進まない。
 直斗の提案で、もう一度四月の事件に関して証言を集めようということになった。山野真由美と小西早紀が殺された頃、というのはつまり半年以上も前のことだが、当時怪しい人間が居なかったか、なにかおかしなものを見なかったか、町の住人に聞いて回ることにしたのだ。
 昨日生田目の病室で本人から話を聞き、少なくとも奴は誰も殺していないということがはっきりした。となると、誰かほかの人間が手を下したとしか考えられない。それでどうにか目新しい話が聞けないかとあちこち回っているのだが、残念ながら今のところ収穫はゼロだった。
 事件のことを口にするたびに、そういえばそんなこともあったわねぇと他人事のように言われるのがオチだった。この町で起きた事件なのに、半年も経てば興味はほかへ移ってしまうらしい。
 孝介は缶のフタを開けてココアを飲んだ。甘さが全身に沁み渡っていくのがわかった。思っている以上に疲れているようだ。昼前から頑張っているが、そろそろ終わりにするべきだろうか。孝介は霧の向こうにある筈の空を見上げて思う。
 この霧は発生源が不明だと言われ、毒ガスだと声高に叫ぶ人間も出始めた。だが孝介はこの霧がどこからやって来るのかを知っている。本来ならば限られた人間しか行き来の出来ない場所――テレビのなかだ。
 向こうの世界が溢れ出ようとしているのだろうか。もしそんなことになったら、町はどうなってしまうんだろう。孝介は想像しようとして、途中でやめた。目を閉じて首を横に振り、今はそんなことを考えている場合じゃない、と自分に言い聞かせる。
 とにかく、もう少しだけ頑張ってみよう。仲間たちもそれぞれ力を尽くしている筈だ。一人こんなところで暗い気分になっているのは、正直いただけない。
「――あれ? 月森か?」
 聞き覚えのある声に目を開けた。霧の奥から見馴れた靴がやって来る。
「陽介」
 座っているのが自分だとわかって安心したように陽介は笑った。
「なーにサボってんすか、リーダー」
「ちょっと休憩してるだけだよ。お前こそどうしたんだ」
「んー……まあ、俺もちょい休憩」
 そう言って自販機で紅茶を買うと隣に腰を下ろしてきた。
「どうよ、調子は」
 全然だ、と孝介は首を振った。
「だいたい、人が居なくてな」
「やっぱそうか。俺もとりあえずジュネス行ってオバちゃんとかに話聞いてきたんだけどさ、店もガラガラだったぜ」
「……気持ち悪いもんな、霧」
 言葉につられたように、陽介は自分の周囲を見回した。
「こんだけ見通しが利かねぇと、確かに外出たくねぇっつうのも、わかるな」
「さっき小学生が集団下校してたよ」
「早めに冬休みに入るとこもあるらしいぜ」
 なにもかも、この霧が原因だ。
 二人は並んで座りながら、しばらくぼんやりと宙をみつめた。霧は目の前にとどまり、かと思うと緩やかな風に流されて形を変え、また止まる。じっと見ていると、なにか生き物のなかに入り込んでしまったようにも感じられた。
 形のない内臓が目の前で音もなく呼吸をしているのだ。孝介は気味が悪くなって目を伏せた。
「……あのさ」
 陽介が不意に口を開いた。
「その……このあいだは悪かったな」
「なにが?」
「生田目の病室でさ」
 すぐにはピンと来なかった。というのも、奴の病室へは昨日も訪れているからだ。少し考えたあと、一昨日のことだとわかった。
「別に謝られるようなことじゃ――」
「いや、マジであん時お前が止めてくれてよかったよ」
 陽介は真面目な表情で首を振っている。
「俺さ、家に帰ったあと考えたんだ。俺らってその気になれば殺人犯と同じ手口で人を殺せるわけだろ。証拠も残らないし死因も不明のまま、いくらでもそういうことが出来んだよ。まぁ将来的にいつまでこの力があるのかは、わからねぇけどさ」
 でも出来るんだよな。そう繰り返したあと、陽介は一度言葉を切った。
「もしあの時、生田目の奴をテレビに放り込んでたらさ、山野アナとか小西先輩を殺した奴と同じになってたわけじゃん」
「……でもあの時は、生田目がやったんだって思ってただろ」
 殺されたのだから殺し返せばいい――その気持ちは理解出来る。陽介と同じように、自分も抱いた気持ちだ。
「だからさ。出来るっていうことと、実際にやるかやらないかは別問題だろ。……俺一人だけだったらいいけど、そんな簡単にみんなを人殺しにするとこだったんだって考えたらさ、……なんか、いきなりすげぇ怖くなってさ」
「……」
 証拠は一切残らない。手口は不明、死因も不明。もし動機があって怪しいと目されても、限りなく黒に近い灰色のまま、罪をかぶらずに過ごしていける。
 この手でテレビへ放り込んだ、その事実だけが自分のなかに残りながら。
「ホント、お前が居てくれてよかったよ」
 そう言って陽介は恥ずかしそうに視線をそらせた。
「……俺もだよ」
 孝介は言って、少し冷めてしまったココアをひと口飲んだ。陽介が不思議そうにこちらへと振り返る。
「俺だって、あの時みんなが居なかったらやってたかも知れない。――いや、多分やってたな。それくらいはらわた煮えくり返ってた。……俺も同じだよ」
 自分じゃない誰かが居たから思いとどまれた。
 一人じゃなかったから。
 孝介が振り向くと、相棒は照れたように口の端を持ち上げて笑ってみせた。
「でも犯人はそうじゃなかったんだな」
 ぽつりと陽介が呟いた。缶のフタを開けてひと口飲み、白い息を吐き出している。
「もしなにかの間違いで山野アナをテレビに落としちまったんだとしても、それだけで終わらなかったってことだろ? やろうと思わなけりゃ、二度目はないぜ、普通」
「……そうだな」
 小西早紀は山野真由美の死体が挙がったあとテレビに入れられた。テレビに入れたらどうなるのか、きちんと結果を知った上での行動だ。そこには明らかな殺意が存在する。
「犯人の奴、今頃なに考えてんだろうな」
 陽介は言って、足元の小さな石を爪先で踏み付けた。孝介は、さあな、と首を振るだけだ。
 久保美津雄が捕まり、更に生田目が逮捕された。このままだと確実に生田目が連続誘拐殺人事件の犯人として断罪されてしまう。警察もこれ以上は動かないだろう。叔父のように疑問を抱く人間は残るかも知れない。だが状況的に見て、生田目には不利な条件が揃い過ぎている。
 犯人は今、なにを考えているのだろう。
 このまま逃げ切ってやれと笑っているのだろうか。どうせみつかりっこないと高をくくっているのか。少しでも後悔しているのならまだ救われるが――。
 孝介は首を振ってココアを飲み干した。今そんなことを考えても仕方がない。
 この町のどこかに居るのだ。嗤っていようと、苦しんでいようと、その人物が確実に。
「俺、学校の方行ってみる」
 立ち上がりながら孝介は言った。今日は創立記念日で授業はないが、何人かは教師が居るだろう。自分たちとは違った時間帯で動いている人間に話を聞くのも有効だと思われた。
「おー。俺も駅の方回ってみるよ。またあとでな」
「うん」
 ゴミ箱に空き缶を放り込んで孝介は手を振り、道を歩き出した。陽介の姿は霧に紛れてすぐに見えなくなってしまった。


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