河川敷を足早に行く孝介の耳元を、すうと涼しい風が吹き抜けていった。半ば歩き、半ば駆け続けた為に熱くなった体に、その風は心地良かった。孝介は見知らぬ誰かに、落ち着けよ、と諭されたような気がして足を止めた。息を整えながら暗くなった土手の前と後ろを見通し、そこに見知った姿がないかと目を凝らす。
「菜々子」
 川原に向かって声を掛けた。だが返事はなかった。土手の斜面に群生するコスモスが、音もなく風に揺れているだけだ。
 孝介は再び駆け出した。外灯の少ない土手を通行する誰かとぶつかってしまわないよう、注意深く前方をみつめ、自分の足音以外のなにかが聞こえた瞬間、その場に足を止めて音の出どころを探る。
 それなりの深さがあるせいで水音は殆ど聞こえないものなのだと、孝介はこの時に初めて気が付いた。
 川原に居るかも知れないと思い、孝介は土手の斜面から下をのぞき込んだ。腰の高さまで育った下草を両手で押さえ、再び従妹の名前を呼んだ。しかし孝介の声は抵抗もなく暗がりに呑まれ、あっという間に消えていった。
 こんなにも頼りない自分の声が、本当にあの子へと届くのだろうか。そんな不安を胸にもう一度菜々子と声を掛ける。
 川原で誰かがうずくまっているように見えたのは目の錯覚だったらしい。なにかを求めれば、そこにない筈のものまで見えてしまうようだ。こんな濡れたような晩は特に。
 孝介はそれでも待った。別の方角からでも返事がないかと耳を澄ます。しかし応えてくれる声はなかった。聞こえてくるのは鈴虫たちの合唱ばかりだ。孝介は苛立たしげに手元の草を薙ぎ払うと、また足早に歩き出した。そうしながら、もしかしたら方向が違うんじゃないかと不安のうちに思い始めている。
 一瞬叔父に電話をしようかと考えた。菜々子が以前語った思い出を、遼太郎も覚えているかも知れない。だがポケットに仕舞ってある携帯電話を服の上から押さえただけで孝介はあきらめた。
 そんな話が遼太郎の口からすぐに出てくるようであれば、きっと今晩のようなことは起こらなかった。あの子の不安がこんな形で爆発することはなかった筈だ。
 孝介はゆっくりと足を止めた。無意識に飛び出たため息は、きっと走り疲れたせいだと無理に思い込もうとしている。だが成功しそうにない。
 きっかけは一枚のプリントだった。授業参観の開催希望日のアンケート用紙。
 菜々子は最初、どうせ来られないからと遼太郎に見せることをためらっていた。しかし、だからといってその用紙を捨てることも出来ず、提出しないわけにもいかず、どうしたらいいのかと困っていた。一緒に頼んであげるからと励ましたのはつい先日のことだ。遼太郎の仕事が忙しいのは知っているが、家庭と仕事を秤に掛けた時、叔父のなかでどちらの比重が大きいのかは尋ねるまでもなかった。
 アンケート用紙を見せられた遼太郎は、しかしすぐさま明確な答えが出せなかった。それもまた仕方のないことだろう。授業参観というのは通常平日に行われ、平日というのは普通みんな働いているか学校へ行っているものだ。休むとなれば都合もある。遼太郎の迷いは、少し考えれば当然のものだった。
 だけど菜々子はその逡巡を受け入れられなかった。お父さんは「ほんと」のお父さんじゃない、そう言って、夜だというのに家を飛び出してしまったのだ。
『ほんと……って、どういうこと?』
 いつか一緒にテレビを見ていた時、菜々子に訊かれた。大好きな人のことだと孝介は教えてやった。菜々子はお父さんが大好きだから、ほんとのお父さんだ。そう言ったあと、でも菜々子はほんとの子供じゃないのかも、と不安そうに続けた。
『お父さんの「ほんと」の子供じゃないから』
 お父さんは菜々子を「大好き」じゃないから、だからおうちに帰ってこないの?
