「君、なに? 僕とおんなじ顔してるけど、もしかして頭かわいそうな人?」
「俺がかわいそうなら、お前もかわいそうなんだな」
 そう思いたいのならそれでもいいんじゃないのかと言ってそいつは笑った。笑う合間に顔の輪郭がぼやけ、黒くドロドロとしたものに変わり、そこにぽっかりと二つの穴が現れた。
 なんにもない目で、じっとこちらをみつめてくる。
「覚えてるだろ」
 足立は一歩後ろに下がった。だがすぐ壁に背中がぶつかってしまった。腕のなかで化け物がきゅうきゅうと騒いでいる。頼むからおとなしくしててくれ、足立は心の底から願う、そうでないとこっちにまで恐怖が伝染してきそうだ。
「まさか忘れてないよな」
「……忘れてないよ」
 答えて唾を飲み込んだ。だが目はそらせてしまった。じっと見ていると吸い込まれそうになる。
 なんにもない、穴蔵の目。
「あのさ」
 話をそらそう。咄嗟にそう思った。まともに相手をしちゃいけない。そうでないと、あの目を見たいという欲求に逆らえない。
「ここ、なんなの? テレビのなかってのは知ってるんだけど、なんでこんな廃墟なのかな」
「……」
「あと、この道、どこまで続いてるのかな? 僕行かなきゃいけないんだけど、ホラ、全体のどの辺りに居るのかわかると嬉しいんだけど」
「……」
「……答えてよ」
 ちらりと目を上げる。そいつは出した手をポケットに戻していた。
「ここはお前だ」
 突き放すようにそいつは言った。
「ここが廃墟なのはお前のなかがカラッポだからだ」
「……安っぽい台詞だね」
「自分の才能の無さを恨め」
 そうしてくつくつと喉の奥で笑う。
「ここはお前だ」
 そいつは繰り返した。
「お前の望んだ世界。お前自身。……なんとでも好きに思えばいい。それで、どこに行こうってんだ? どこに行ったってお前があるだけだぞ」
「……そんなの、あんたに関係ないだろ」
「戻ってこい」
 優しく諭すような声。足立は頑として目をそむけ続けた。
「意地を張ったってどうしようもないだろ。ここにはお前しか居ないんだ」
「あんたが居るだろ」
「そうだ。俺と、お前だけだ。……なあ、戻ってこいよ。また一緒に楽しくやろう」
「……わけわかんないんだけど」
「戻ってこい」
「うるさい!」
 意を決して睨み付けた。奴は困ったように肩をすくめるだけだった。
「この姿が気に食わないのか? こっちの方がいいのかな?」
 不意に全身の輪郭がぶれたかと思うと、黒っぽい姿が現れた。ステッチ入りの見覚えのある制服。
「足立さん」
 聞き覚えのある声。
「戻ってきてください。……こんなところで、どこ行こうって言うんですか」
 馴染みのある喋り方。足立はきつく目を閉じた。壁に寄り掛かって化け物を抱きしめながらもう一方の腕で頭を抱える。違う、これは幻覚だ、こんなところに孝介が居る筈はない、あんな顔で心配するなんて有り得ない。だけど頭でどれだけ否定しようとも、その声を渇望していた事実からは逃れられない。
「……なんだよ、やめろよ」
「足立さん」
 目を閉じていても、彼がどんな表情を浮かべているのかがわかる。あの心配するような声は幾度も聞いた。夏から秋にかけて何度も問い掛けられた。
「どうしたんですか」
 そう、そんな風に。
「やめろよ……っ」
 近付いてくる気配。不意に、頬に手が触れた。足立は驚いてその手を振り払った。目を開けると孝介が振り払われた手を押さえ、茫然と突っ立っていた。
「あ……いや、あの……」
 頭が混乱する。いつか、本当にこんなことがあった気がした。あの傷付いた表情には見覚えがある、そう、確か九月の終わり頃だ。最悪だった夏。どん底に居た自分。
「……足立さん」
 孝介は気丈にも笑ってみせた。
「どこ行くんですか? 俺も一緒に連れてってくださいよ」
 ――だから、言ったんだ。
 喉の奥からうめき声が洩れていた。見開いた目から涙が落ちた。それを見た孝介は再び心配するような顔になり、そっと、ためらいながら片手を伸ばしてきた。拒絶されるんじゃないかと恐れながらも、それでも足立を信じて腕を伸ばそうとしている。
「……だから言っただろ」
「え?」
 孝介の腕が止まった。足立は落ちる涙もそのままでしゃくり上げた。
「だから言ったんだ、君がぬいぐるみだったら良かったのに。……そしたら、どこまでも一緒に行けたのに……」
「足立さん……」
