試験終了直後の学校は、校舎全体が大きくざわついているように感じられる。悲喜こもごもの唸り声があちこちから聞こえ、陽介も遅れじとそれに続いた。そうして上げていた両腕を下ろし、束の間の解放感に浸っている友人たちへと声を掛けた。
「なぁ、帰りフードコート寄ってかね?」
「さんせー!」
「天城も行ける?」
「うん。今日は大丈夫」
 四人の意見が一致して、ならばさっそくとカバンに手を伸ばしかけた陽介だが、教室の出入口からの呼び声でその手を止めた。
「花村」
 何故か吉岡がそこに居た。ちょっと来いよと呼ばれている。またロクでもない頼みごとだろうか。
「どもっす」
「な、お前今空いてる?」
「え……」
 ちらりと仲間を振り返った。みんなは不思議そうな顔でこっちを見ているだけだ。
「今日は、ちっと用事が」
「十分だけ。な、頼むよ」
「なんなんですか」
「あいつらがまた来てんだよ」
 例の雑誌記者が来て、もう少し詳しく話を聞かせて欲しいと言うのだそうだ。面白い話を聞かせてもらえるなら、謝礼の用意もしてあるという。
 ロクでもない奴の周りにはおんなじのが集まるんだなと、ふと思った。
「お前、小西と仲良かっただろ? ちょっと話聞かせてやれよ。一人だけなら友達連れてきていいって言われてさ。それで内容が濃かったら金結構はずんでくれるみたいなこと言ってんだよ」
 友達。
「な、頼むよ。俺のこと助けると思って」
 そう言って吉岡は拝む真似をした。これまでに何度も目にした光景だ。この人はこうやって、今まで散々人に迷惑を押し付けてきたんだと陽介は思った。たいしたことじゃないのに、さも重要なことのように話を持ち掛けて、自分がいい気分になる為だけに他人を利用した。吉岡に対して気後れする理由が初めてわかった。
 ――なんか、みっともねぇな。
 昔の自分を見ているようだ。
「……俺は、いいっすよ。別に金なんか欲しくねぇし」
「はあ?」
「あ、林とかどうっすか。あいつも先輩とは一緒に組むこと多かったし、あいつの方が話すの上手いと思うんすけど」
「だってあいつ、ただのバイトじゃねぇか。お前、店長の息子だろ?」
「はあ? なんの関係があるんすか」
 俺だってただのバイトっすよ。そう言って笑うのもひと苦労だった。だが次第に吉岡がイライラし始めているのが伝わってきていて、何故か今はそれが面白かった。
「あいつら、『ジュネスの関係者』の話が聞きたいんだってよ。お前だったらピッタリだろ」
 なんだか今日はやけにしつこかった。確か吉岡は五月いっぱいでバイトを辞めることになっている。その引継ぎの為に少しずつバイトの日数は減っているが、元からさほど金に困っている様子もなかった。多分陽介が素直にうなずかないので意地になっているのだろう。
 吉岡が辞めるという話を聞いて、どれだけ安心した顔になったバイト仲間が居るのか教えてやりたくなった。それと同時に実感した。
 俺も多分あんな風だったんだ。前の学校で今も連絡を取り合っている奴なんか殆ど居ない。二年に上がってからは一度も連絡などない。俺はあっちの学校では既に存在しなかったことになっている。誰もが日常のなかで先輩を忘れたように、いやもっと軽々と俺のことを忘れている。むしろせいせいしたと笑われていたに違いない。
 俺の「お願い」なんかこんな程度のものだった。俺の「ありがとう」なんかに意味はなかった。あんたは俺だ。みっともない、過去の俺だ。
 なかなか首を縦に振らない陽介に焦れたのか、吉岡が突然腕を掴んできた。
「な、来いよ。ちょっと話するだけだって。適当でいいんだよ。なんか派手な噂話教えるだけで金が貰えんだぜ」
「――だって、どんなこと話すんすか」
「小西の男関係のことが知りたいんだってさ。ホラあいつ、去年家出したろ? あの時のこととかさ」
