雨は朝から降り続いていた。
陽介は背もたれのない丸イスに腰を下ろし、窓から空をぼんやりと見上げている。天蓋にかかる雲は厚く、まるで町の上に大きなフタをされているみたいだった。
焼きそばを作る為の鉄板にはもう火が入っていない。販売用に二つだけ作ってパックに入れ、それでおしまいだ。まだ日が落ちるのには時間がある筈だが、天気のせいかひと気のないせいか、辺りはひどく暗く見えた。
離れたところに置いてあるソフトクリームの機械が、時折暇を嘆くように唸り声を上げた。それに応えてくれるのは、開け放した扉から漏れ聞こえるジュネスのテーマソングだけだ。
「あーっとね、コーラフロートもらえる?」
「……うっす」
今日の雨は夜には上がるという話だった。マヨナカテレビは大丈夫みたいだよと千枝も言っていた。だが気を抜くわけにはいかない。雨はこちらの事情など一切酌んでくれないし、殺人事件の犯人だって挙げられたわけじゃない。
陽介は何度目かのため息を洩らす。
こうしてフードコートに居ると、どうしても先輩のことが脳裏にちらついた。小西早紀が死んでからようやく二十日ほどが過ぎただろうか。あっという間で、それでいてものすごく長い時間を過ごしたような気がする。新学期に入る前はこんな想いを抱えるなんて想像もしていなかった。彼女が観たいと言っていた映画の前売り券を朝一番で手に入れて、なんと言って誘おうかと、そればかりをずっと悩み続けていた。
「あ、焼きそば美味しそう。一個ちょうだい」
「……毎度」
あの頃の俺は幸せだったんだと今では思う。何も恐れることなく昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日があるのだと信じていられた。ある意味では大人になったんだと言えるのかも知れないが、こんな方法でしか成長出来ないのだとしたら、大人というのはなんて悲しい生き物なんだろう。
「すいませーん」
声を掛けられて振り向いた。法律で成人と認められた男性の、実に間抜けそうな笑顔がそこにある。陽介は思わず大きなため息を吐き出していた。
「なに。わざわざ人の顔見てため息なんかついちゃって」
「暇そうっすねぇ、刑事さん」
「なにそれ」
足立はむっとしたように口をとがらせた。
朝から雨が続いている今日、フードコートは開店休業状態だ。屋根のない丸テーブルからはイスが取り払われ、辛うじて雨よけのある長テーブルにも人の姿は一切ない。一時間前に交代したパートさんの話では、客が来たのはお昼時だけだったそうだ。明日からの三連休に備えて食品売り場では着々と特売の準備が進んでいるようだが、こんな風に屋上で一人きりで店番をしていると、なんだか閉店後のジュネスに取り残されてしまったみたいに思えた。
こいつさえ居なきゃとっとと閉められんのにと思いながら、陽介は重い腰を上げた。
「で、ご注文は?」
「――君、さっきから接客態度悪いなぁ。いくらバイトだからって、そんなんでいいとか思ってる? あとで『お客様の声』に投稿しちゃうよ?」
「いいっすよ。こっちもあとで月森に電話しときますから。『なんか見覚えのある刑事さんが一時間以上もぼけーっとフードコートでサボってるみたいなんだけど、お前の叔父さんとかがああいうの見たらなんて言うのかなぁ?』って――」
「サボってるなんて、や、やだなあ! 聞き込みが忙しくてお昼食べられなかったから、ちょっと休憩してただけだよ、あははっ」
相変わらず芸術的な寝癖の残る頭を掻いて足立はそっぽを向き、わざとらしく笑い声を上げた。それを見ただけでバカらしくなってしまい、陽介は取り出しかけていた携帯電話をポケットに仕舞った。再度ため息をつき、窓枠に両腕を掛けて身を乗り出した。
「で? ご注文は?」
「あーっと、ホットコーヒーひとつ。あ、君もなんか好きなもん飲んで。これ、奢りね」
誰が聞いても口止め料の申し出だったが素直に受けることにした。
「あざっす」
