ふと周囲を取り囲む壁に目をやった。壁と言ってもそれは建造物とは呼べないような代物だった。コンクリートを地面へ広げたあと、そこに適当なものをあれこれ放り込んだように見えた。
壁には様々なものが埋まっていた。多いのは道路標識だ。折れ曲がった支柱はあちこち白いペンキが剥げており、なかの鉄パイプが剥き出しになっていた。ずいぶん長いあいだ野晒しになっていたようで、支柱にも一緒に埋まっている鉄筋にも錆が浮いていた。
壁の前をゆっくりと歩いていた足立は見覚えのある写真を目にして足を止めた。何故か愛読していた拳銃の雑誌が埋まっている。コンクリートにうずもれたページの端を爪で引っ掻いたが、残念ながら表紙がめくれることはなかった。この壁にもやはり立ち入り禁止のテープが一緒に埋まっていた。
埋蔵品の観察に飽きると、壁の切れ目から顔を覗かせて遠くを眺めた。燃え上がる炎を背景にぽつりぽつりとビルが建っているのが見えた。こちらに向けて窓が開いているようだが、明かりはひとつも見えなかった。それどころか崩れかかっているビルもある。
顔を抜いて壁にもたれ、ポケットに両手を突っ込んでため息をつく。
違和感の原因がようやくわかった。予想はしていたが、やはり自分以外の人間は居ないようだった。もっとも、こんな場所でほかの誰かに出会ったらそっちの方が驚いてしまう。
ここはテレビのなかだ。今誰かと出会うとしたら、あのガキ共以外には有り得ない。
足立は壁に寄り掛かったままスーツのあちこちを探った。幸いにして煙草はみつかった。なかの一本を取り出して火を付け、あらためてため息をつくように深く煙を吐き出した。
その最中でみつけたものがもうひとつだけある。
灰を叩き落としながら背広の内側へ手を入れると、握り馴れたそれが指に触れた。ケースから引き抜いてグリップを握る。まるで何年間も握り続けたかのように、グリップの形は手の平に馴染んだ。
三十八口径のリボルバー式拳銃。確認すると弾は一発だけ入っている。
――さて。
煙草を吸い込んで考える。さてさて。だが足立は煙草を吸うあいだに拳銃を戻してしまった。これの使い道はあとで考えよう。弾が一発だけというのが、なにかを示唆しているようで気に食わない。
煙草を吸い終えたあと、足元に落とそうとしてふと思いとどまった。壁に振り返り、火が付いたままのそれを押し付ける。
壁はなんの抵抗もなく煙草を呑み込んでくれた。
「はは、便利だね」
アパートの壁もこんなんだったら片付けが楽だったのに。そう思った次の瞬間、もうそんなことを心配しなくてもいいのだと気が付いた。片付けるべき部屋は捨ててきた。今更、どこへ帰れというのか。
『足立さん!』
孝介の叫び声が耳の奥でこだました。足立は聞こえない振りをして目をつむり、小さく首を振る。
――行かなきゃ。
どこからともなく湧き上がる義務感に従い、足立は立ち入り禁止のテープの前へ立った。手を掛けて下に引くと、それは呆気なく破れた。こちらとあちらに留まっていた霧が互いにぶつかり合い、混じり合う。もつれ合うようにして自由を得た霧のなかを足立は歩き出した。どこかに向かって。
行き止まりにぶち当たるたびに岩を抜けた。向こうとこちら側との行き来は自由のようだった。二つほど岩を抜けた辺りで足立は歩き疲れて休憩した。その頃にはもう化け物から逃げなくなっていた。奴らは側へ寄ってもなにもしてこなかったし、むしろ嬉しそうに近寄ってきた。それに、どこへ行っても奴らが居る。逃げるのはいい加減飽き飽きだ。
アスファルトに腰を下ろし、壁に寄り掛かって煙草を取り出した。火を付けて吸い込み、煙を吐く。ここに来てからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。腕時計を見たが針は止まっていた。足立は腕時計を外すとためらいもなく壁のなかへ押し込んだ。大学へ入学する頃、父親が買ってくれたものだった。ずっと使っていたのは思い入れがあったからじゃない、ただ単に壊れなかったからだ。
「あーあ」
アスファルトに寝転んで赤黒い空を見上げた。煙草をくわえて組み合わせた両手の上に頭を載せる。雲は動く気配を見せない。物音も一切聞こえない。
静かだ。
――なんでばれちゃったかなあ。
灰を叩き落として考えた。
そもそも病院で奴らに会った時から嫌な予感はしていたのだ。それでも生田目の搬送は終わっていたし、今更妙なことも言い出さないだろうと安心していたのに、まさかあんな小さな失敗をしつこく覚えていやがるとは。
「クソガキ」
ごろりと横になった足立は、白鐘の澄ました顔を思い出していた。あいつは一時期行方不明になった人物を詳しく調べるべきだと、捜査の会議でしつこく主張していた。久保美津雄が逮捕されたあとも、それが模倣殺人である可能性を声高に言い続けた。