 いつもみたいに話せばいいんだよ。お前ら、楽しそうに笑ってたじゃねぇか。誰かがバカだとか、あいつ使えねぇとか、誰かが言えばみんなでうなずいてさ、おかしそうに笑ってただろ。
 意味も考えずに。どんな事実があるのか知ろうともせずに。
「……いや、ちっと勘弁してください」
「なんでだよ」
「林に頼んでくださいよ。俺じゃなくたっていいじゃないすか」
「だからお前じゃなきゃ意味ねえっつってんだろ? お前、店長の息子なんだし」
「俺だって好きで生まれたわけじゃないっすよ!」
 意図せず強い口調になっていた。廊下を通りがかった生徒が驚いたように足を止めた。陽介はハッとして吉岡を見た。奴は口元をひきつらせながらこっちを見ていた。気まずくなった陽介はなるべくそっと腕を引き、「すんませんけど」と呟いた。吉岡は腕を放してくれたが、目の前から動こうとはしなかった。
「なにお前、もしかして小西のこと好きだったとか?」
 舐めるような視線から思わず目をそらせていた。
「……んなわけねぇっしょ」
「だよなあ。あいつ援交してたとか噂あるしなぁ」
 ……みっともねえ。
「去年の家出の話知ってるか? ついてったの、大学生の男だぜ」
 浅ましい。
「な、そういうこと話しゃいいんだよ。適当に話しとけばあいつらが勝手に盛り上げて記事書くんだからさ。別に俺だって金の為にやるんじゃないんだ、これは人助けなんだよ。わかるだろ?」
「…………いいですよ」
 きっと満面の笑みだった筈だ。だから吉岡も勘違いして嬉しそうに笑ったのだ。でも奴には聞こえていなかったらしい。陽介が言った言葉の最初、「『どうでも』いいですよ」の部分が。
 気が付くと吉岡の横顔を殴り飛ばしていた。すぐに女子生徒の甲高い悲鳴が聞こえた。試験が終わってさほど時間が経っていなかった為、廊下には結構な人数の生徒が居た。悲鳴は連鎖反応のように次々と広がり、騒ぎを聞きつけた野次馬たちの歓声と指笛が更に混じり合い、一瞬で混乱の極みへと達した。
「花村!?」
「ちょっと、あんた何やってんの!」
 後ろから押さえつける腕を払いのけ、廊下に倒れた吉岡にのしかかり殴り付けた。再び腕を押さえつけられた時、吉岡の蹴りが脇腹に入った。
「ふざけんじゃねえぞ!」
「花村、落ち着けよ!」
「てめえに何がわかるってんだよ、ああ!?」
「花村!」
 ――なんでだよ。
 羽交い絞めにしようとする孝介の腕を無理矢理に払い、吉岡を追った。腰を浮かせて逃げようとしていた吉岡の制服を掴み、力任せに引っ張って更に殴った。バランスを崩して吉岡ともども壁にぶつかりながら倒れ込んだ時、周囲の囃し立てる声が耳に飛び込んできた。
 ――なんで俺じゃなかったんだ。
 よろけながらも起き上がり、吉岡の胸倉を掴んで同じように起き上がらせた。
「ああ!? 言ってみろよ、てめえが何知ってるっつうんだよ!!」
「花村!」
 闇雲に繰り出された吉岡の拳が左目に当たり、激しい熱さと共に視界の半分が真っ赤に染まった。だが気が付くと奴も鼻血を出していた。わけもわからず殴り続けた。何を怒鳴っているのか自分でもわからなかった。言葉になんの意味もなかった。拳の痛みにも気付かなかった。いつの間にか数人の教師に取り囲まれ、無残にも力ずくで押さえ込まれながら陽介は咆えた。
 ――俺が死ぬべきだったのに。
 言葉になんの意味もなかった。
 ――死ななきゃいけないのは俺だったのに。
 たったひとつの意識に支配されていた。後悔だ。初めて早紀が居ないのだと実感した。


 保健室で治療を受けた後、別々の部屋で事情を聞かれた。先に手を出したことは認めた。それ以外のことは一切喋らなかった。だが吉岡が白状したらしい。途中からやって来た教師に雑誌記者のことを尋ねられ、無理矢理に連れて行かれそうになったので断ったのだと話したとたん、風向きが変わったようだ。
