「……ホントに帰るの?」
「だって足立さんが食べさせてくれないって言うし」
「……君がどうしてもって言うんなら、食べさせてあげてもいいよ」
「どうしても食べたいなあ」
「よし、来い!」
 足立はにっかりと笑うと先に立って歩き出した。孝介は後ろに付いて歩きながら苦笑を噛み殺している。まったく、この人は二十七歳の皮をかぶった子供なんじゃないのか。
 最近はこういうやり取りが多い。お互い言いたいことをポンポン言い合っている。以前となにが違うんだろうと考えると孝介にはわからないのだが、知らないあいだに築いていた壁が取り払われたかのような風通りの良さを感じていた。
 足立が前よりも近くに居る。かけられる言葉に、向けられる笑顔に、前よりもずっと近付いている気がする。
 もっとも、こうして笑い合えるのには理由があった。孝介たちは無事に菜々子を救出したのだ。同時に生田目も捕まえた。菜々子はまだ面会謝絶の危険な状態だが、それでもシャドウの、あの世界の犠牲にせずに済んだ。今は回復を祈るばかりだ。
 足立の部屋は相変わらずだった。しかし最後にここを訪れた時よりはマシな状態にあった。床に散らばる洋服はなんとなくだが規則性を持たせて一箇所に集められているし、衣装ケースと段ボールは驚くことに重ねられていた。しかも雑誌がビニール袋に入れてまとめられている。孝介はびっくりして「どうしたんですか」と訊いてしまった。
「なにが?」
 台所で荷物を取り出しながら足立が振り向いた。
「なんとなく部屋を片付けようとしてる雰囲気がありますよ」
「いや、なんとなくじゃなくって、一応片付けようって頑張ってるところなんだけど」
 寝癖の残る頭を掻いて足立は悄然と佇んでいる。孝介はもう一度居室へと振り返り、
「うん。すごい頑張ってる」
「……褒められてるように聞こえないのは、なんでなんだろうなあ」
 ふと背後から抱きつかれた。頬を擦り寄せて一度顔を離すと、不満そうに表情を曇らせたままじっとみつめてくる。慰めるように頭を撫でてやると、小さく笑って唇を重ねてきた。
「お客さん呼びたいからね。頑張ってるんですよ」
「……え? あ、お客さんって、俺のことですか?」
「ほかに誰が居るの」
 友達とか居ないのかな、とちょっと思ったが、口には出さないでおいた。足立は自分と同じく春に稲羽市へ越してきた人間だし、職場の人間関係というものがどういう感じなのか、孝介には未だに想像がつかなかったからだ。
 足立が着替えているあいだ、先に味噌汁を作ってしまおうと孝介は台所に立った。ここも、流し台だけだが磨いたような形跡があった。そもそも殆ど料理をしないという言葉通り、ガス台も換気扇もそんなに汚れているわけではない。それでも自分の為に綺麗にしようと思ってくれるのは、やはり嬉しかった。
「お隣お邪魔しまーす」
 着替え終えた足立がそう言って脇に立った。材料を取り出してざくざく切り始めている。
「そういえば、あの時はフタありがとね」
 突然振られた話題に、思わず驚いてしまった。その話してもいいんだ、と、内心動揺しながら「いいえ」と短く返事をした。
「結局あのあと、食べられないまんま寝ちゃってさあ」
「鍋はどうしたんですか」
「次の日の夜に頑張って食べたよ。二日酔いがすごかったんだけど、捨てるのももったいないし」
「……あの時の足立さん、すごく酔っ払ってましたもんね」
 確か九月の終わり頃だった。そういえば足立のアパートへ来るのはあれ以来だ。ふた月も経っていない筈なのに、ずいぶんと昔のことのように思えるのが不思議だった。
 味噌汁だけ作ると仕事がなくなってしまったので、仕方なく部屋へ行った。ベッドに腰掛けてテレビを付け、見るともなしにニュースを眺める。ふとベッドの隅にアイちゃんが居るのをみつけた孝介は、それを腹に抱えてみた。座らせる格好で抱きしめると、ちょうどアゴの下にアイちゃんの頭が来る。ふかふかの生地も温かくて気持ちいい。
「お。君もアイちゃんの魅力に気付いたね」
 卓上コンロと土鍋を持ってやって来た足立が嬉しそうに言った。
「これ、マジで抱き心地いいです」
「でしょでしょ。さわってると気持ちいいんだよねー」
 立ち上がった足立は台所から材料を持って戻ってきた。切ったキャベツを無造作に放り込み、あいだに肉を挟んでまたキャベツを入れる。隅にキノコを押し込めるとまたキャベツだ。前回見た時と同様、鍋からあふれんばかりにキャベツが入れられた。そこへフタを置くと更に上へ雑誌を乗せて無理矢理フタを閉め、コンロに火を付けた。今にも消えてしまいそうなほど小さな火だった。
「はい。あとは出来上がるのを待つばかり、と」
 そう言ってこちらに向いた。横にずれて座る場所を作ったのだが、足立はベッドに上がると孝介の背後に回り、アイちゃんの代わりとばかりに力いっぱい抱きしめてきた。
「なんかこうするの、すごく久し振りな気がする」
「ここに来るのが久し振りですから」
「そっかぁ。いつ以来だっけ?」
 返事は一瞬だけ遅れた。
「九月以来です」
「……ああ」
 尻の位置をずらして足立にもたれかかった。見上げると、足立は一度孝介の髪を梳き、探るようにこちらを見返してきた。孝介は片手で首に抱きついて唇を重ねた。唇が離れたあとは互いに熱い息がこぼれた。伏し目がちに顔を寄せると、足立は再び髪の毛を梳き始めた。
「またこうやってここに来れるなんて思ってなかったですよ」
「……」
 足立は額にキスを落として返事とする。そのまま抱きしめられた。あいだに挟まれるアイちゃんがかわいそうで、孝介はそれを脇に置いた。そうして、同じように腕を伸ばして抱きついた。


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