お陰で生田目が逮捕されたじゃない。なんでそれで満足しなかったのよ。
やれやれとため息を吐き出して煙草を消した。なんだかここで吸う煙草は旨くない。そういえば喉が渇いたり腹が減ったりすることもないようだった。もしかしたら本当は感じているのかも知れないが、その感覚はどこかに消えていた。体のなかからあらゆるものが消えて、かすかすの張りぼてになってしまったような気がする。
まあ、ある意味当たってるけど。
足立は体を起こしてテープが張られた出入口をみつめた。立ち上がって手を掛けるとテープを破って道路の先を眺める。ちょうどいいことに、霧のなかを丸っこい奴が飛んでいた。ふわふわと漂いながらこちらに振り向いた時、試しにおいでおいでと手を振ってみた。化け物は喜びを示すかのようにほそっこい両手を上げ、ゆらゆらと漂いながら近くへやって来た。
手を伸ばして小さな体に触れた。向こうも小さな手で顔にぺたぺたとさわってくる。まるで子猫がじゃれついてくるかのようだ。足立は苦笑を洩らして化け物を腕に抱いた。化け物は少し驚いたようだが、おとなしく腕のなかに抱かれていた。
そうして壁に寄り掛かると再び座り込んだ。腹に当てるようにして化け物を抱きしめ、またため息をつく。
――だから言ったんだ。
君がぬいぐるみだったら良かったのに。そうしたらどこにでも一緒に行けた。なんで僕が今こんなところでこんな化け物抱いて満足しなきゃいけないと思ってんの? 君のせいだからね?
君にあんな力があったから。
――違う、と足立は首を振る。そうじゃない。原因はそんなことじゃない。考えるまでもない、そもそも始めたのは自分だ。
自分があの二人をテレビに落とした。それがきっかけだった。だから足立は孝介に出会った。君に出会ったから好きになった。
最初から君を騙していた。一生騙し続けるつもりだった。君の側に居られるならなんでもした。こうなってしまった今でも、もし戻れるなら君の隣に戻りたい。
誰よりもなによりも一緒の時間を過ごしたい。君を自分だけのものに。
もう無理だけど。
「……っ」
化け物を胸に抱いたまま足立は髪の毛を掻きむしった。涙はようやくのことでこらえた。今更遅い。全部遅い。後悔するのはもう飽きた。今はやるべきことをするだけだ。
顔を上げてテープの破れた出入口を見る。
――行かなきゃ。
そう思ったけれど、もう少しだけ休んでいくことにした。立ち上がる気力を掻き集めるには時間が必要だった。なに、焦ることはない――足立は自分に言い聞かせる。どうせここからは出られないんだ。焦る必要はない……。
いつの間にか眠っていたようだ。胸に抱いた化け物がじたばたと暴れるのに気付いて足立は目を開けた。
「なに。どしたの」
化け物はある一点をみつめてきゅうきゅうと鳴いている。足立はその箇所を同じようにみつめた。壁に取り囲まれた四角い空間、その壁と壁がぶつかる角のところに、突然目が現れた。
ぎょっとしてみつめていると、やがて目はなにかに押し出されるかのように突出してずるりと壁を抜けた。それにつられるようにして腕が現れ、足が現れる。最初はうっすらとしかなかった輪郭がはっきりして、それは人の体となった。
寝癖だらけの髪の毛、曲がったネクタイ、よれよれのスーツ。――見覚えのある顔。
足立は化け物を抱いたまま腰を上げた。腕のなかの化け物は逃げ出したいようだったが、同じくらい逃げ出したかったので必死になって押さえつけていた。
「戻ってこいよ」
そいつは言った。最初化け物に向かってそう言っているのだと思い、足立は身を引いて化け物を押さえ込んだ。
「この子返して欲しかったら、愛家の回鍋肉定食持ってきなよ」
足立の言葉を聞くと、そいつはバカにするように鼻で笑った。同じ顔であっても笑われると腹が立つものだ。ムッとして睨み返した。
そいつは脇をちらりと見た。次の瞬間、見覚えのある食器が四角い盆に載って現れ、いい匂いが漂ってきた。と、同じようなものが次から次へと現れ山積みになる。いつの間にか見上げるほど高く積まれていた。
「腹なんか減ってないだろ?」
声に気付いて振り返ると、呆れたような顔でこちらを見ていた。足立はあわてて我に返った。
「こ……こんなに食べられるわけないでしょ!?」
叫んだ瞬間、全てが消えた。もったいない、と思わないでもなかったが、事実腹は減っていなかった。そいつはズボンのポケットに両手を突っ込むと「戻ってこいよ」と繰り返した。
「……僕に言ってんの?」
「ほかに誰が居るんだ」
「……どこに戻れってのさ」
そいつは片手を出すと、無言で自分の胸を指差した。
足立は思わず鼻で笑ってしまった。