 担任の諸岡は謹慎だ、停学だと騒いでいたが、結局は反省文を書かされるだけで放免となった。教師のひそひそ話を耳にしたところ、むしろヤバそうなのは吉岡の方らしいが、そんなのは陽介の知ったこっちゃない。
 迎えに来た母親が深々と頭を下げるのは、本当に嫌な光景だった。
 夜、父親が話をしに来た。知り合いだった故人をバカにされて腹が立ったのだと、それだけを言った。やり方はともかく、お前は間違っていないと父親は言ってくれた。
『早く怪我治せよ。そんな顔じゃ店に出られないだろ』
 あんたはこんな時でも店長なのかと半ば呆れたが、それは父親なりの優しさだったようにも思う。
 左目の上の切り傷、その部分の大きな腫れ。右手の痛み。脇腹のアザ。側頭部のコブ。首の鈍痛。主立った負傷部分はそれくらいだろうか。しばらく洗顔には苦労しそうだ。
 母親は風呂上がりの息子の顔に絆創膏と大きな湿布を貼り付けたあと、バカ息子はとっとと寝なさいと、わざわざ湿布の上を叩いて部屋へ送り出してくれた。いってぇなと文句が洩れた口で「ごめん」とひと言謝った。
 部屋へ戻るとメールが届いていた。
『あんた大丈夫だった? 喧嘩してるとこなんて初めて見たからビックリしたよ。でも結構いいパンチ決まってたね。ちょっと見直した』
 千枝のメールにはそれから延々と、参考になるカンフー映画の題名が載せられていた。
『花村くん、怪我は大丈夫? 骨とか折れてない? もしよかったら湯治でうちに泊まりに来てくれていいからね』
 やはり雪子はどこかずれている。
『明日は肉じゃが』
 孝介が弁当を作ってくれるらしい。思わず笑ってしまった。その瞬間、何故か脳裏に「もう居ないんだ」という言葉が思い浮かんだ。
 あの人はもう居ない。先輩は死んだ。
 不意に涙があふれてこらえきれなくなった。嗚咽を押し殺してひたすら泣いた。悲しいとか口惜しいとか、そんなことを考えている暇はなかった。体が泣くことを要求していた。どこにこれほどの気持ちがあったんだと驚くほど泣き続けた。それまでずれていた何かが、ようやくピッタリと嵌った感じだった。
 忙しさにかまけて見ようとしていなかったもの。残された丸テーブルにみつけようとしていたもの。それがなんだったのか、やっとわかった気がした。早紀が居なくなってから初めての涙だった。
 ふと泣き疲れて携帯を見ると、孝介からまたメールが届いていた。題名は「ごめん」。
『肉じゃが、失敗したかも』
 泣きながら吹き出した。


 翌日のバイトは裏方作業に回された。腫れで左目がよく開かないこともあり、レジには出ない方がいいだろうとの配慮だった。本音を言えば何日か休みたかったのだが、前日のうちに吉岡が辞めてしまった為、無理を言うことは出来なかった。
 売り場では喧嘩の噂が広まっているようだった。どうやら吉岡があれやこれやと言い触らしていったらしい。だがバイト仲間のうちで陽介は好意的に迎えられた。吉岡の態度に辟易している人間が多かったのは事実のようだ。
 何人かは詳しい話を聞きたがったが、許せないことを言われたので我慢出来ずに殴ったとだけ答えておいた。彼らはもっと派手な話を期待していたようだ。だがそれ以上の事実はないので話しようがなかった。
 これは誰の為にしたことでもない。自分の為にやったことだ。
「あれえ? どしたの、男前になっちゃってぇ」
 野菜売り場でキャベツを並べていると突然声を掛けられた。手を止めて顔を上げると、ジャージ姿の足立が買い物カゴを提げて突っ立っていた。
「……またサボりっすか」
「残念でした、今日は非番でーす」