 孝介は困った顔でこっちを見ている。そうして小さく笑うと、あらためて手を伸ばしてきた。
「俺はここに居るじゃないですか。……戻ってきてくださいよ。一緒に行きましょう」
「……一緒に?」
「そう」
 孝介の手が頬に触れた。温かい手だ。
「一緒に」
 細長い指が涙を拭う。足立は大きくしゃくり上げながら腕を上げて目を閉じた。最後に見えたのが孝介の笑う顔でよかった、そう思いながら胸に抱えていた化け物で孝介の顔を殴り付けた。
 指が離れる。ばたん、と大きく倒れる音。涙を拭って目を開けると、孝介の体はアスファルトの上に尻もちをつく格好で倒れ込んでいた。顔のあった部分に、殴り付けた拍子に手からすっぽ抜けた化け物がくっついていて、孝介と一体となってしまった体をようやく引き剥がし、宙へ逃げようとしているところだった。
 孝介の顔は消えていた。首から上の部分がなくなっていた。それでも体は起き上がり、じっとこっちをみつめてきた。
「悪いけど」
 足立は頬に残る涙を手の平でこすり取った。
「僕、他人に指図されるの、大っ嫌いなんだ」
「――他人じゃないだろ」
 顔がない筈なのに、また声が聞こえた。体は相変わらず八十神高校の制服を着た孝介だったが、声はもう別人のものだった。
 足立は大きく息をついて肩をすくめてみせる。
「誰だって構わないよ」
 ――行かなきゃ。
 胸の奥から湧き上がる義務感に従って足立は歩き出す。
 出入口のところで振り返ると、倒れていた体がゆっくりと起き上がるところだった。ぎくりとして足を止めた。顔のない体はあとを追いかけるように歩き出していた。足立は小走りに駆け出した。そのあとを首なしの体も追いかけてくる。
「ええええええ、ちょっとおおおおおお!!!」
 まさかあれで走れるとは思わなかった。曲がり角で振り返ると奴はまだ追いかけてきていた。
「ちょ、そんなゾンビみたいな追いかけ方はやめようよおおおおお!!!!」
「――わかった」
 耳元で声が聞こえたかと思うと、突然目の前に首なしの奴の体が現れた。止まることなど出来なかった。足立とそいつは正面でぶつかり、もつれ合いながらアスファルトの上に倒れ込んだ。起き上がろうとするのを奴の腕が引き止める。
「離せよ!」
「戻ってこい」
「離せ……!」
 ――行かなきゃ。
 アスファルトを引っ掻いて足立は逃げようとする。今彼を支配しているのはたったひとつの義務感だ。――行かなきゃ、あの子が来るんだ、あの子が会いに来てくれる、僕を追いかけてここへ来る、僕のことだけ考えてるあの子にまた会える、行かなきゃ、会いに行かなきゃ――。
「戻ってこい」
 腕をつかまれた。だがその感触はすぐに薄れた。腕の輪郭がぼやけると自らの腕のなかへと溶け込んでいく。そのあいだも足立は逃げようともがき続けた。意識は朦朧として自分がなにと戦っているのか、もうはっきりしない。同じように足に載っていた感覚も薄れていった。上に載っていた筈の重みが消えていくたびに、頭の奥になにかが芽生えた。この世界のこと、化け物のこと、それまで知らなかった筈のことがいっぺんに理解されていく。だがそれは新しい知識を植えられたわけではなくて、忘れていたことを思い出しただけのような感じだった。
 ここは、お前だ。
 上に載っていた筈の別の体が消えた時、そのことが理解出来た。――ああそうだ、ここは僕だ。僕自身だ。だからどんなことも自由に出来る。そう、たとえば本物はここに居て、それでいて彼らを出迎えることとか。
 頭のなかにひとつの映像が浮かび上がる。小汚い、狭い部屋。そこに奴らが集まっている。恐怖の眼差しで自分を見ている。
「ああ……なんだ、お前らか」
 足立は呟いた。声がどこに届いているのか考えなくてもわかった。立ち上がりながら足立は彼を見ていた。
 ――行かなきゃ。
 君が、会いに来てくれる。この僕を追いかけてきてくれる。だから行かなきゃ。この世界がよく見える一番高い場所へ。君の姿がよく見えるように。最後の時までずっと見守っていてあげる。だから、早く来て。会いに来て。そしてひとつになろう。霧に包まれてなにも恐れることのない世界で、君と、ずっと一緒に。
 行かなきゃ。
 行かなきゃ。
 会いに、行かなきゃ――。


だから言ったんだ/2011.03.08


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