 血縁関係というものを説明したところで意味がないことはわかっていた。
 菜々子の不安に触れるたびに、孝介は言い様もなく苛立った。彼女が欲しがっているのはひどく単純なもので、でもそれは孝介が持っているものとは種類が違う。菜々子の望むものを与えられるのは世界中で一人しか居ない。だが――。
『血が繋がってりゃ家族か?』
 いつかの遼太郎の言葉を思い出しながら孝介は再び歩き出した。止まっていると、そのあいだに菜々子がどこかへ消えてしまう気がしてじっとしていられなかった。
 あちこちから鈴虫の声が聞こえてきていた。素知らぬ顔で、止むこともなく歌い続けている。焦る孝介のことを嘲笑っているかのようで、ふと苛立ちのあまり大声を出したくなった。どいつもこいつも、まったく――。
 孝介は歩きながら自分の横顔を平手で叩いた。自分への八つ当たりでもあったが、そもそも一番怒りを向けたいのは自分自身だった。
 役立たずの自分。見ているしか出来ない自分。
 結局足立の前からも逃げ出した癖に、なにを偉そうに。湧き上がる怒りを抑え込み、信じる方角へと進み続ける。今はそんなことを考えている場合じゃない。誰かが言っていたように、起こってしまったことを悔やんでもどうしようもないのだ。
 そうして歩き続ける孝介だったが、川原とは反対側の風景が開けた辺りで突然足を止めた。これ以上進むと菜々子が通う小学校をはるかに過ぎてしまう。この先には小さな畑が続くばかりで、身を隠す場所があるとは思えなかった。
 気持ちを切り替える為に、孝介は今来た方向へと走り始めた。そして走りながら菜々子の言葉を思い出していた。
『お父さんは菜々子より、わるいひととかみんなとかが、だいじなんでしょ!?』
 家を飛び出す前、菜々子が吐き捨てた言葉だ。同年代の子供に比べれば必要以上に辛抱強い彼女が口にした言葉は、文句や悪口ではなかった。それは菜々子の目に見えている父親の姿だった。
 「ほんと」の子供じゃないから。
 そうじゃない、そんなことはない――言って聞かせるだけで満足するというのなら、何百回でも言ってあげた。それで安心出来るというならいくらでも。でも駄目だ。菜々子が欲しいのは言葉なんかじゃない。
 自分にはあげられないもの。あの人しか持っていないもの。
 この町のどこかに隠れている不安の塊を、唯一慰めることの出来るもの。
「孝介!」
 鮫川に架かる大きな橋を過ぎたところで後ろから呼び止められた。見ると遼太郎が息を切らせながら駆け寄ってくるところだった。
「どうだ、居たか?」
 孝介は首を振る。遼太郎は大きく舌打ちを洩らすと足早に歩き始めた。孝介はあわててそのあとを追った。
「どこ行ったんだ……」
 ――鮫川の思い出。
 遼太郎と、今は居ない叔母「……なんで、生きてるのはあいつの方なの?」と、菜々子が共有する思い出。
 叔父さん、と呼びかけようとした時、遼太郎が突然ある方向を見据えて足を止めた。視線の先には空地を均した広場があり、そこにぽつんと建つ東屋があった。
 東屋のベンチに、白っぽい人影がある。
「……菜々子」
 孝介は驚いて歩みを進めた。確かに菜々子だった。ベンチに腰を下ろし、ぶらぶらと所在無さげに足をぶらつかせている。孝介は叔父に振り返った。遼太郎は暗がりのなかの娘をみつめたまま動こうとしない。
「叔父さん」
 孝介が声を掛けると、遼太郎はためらいながら振り向いた。
「……お前が行ってやってくれないか」
「でも――」
「本当の父親じゃない、か」
 そう言って、苦笑するように口元を歪ませた。
「頼む、孝介。迎えに行ってやってくれ。……お前の言うことの方が、あいつも素直に聞くだろう」
 そんなことはない、と言いたかった。だが家を飛び出していった時の様子を思えば、確かに自分が行く方がいいのかも知れない。
