午後のフードコートは主婦と老人と子供の姿でいっぱいだった。あちこちから甲高い叫び声と叱りつける声が聞こえてきて騒がしいほどだ。しかし孝介と友人が座るテーブルだけは、周囲の喧騒から切り離されたかのように沈黙が落ちていた。
お互いなんと言って口を開けばいいのかわからないまま、居心地の悪い時を過ごしている。孝介は紙カップに入ったコーラをひと口飲んで、聞こえないくらい小さなため息をついた。
「なんか、今日は人が多いな」
向かい側に座った陽介が腕組みをしたまま言う。
「特売日だからだろ。俺だって、平日にこんなに混んでるのは初めて見たよ」
「だよな」
うなずいたあと、陽介は気まずそうに視線を落としてしまった。
孝介はそっと目を動かして広場を見渡した。さっきまで陽介に文句を言っていた二人組の女どもは姿を消したようだ。孝介は知らずのうちに安堵のため息を吐き出していた。そしてそれまでの重い空気を払いのけるように、硬いプラスチックのイスの上で大きな伸びをした。
「悪かったな」
イスに座り直した時、陽介が呟いた。
「なにが」
「いや……さっきの。お前には関係ないのにさ」
孝介はなにも言うことが出来なかった。笑おうとしたのにそれも上手くいかず、結局肩をすくめただけで終わりにしてしまった。
友人は伸ばした片足でテーブルの脚を何度も何度も踏み付けていた。それはさっき向けられた理不尽な文句に対する怒りというよりは、今二人を取り巻く重い空気を笑い飛ばすことが出来ない自分への苛立ちであるように感じられた。
常に笑顔の陽介がここまで暗い表情を続けるのは初めてのような気がする。口では「気にしていない」と言っていたが、そんな筈がないことは彼の態度を見れば明らかだ。だけど友人の気持ちを思うと、孝介が安易に悪口を言い募るわけにもいかなかった。せっかく呑み込んだ怒りを触発させたくはない。
ならば別の話題をと思うのに、それもまた容易には思い付かなかった。自分の不器用さを実感するたびに、やっぱり俺は未熟なんだと思い知らされる。
今日だけどうしてもと陽介に頼み込まれ、放課後にジュネスでバイトをした。突然の特売日で人手が足りなかったらしい。売り場に入っているあいだずっと品出しに追われたが、どうせ暇だったし臨時収入も手に入ったしで、なかなか楽しい放課後だった。
だがそうは思えない人間も居るようだ。以前も陽介に文句を言ってきた女の二人組が、今日も目ざとく友人をみつけ、ごちゃごちゃと不平を垂れ流していった。
それだけだったらまだよかった。
二人はあろうことか、死んだ小西早紀の悪口まで言い始めた。わざとなのか偶然なのか、その悪口は孝介にも容易に聞こえるほどの大声で交わされた。相手が女でなければ殴ってやりたいほど腹の立つ言葉だった。
だが陽介は、気にするな、と首を振った。
『あんな奴らがなに言ったって関係ない』
孝介は友人の為に怒りを呑み込んだ。だけどお互い呑み込んだものをどこへやればいいのかわからなくて、結局気まずい沈黙に取り巻かれている。
陽介はカップの底に残ったジュースを飲み干すと、苛立ちを吐き出すかのように「あーあ」と大きな声を出した。
「俺、卒業する頃には友達が一人も居なくなってそうな気がする」
「まさか」
「いや、本気でさ」
そう言って陽介は苦笑した。
「結局、ある程度の人から見れば、俺は『ジュネスの店長の息子』でしかないんだよ。なんか利用価値があると思って近付いてくるか、勝手に敵対視してくるか……どっちかなんだ」
陽介はうんざりした顔で首を振った。
「……有名人は大変だな」
試しに呟くと、陽介はまた苦笑してうなずいた。
「下手に悪さも出来ねぇしな」
「お前がジュネス建てたわけじゃないのになあ」
「まったくだっつうの」
陽介は憤慨の面持ちでテーブルを叩いた。そうして孝介の顔を見ると、力が抜けたように笑ってみせた。
「あーもう、やめやめ。なんか別の話しようぜ」
「こっちの夏って暑いの?」
気になっていたことを訊いてみた。陽介はとぼけた顔で首をかしげた。
「どうかな。俺もこっち来たのは秋だったし」
「あれ? じゃあまだ一年経ってないんだ」
「うん。ただ冬の寒さからいって、ものすごく暑いって感じにはならねぇんじゃねえの? 東京みたいに人が多いわけじゃないしさ、建物が密集してるわけでもないし」
「そっか。俺、暑いの苦手だからよかった」
安堵のため息をついたあと、孝介はテーブルに頬杖をついた。
「夏休みなあ」
陽介はそう言って全身の力を抜くと、ぼんやりと宙をみつめた。
「ガッコ休みになるのは嬉しいんだけどさ、こんな田舎だとなにして遊べばいいのかわっかんなくね? 海はないし山登りは俺嫌いだし」
「童心に帰って虫捕りとか」
「今更セミだのカブトだの捕まえたってさあ」
確かに、と孝介も苦笑する。陽介はストローをくわえてジュースを飲んでいたが、やがてなにを思い付いたのか突然にやりと笑った。
「どうせだからさ、別のもん捕まえに行こうぜ」
「別のものって?」
「バッカ、夏と言えばアバンチュール。ナンパだよ、ナンパ」
ぐししと笑って身を寄せてくる。孝介は呆れて首を振った。
「お前はホント、そういう話が大好きだね」
「女が好きじゃない男が居るか!?」
「いや、そんなに声でかく主張されても」
孝介は思わず苦笑する。カップの底をのぞき込み、氷の下に残るコーラを飲み干した。