陽介は注文のホットコーヒーを淹れたあと、自分用にコーラを入れてレジを打った。足立はミルクを倍量入れて嬉しそうに掻き回している。レジを閉じた陽介はストローをくわえて空を見上げ、「雨、やまないっすね」と呟いた。
「ねー。せっかくのゴールデンウィークなのにさあ」
「刑事さんは休みとかあるんすか?」
「僕? いや、僕はいつもどおりに仕事だよ。休みが続くと飲み屋とかで喧嘩が増えるみたいで、なぁんかちょこまかした事件が多いんだ」
「大変っすね」
「殺人事件の調べも全然進んでないのになぁ」
聞こえないフリで陽介は目をそらせた。
「最近霧もよく出るみたいだし。――ここって昔からそうなの?」
「さあ、どうなんすかね。俺も去年引っ越してきたばっかなんで、詳しいことはなんも」
「ふうん」
足立はコーヒーに息を吹きかけ、冷まし冷ましゆっくり飲んでいる。俺もあったかいのにしとけばよかったなと、窓から入り込む冷たい風に顔をしかめて陽介は考えた。最近は日によって夏日を観測することもあったのに、今日は長袖を着ていても肌寒いくらいだ。こんな日に屋上へ来ようなどと考える酔狂者は、人目を忍んで仕事をさぼろうという輩以外に有り得まい。
「そうだ。君、小西早紀って子知ってる?」
突然出てきたその名前に驚いて飲んでいたコーラを吹き出しかけたが、なんとかこらえた。無関心を装って振り向くと、足立はカップを両手で包み込み、とぼけた顔でこっちを見ていた。
「二人目の被害者で一人目の遺体発見者なんだけど、確かここでバイトしてたんだよね? あれ、そういえば学校も同じだったりする?」
「……確か同じ筈っすよ。いや、でも俺、その人のことよく知らないんで」
「あっそう。一緒にバイトしたこととかってない?」
「覚えてないですね」
「そっか」
足立は特に残念がるでもなく、また息を吹きかけてコーヒーを飲んだ。そうしてうっすらと立ち昇る湯気でアゴの辺りを温めながら、ぼんやりと無人のフードコートへと視線を投げた。つられて目を向けた陽介は、特定の席を無意識のうちに探してしまう自分に苛立ち、わざとうつむいて鉄板の隅を睨み付けた。
早紀と最後に話したあの日、彼女が座っていたテーブルは今、冷たい雨に濡れている。
「……捜査、進んでないんすか」
「え? ああ、まぁね」
ごにょごにょと何かを言ったようだがよく聞こえなかった。そのまま足立はコーヒーを飲み干すと、空の入れ物をカウンターに置き、「御馳走様」と言ってにっかりと笑った。
「仕事行くよ。じゃね」
「……毎度」
店舗の前に短く突き出している庇の下を通って足立は階段へ向かう。その姿が消えたのを確かめたあと、ゴミ箱へ入れられなかった空の容器を指で弾き飛ばし、陽介は何度目になるのかわからないため息をついた。
警察に期待するのは間違いだとわかっているが、それでも苛立ちは抑えられない。
これまで殺人事件などというものが身近で起きたことなんて一度もなかった。祖父母は父方母方共に健在だ。近所で誰かが死んだという話を聞いても、会ったことのない爺さんだったりどこかのおばさんだったりで、つまり当たり前のように死は遠い存在だった。
山野アナの死体がみつかったという話を聞いた時は、すっげぇことが近くで起こってるんだとしか思わなかった。誰かが死んでも、それは別世界の出来事だった。あの時面白がって笑っていた自分をぶん殴ってやりたい。きっと山野真由美にも、自分と同じように悲しんだり憤ったりしている誰かが居る筈だ。そんな程度のことも想像出来なかったなんて、本当にバカすぎる。
陽介はコーラを飲み干したあと、弾き飛ばしたゴミを拾おうと店から出た。相変わらずフードコートに人の姿はない。ゴールデンウィークだといっても今日は平日だし、この天気だし、きっともう客は来ないだろう。店を閉めていいか主任に訊いてみよう。そう思って店舗へ戻りかけた時、
「はなむらー。今日はフードコートおしまいだってよ」
階段へ続く扉から吉岡の姿が現れた。陽介は笑顔が気後れしたものになるのを感じながらもうなずき、「わかりました」と言って、持っていたカップをゴミ箱に押し込んだ。