 菜々子がみつかった今、遼太郎にも心を安らげる時が必要だ。
「わかった」
 硬い表情でうなずいた。遼太郎も同じように表情を硬くしたまま、小さく頭を下げてくる。
「すまんな。……俺は菜々子が無事なら、それでいい」
 そう言って遼太郎は、再び暗がりの菜々子をじっと「このままでいいとか悪いとか……そういう問題じゃないじゃん」みつめた。そうしてなにかを振り切るように顔をそむけると、背を向けて歩き出した。
 叔父の姿が遠くに消えた頃、ようやく孝介は東屋に向かって歩き出した。足音に気付いた菜々子が怯えたように顔を上げた。
「お兄ちゃん……」
 立っているのが自分だとわかってホッとしたようにも、悲しんでいるようにも見えた。孝介は笑顔を見せながら菜々子の脇に腰を下ろした。
「うちに帰ろう」
「……うん」
 しかし菜々子は腰を上げようとしない。足元を見下ろしてじっと押し黙ってしまう。
 孝介は顔を上げて辺りを見渡した。結局すれ違う人は一人も居なかった。「こんな機会、もう二度と巡ってこない」こんな淋しいところに、一体いつまで居続ける気だったのか。
「よくここまで来れたね。怖くなかった?」
「橋のとこまでは、つうがくろだもん。へいきだよ」
「でもお父さんがみつけてくれなかったら、多分お兄ちゃんじゃわからなかったな」
 そう言うと、菜々子は驚いたように顔を上げた。
「菜々子のこと、さがしてくれたんだ……」
「当たり前だろ」
 菜々子の笑顔は途中で止まってしまった。一度目を伏せたあと、すがるようにまたこちらをみつめてくる。
「……お父さん、川のこと、なにか言ってた?」
 咄嗟に上手い返事が思い付かず、孝介は口ごもってしまう。菜々子はあきらめの表情でうつむいた。
「お父さん、忘れちゃったのかな、お母さんのこと……。お母さんの話、ぜんぜんしてくれないし」
 菜々子はベンチの縁をつかんで一度交互に足を揺らした。素足に履かれたピンク色の靴は、汚れのせいで鮮やかさを失い、夜の闇に吸い込まれてしまいそうに見えた。
「きっとお父さん、お母さんを忘れちゃったんだ。しゃしんも、なくなってた。きっとすてたんだ……」
 きゅ、と唇を噛み締め、縁を何度も握り直している。孝介は掛けてやる言葉がなにも思い付かなかった。少しの沈黙のあと、菜々子の弱々しい声が聞こえてきた。
「……お父さん……菜々子もすてるのかな……」
「そんなわけないだろ」
 だが菜々子はうつむいたままだった。自分の膝の辺りをみつめたまま、言葉もなくなにかに耐えている。孝介は小さな肩を抱き寄せた。菜々子はまた足をぶらぶらと揺らし始めた。だがそれは長くは続かなかった。ベンチの縁から手を離して両手をこぶしに握り締め、一度居心地が悪そうに両肩を持ち上げると不意に力を抜いた。
 そうしてもたれかかってくる温もりを感じながら、俺になにが出来るんだろうと孝介は考えていた。遼太郎を責めれば済む問題ではない。だけど、こんな小さな子がこんなところでたった一人きりで色々なことに耐えているなんて、あまりに理不尽だ。「そんなの、俺は見過ごせねぇ……」
「……帰る」
 ぎこちない動作で体を起こすと、菜々子は呟いた。それからゆっくりとこちらに振り返った。
「いっしょに帰ろ」
 涙をこらえる瞳に、孝介はうなずき返した。同時にベンチから立ち上がり、どちらからともなく差し出した手を握り合って、ゆっくりと暗い夜道を歩き出す。一度うつむいて涙を拭ったようだが、「お前の意見が聞きたい」孝介は見ないフリをした。
 菜々子の手は、温かかった。

「お前はどうする、月森」


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