「この辺じゃ無理だろうけどさ、沖奈行けば意外といけるんじゃね?」
「マジで行くわけ?」
「あれ、あんまり乗り気じゃない?」
「んー……」
氷を口に入れて、舐めながら首をかしげた。陽介は探るような目付きでじっとこちらをみつめている。そうして不意に、なにを理解したのか大きくうなずいてみせた。
「はっはーん。なるほどね。月森先生には既に意中の人が居るわけだ」
「ちょ……なんでそういう話になるんだよ」
「ずばり、目です。今俺の相棒は恋をする人の目をしていましたっ」
「……お前、ホント最近クマに似てきたな」
「え、マジ!?」
それは困るわーと言いながらも、陽介は誤魔化されずにこちらを見続けている。孝介は動揺して目をそらせたが、友人の追及は止まらなかった。
「な、誰なんだよ。俺にだけこっそり教えろって」
期待に満ちた眼差しがまっすぐこちらへ向けられていた。本当にこいつは、こういう浮かれた話が好きだよなぁと内心で呆れ返る。しかしあらためて尋ねられたとたん、脳裏に足立の姿を思い浮かべる自分も、やっぱりどうかしている。
「……その、」
「うん」
孝介は口を開きかけてためらい、苦笑するように首を振った。
「別にそういうんじゃないんだよ。……多分、本気では相手にされてないと思うし」
「あれ、結構マジな感じ?」
わからない、と孝介はもう一度首を振った。
「相手、どういう人なんだよ」
さっきまでの茶化すような空気が消え、陽介は真剣な表情になった。言っていいものかどうか迷ったが、ずっと一人で抱えているのも辛い気がしたので、少しだけこぼしてみることにした。
「ちょっと歳離れてる。十歳くらい違うのかな」
「……まさか菜々子ちゃんじゃないよな?」
「バカかお前は」
本気でデコぴんをかましていた。
「いいか、菜々子は世界で一番可愛い妹だぞ、あんな可愛い子に男なんか出来た日にはな、俺はな……っ」
「わぁかってるって。冗談だっつうの」
額をさする陽介は渋い顔付きだ。だが不意に苦笑を洩らすと、「このシスコンが」と呆れたように呟いた。
「で? その年上の彼女にお熱なわけですね?」
正確には「彼女」でなく「彼」なのだが、さすがにそこまでは言えなかった。孝介は曖昧にうなずき、しかし途中でまた首を振ってしまう。
「なに。なんでそんなに暗い顔してんだよ」
陽介は両手で頬杖をつくとこちらの顔をじっとのぞき込んできた。しばらく考え込んだあと、だってさ、と孝介は呟いた。
「十歳以上も年が離れててさ、付き合うとかどうとか、真面目に考えられると思う?」
「そんなの相手によりけりなんじゃね?」
「絶対ないって。――からかわれてるって思うのが一番気楽だよ」
それは半分以上自分に言い聞かせる為の言葉だった。
付き合っているわけじゃない。好きになったわけでもない。ただ一緒に遊んでいるだけだ、そう思えばこのもやもやから目をそらしていられる。うつむいて手のひらを眺めた時、そこに足立の指の感触を思い浮かべても、それは彼が言うように己の体が「気持ちいい」を思い出しているだけなんだ――と。
そう思えば、なにも期待せずに済む。
「……」
陽介はイスに座り直した。そうして腹の前で手を組み、ぼそりと、
「お前がそれでいいんなら、いいんじゃねえの」
どこか突き放すような口調だった。孝介は不安を覚えて目を上げた。陽介は手元へと視線を落としていた。そうしてなにかを言おうと口を開きかけては、ためらってやめてしまう。それを何度か繰り返したあと、ようやく言葉を口にした。
「一個上の先輩とかでもさ、かっこよく見えたりすっからさ。年上に憧れる気持ちは俺もよくわかるよ」
「……」
「向こうも、兄弟とか居たら弟にしか見えないってのもあるだろうしさ。それは、ある意味しょうがないのかも知んないけど」
でもさ、と陽介は暗い目で呟いた。
「遅く生まれたのは俺らのせいじゃねえじゃん」
「……うん」
「俺だって逆に思ったよ。なんであと一年待っててくれなかったんだってさ。年下なのは俺のせいじゃねえよ、同級生だったらどうだったんだよ、ってさ――」
陽介は溢れる思いを抑えるように突然言葉を切った。孝介はなにも言えなかった。それは明らかに小西早紀へ向けられた言葉だった。
そして恐らくは、伝えることの出来なかった言葉だった。
「……悪い。なんか、変なこと言っちった」
孝介は首を振った。
「いや、俺も。……なんか、ごめん」
しばしの沈黙のあと、陽介は苦笑しながら顔を上げた。
「なんか今日の俺ら、謝ってばっかだな」
「確かに」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
「俺は別にいいと思うぜ」
ジュースの残量を確かめるようにカップを振りながら陽介が言う。
「少なくともお前が本気なんだったら、俺は応援するよ」
「……」
陽介の言葉は本心からのものなのだろう。だが孝介は素直にうなずけなかった。
「本気なのかな」
目をそらして呟いた。
「自分のことなのによくわからないんだ。……変な話だけど」
「……」
「……でも、本気になるのは、ちょっと怖い」
そう言って孝介は手元へと目を落とした。そこに置かれた幻の指をつかみ損ねて、するりと逃げていくのを見たような気がする。
「んなこと言わねぇでさ。俺の分まで頑張れよ」
「……」
孝介はじっと手のひらをみつめている。友人の言葉に返事もせずに、逃げた指の行方を探している。