「うわ、まだすっげぇ降ってんだな」
庇の下を小走りに吉岡がやって来る。そうして陽介が何も言わないうちに店舗のなかへ入り、店の前を照らす照明のスイッチを切ってしまった。店舗内部にはまだ明かりが残っているし、座席付近を照らす照明も点いたままなのに、一気に周囲が暗くなったように見えた。気付かないうちに夜が迫っていたのかも知れない。
そのまま吉岡は機材のスイッチを切ったりゴミをまとめたりと、手早く撤収作業を始めている。
「俺、ゴミ箱見てきます」
「ん、頼んだ」
ゴミ袋を渡してもらって陽介はフードコートを回った。天候が幸いしてゴミは殆ど溜まっておらず、目に付く大きなものだけ拾い上げて袋にまとめた。
「こんな天気じゃ、客来なかったんじゃねぇの?」
店に戻ると、吉岡はレジの精算をしているところだった。レシートをまとめ、釣銭の額を帳簿に書き込んでいる。
「さっきまで居ましたよ」
「マジで?」
どんな物好きだよという台詞には、笑っただけで答えなかった。食器を片付け、タオルを洗って漂白し、イスをまとめ、戸締りを確認する。その間、吉岡はずっと小銭をケースに詰めていた。その作業を横目で見ながら、ってか俺一人で閉められるんだけどなと、ぼんやり思った。
吉岡は八十神高校の先輩だ。ジュネスの開店と同時にバイトを始めたのが何故か自慢らしく、後輩のバイト連中に「困ったことがあったら俺に言え」と決まりごとのように言い聞かせている。
早紀を介して知り合い、他のバイト仲間数人と何度か飯を食いに行った。良く言えば親分気質で、話をしている分には楽しいが、残念ながら口で言うほど頼りになるわけではなかった。自分の限度を超えた頼みごとをあっさりと引き受け、半分以上人に振っておきながら、どういうわけか「やってやった」という態度を取る。
多分今も、閉店作業で大変な後輩を手伝ってやっているつもりなのだろうが、陽介からしてみれば体よくサボりに来たとしか思えなかった。鉄板の火を落とした段階であらかた片付けは済んでいる。だがそう言って仕事を取り上げるのも面倒なので、黙って自分の作業をこなすことにした。
「店の方どうですか? 客入ってます?」
「いや、まだすっかすか。――そうだ、花村って五日空いてるか?」
嫌な予感がした。
「夕方からバイト入ってますけど」
「その前ってなんか予定ある?」
「いえ、特には……」
「じゃあさ、林の代わりに朝から入れない? あいつバイトあるの忘れてて友達と予定入れちゃったんだってよ。バカだよな」
麻袋に釣銭と売上金を入れ、それを更に店舗の名前が入ったビニールバッグに仕舞いながら吉岡は笑う。陽介は内心でため息をつき、どうしようかと迷ったが、結局引き受けることにした。正直今はこの男とあまり話をしたくない。断る面倒を考えたら、素直に引き受けて終わらせる方が簡単だ。金にもなる。
「いいっすよ」
「マジで!? 助かるわ、ありがとな」
吉岡はまるで自分のことのように喜んだ。
林というのは陽介と同じ青果売り場担当の同級生だ。昨日会った時は何も言ってなかったけどなとちらりと思ったが、バイト同士で日程を調整するのはよくあることだし、あまり深く考えなかった。
店を閉めたあとのフードコートは無人になる。一応ジュネスが開店しているあいだは客席の照明も点けておくが、既に薄闇が迫りつつあるこんな雨の日に、屋上へ出るような物好きは居ないだろう。
従業員用の裏階段へと通じる扉を開け、念の為にと振り返った時、一瞬で目が例の丸テーブルを捉えていた。
忘れようと何度も思うのに、思えば思うほど意識がそっちに向いてしまう。もう居ないということはわかっているつもりだ。それでも居ないことを何度も見ていちいち確認しなければいけないのが何故なのか、陽介にはわからない。
「俺このあいだ取材されちった」
先に立って階段を下りながら吉岡が言った。ぼけっとしていた陽介は、一瞬だけ返事をするのが遅れた。気が付くと吉岡は踊り場で足を止めて振り向き、自慢げににやにやと笑っていた。