 やたら偉そうに胸を張る姿がひたすら鬱陶しい。よかったっすねと呟いて陽介は作業に戻った。
「ねねね、ジュネスってさ、『雨の日サービス』みたいのってやってないの?」
「なんすか、それ」
「雨が降ったらお惣菜が十パーセント引き、みたいなヤツ。ホラ、クリーニング屋さんでよくあるじゃない」
「あるわけねぇっしょ。っつか、そんなんでいちいち値引きしてたら、あっという間にジュネス潰れますよ」
「じゃあ『霧の日サービス』作らない?」
 言いながら足立はキャベツを物色している。陽介は思わず手を止めた。
「霧なんか出ない方がいいんじゃないんですか」
「へ?」
 何を言われたのかわからないという表情で足立が振り向いた。陽介の真剣な顔を見て、やっと言葉の意味を理解したようだ。
「……あ、あぁ。ねえ。そうだよねぇ」
 ひとつため息をついたあと、よさげなキャベツを選んで差し出した。
「これ、美味いっすよ」
「ホント!?」
「ここにあるなかで一番状態のいいヤツです。美味く食ってやってください」
「ありがとー」
 足立はキャベツをカゴに放り込んでホクホク顔だ。このあとお菓子を見に行くという足立の背中に、陽介は声を掛けた。
「明日はちゃんと働いてくださいよ」
「君に言われなくたって、ちゃんとやってるよ」
「働いてくださいね」
「いや、やってるってば」
 棚の向こうに姿が消えるのを見送ったあと、陽介はキャベツの残りを並べ、段ボールを畳んだ。台車を押してフロアの裏側へと回る。壁際には棚に並べられるのを待つばかりの野菜たちが、段ボールに入れられて陽介を待っていた。売り場の様子を思い浮かべながら必要な商品を台車に載せる。そして再びフロアへ。
 野菜を並べるだけといっても、適当に出来ることじゃない。バラバラに置くだけではすぐに崩れてしまう。ひとつひとつバランスを考え、大きさと鮮度を考慮して重ねていかなければならない。
 一見単純でどうでもいいようなことが、実は重要なのだ。
 派手な喧嘩をしたからって、それで何が残るわけでもない。吉岡は予定を無視して勝手に辞めてしまった。傷の痛みは昨日以上にひどくなっている。
『私、ずっと花ちゃんのこと、ウザいと思ってた』
 あの頃の自分は、中身のない張りぼてを一生懸命に守っていた。見てくれさえ良ければあとはどうでもいいと思ってた。指で弾けば簡単に崩れてしまう薄っぺらな鎧。そんな物がなんの役に立つ?
 みんなはすぐに見抜いていた。すぐに見抜ける程度の物しか俺にはなかった。でもこれからは違う。一段ずつしっかりと土台を築いていくように、じっくりと俺自身になっていこう。情けないけど、俺はまだガキだ。自分が何を感じているのかもわからないで人に当たり散らして、それで気が晴れるかと思えば、残った痛みに顔をしかめる始末だ。だらしねえ。
 俺はあいつらを面倒事に巻き込んだ。責任を取るというのであれば、まずは全部を終わらせることだ。
 それから、あいつらは俺が守る。
 どんなことがあっても俺が盾になる。どこまで出来るのかじゃない、絶対に守り切る。それが出来て初めて俺はあいつらと一緒に居る資格がある。
 品出しを終えた陽介は周囲の売り場を回り、崩れかけていたオレンジの山を整え始めた。ひとつひとつは小さくても、きちんと積んでいけばどこまでも高い所へ行ける。派手じゃなくていい、誰の目にも付かなくていい、誰にでも出来る当たり前のことをまずは出来るようになろう。当たり前の、たった一人の「俺」になろう。
「頑張ろうぜ」
 陽介は小さく語りかけながら、山のてっぺんにオレンジを置いた。


どうでもいいですよ/2012.10.10


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