「取材?」
「ほれ、例の殺人事件」
わざとらしく声をひそめてこっちの顔を覗き込んでくる。あまり食いつきたくない話題だったので、陽介は「へえ」と曖昧に応え、吉岡を促すようにのろのろと歩き出した。
「正門出たとこに自販機あるだろ。あそこで声掛けられてさ、小西のことで何か知ってたら教えてくれって言うからよ」
「なんつったんすか」
「適当。だって俺、あいつのことよく知らねぇし。一年の時は同じクラスだったけど、なんつうか浮いてる感じだったぐれぇしか印象ねぇもんさ。でもジュネスで働いてたこと話したら、結構嬉しそうだったな」
「ふうん……」
「金でも貰えんのかと思ったんだけどなー」
また来たらお前が話せば? という言葉には、もはや無言で笑い返すしかなかった。
一階に着いたとたん、フロアへ通じる扉が開いて林の姿が現れた。自分たちの顔を見て、何故か一瞬表情を曇らせる。
「お、ちょうどよかった。花村が五日代わってくれるってよ」
「五日? え――あ、ああ」
「よかったなぁ林。ちゃんと礼言っとけよ」
そう言って吉岡はわざとらしく林の肩を叩き、売上金の入ったビニールバッグを持ち上げてみせた。
「俺、事務所に金持ってくから」
「お願いします」
吉岡が更に階下へ行くのをなんとなく見送っていると、「あのさ……」と、遠慮がちに林が話し掛けてきた。
「五日、ホントにいいの?」
背の低い林は、本当に同い年かと疑いたくなるほど幼い顔立ちをしていた。高校の制服を着ていると怪訝そうな目をされることが多いらしい。春休みに一人で沖奈市のゲーセンで遊んでいた時も、「もう六時だから小学生は帰りなさい」と店員に注意されたそうだ。だがそれは見た目だけの問題であって、内面は吉岡よりもよっぽどしっかりしている。一緒に働いているとそういうことが伝わってくるものだ。
陽介はなんだか救われた気分で笑い返した。
「いいよ。先約があったんだろ?」
「いや、違うんだよ」
やっぱり聞いてないんだと言って、林は苦々しげに眉根を寄せた。
「確かに遊ぶ約束はしたんだけど、すぐあとにバイト入ってるの気付いて別の日に行くことにしたんだ。だから大丈夫だって――」
言いながら林は、吉岡の姿を捜すように階下へと目をやった。
「……言ったんだけどなぁ」
「聞いてなかったんだろ。いつものことじゃねぇか」
陽介も苦笑しながら下りの踊り場へと目を投げた。姿を消した吉岡の、やけに自信に満ちた笑顔を思い出す。そうして、俺もあんな風だったのかなとぼんやり考えた。
誰かの為に労を厭わない、いつも頼りにされている。引っ越してくる前から、ずっと自分に対してそういうイメージを持っていた。余計なことをしやがってと逆に怒られる時もあったのに、どこかで自分は頼りになる人間だと思い込んでいた。
誰かが殺されたという不謹慎な話題も、場が盛り上がるのなら平気で口にした。バカにされている同級生や、あいつん家は金がないと噂されている同級生のことも、話題に上れば軽々しく同意した。大事なのはノリだった。その言葉がどんな意味を持つのかなんて真剣に考えたことはなかった。
『私、ずっと花ちゃんのこと、ウザいと思ってた』
確かにそうだろうなと、今なら理解出来る。他の何かをけなすことでしか繋がることが出来なかった。心配するのは批判が自分に向くことだけだ。こんな人間、自分だってウザいと思う。
吉岡は以前の自分だ。もしかしたら今もそうかも知れない、もう一人の自分。
振り向いた陽介は林と顔を見合わせ、しょうがねぇよなという風に笑い合った。
「五日どうする?」
「僕、出るよ。朝からずっとじゃ大変だろ。どうせ連休中は吉岡さんも休みだし、どっちが出たって気にしないんじゃないの」
「そうだな」
休憩だという林と別れて陽介はフロアに出た。がらんとした印象だったが、じきに夕飯を見込んでの買い物客も増える筈だ。仕事はこれからが本番。気合いを入れよう。
「うっしゃ」
ひと言呟いた陽介は在庫を確かめる為、野菜売り場へと歩き始めた。