玄関のチャイムが鳴った時、足立は何故か孝介が帰ってきたのだと考えた。だがカレンダーを確かめて、すぐに思い違いだと気が付いた。彼は今東京の実家に戻っている。帰ってくるのは明日の予定だ。
でも、じゃあ誰だろう? 怪訝に思いながら立ち上がり、玄関ホールの扉を開けた時、遠慮がちにもう一度チャイムが鳴らされた。
「はい」
外に向かって声を掛け、同じく遠慮がちに扉を開ける。すると堂島の安堵した顔がそこにあった。
「よう」
「堂島さん……!」
「悪いな、急に」
「いえ」
来るなど予想もしていなかったので驚いたが、どうせ暇な身だ。足立は一歩下がって堂島を玄関に招き入れると、「明けましておめでとうございます」と言って頭を下げた。
「おお。おめでとさん」
堂島も笑って応え、手にしたビニール袋を掲げてみせた。焼酎の瓶とウーロン茶が入っている。乾き物の袋も幾つか見えた。
「ちょっと初詣に出たついでに、ぶらっと来ちまった。お前、時間は平気か?」
「やることなくて暇だったんです」
居間に戻った足立はリモコンを取り上げるとテレビの電源を切った。堂島は「やれやれ」と言って荷物をテーブルに置き、ソファーからクッションを拾い上げると尻に敷いて座り込んだ。そのまま上着を床に放り出そうとするので、部屋からハンガーを持ってきて掛けてやった。
「孝介は?」
「実家に戻ってます。明日帰ってくるって言ってました」
「そうか……」
座ったばかりの堂島は棚を見上げて立ち上がり、大きめのグラスを二つ取ってテーブルに置いた。足立が氷を出してグラスに入れるとさっそくウーロンハイを作り始める。マドラーなどという洒落た物はないので、代わりに割り箸を使った。足立は冷蔵庫を開け、残っていた煮物と漬物の皿を取り出した。
「菜々子ちゃんは、今日は?」
「友達と遊びに行ってる。うちで一人で呑んでるのもつまらねぇなと思ってたら、ぽっとお前のこと思い出しちまった」
「光栄です」
足立は笑ってグラスを合わせた。
しばらく互いの近況報告となった。堂島は今年元旦二日と休みが取れたが、明日は出勤になるらしい。忙しいんですねと言うと、「どうせ家に居てもやることねぇしな」と情けなく笑ってみせた。
「仕事の方はどうだ?」
「おかげさまで、なんとか続いてます」
二十八日が仕事納め、新年は六日が初仕事だ。畑中の家は娘と息子が一人ずつ居て共に県外へ出ているそうだが、年が明ける前に帰ってくるという話だった。久し振りに顔が見れると畑中はやけに嬉しそうだった。
一方県外へ来ている一人息子の孝介は実家へ帰るのを面倒臭がっていた。どのみち二十九日まで仕事だったし、新年は四日から始業だから、気持ちはわからなくもない。
だが足立がケツを叩いて無理矢理に帰らせた。別に両親と不仲であるわけではないのだし、こんな時ぐらい顔を見せてやれと言うと、孝介は渋々同意した。戻るところのない自分が目の前に居れば反論出来ないことはわかっていた。
そうして迎えた年の瀬は、ひどく静かだった。一度だけ孝介からメールが来た。新年の挨拶と共に、餅を喉に詰まらせるようなバカな事態は引き起こさぬようにとの、それはそれは有り難い心配のお言葉を頂戴した。酒浸りの毎日ですのでご心配には及びませんと返事をしたら、ゲロはきちんと片付けておくようにとの、更に更に有り難いお言葉を賜った。目の前で吐いたことなど一度もないのだが。
そんな感じで、まぁまぁ仲良くやっている。話を聞いた堂島は「なんなんだ、お前らは」と実に楽しそうに笑った。
「あの子、昔っから生意気なところありますよねぇ」
「まぁそうだな。度胸がいいっちゃあそうなんだろうが」
そう言って堂島は苦笑し、手の平に乗せた柿の種を口に放り込んだ。
「まあでも、楽しくやってるようで安心したよ」
どこか含みのある言い方だった。足立がちらりと目を向けると、堂島は気まずそうに空咳を洩らして酒を飲んだ。
「……お前をここに住ませるって話な、あいつが言い出したんだ」
グラスの中身が減っていることに気付いて足立は焼酎の瓶を取り上げた。そうしてフタを開けながら、やっぱりなと、ちらりと考えた。
「お前の仮出所が決まった時、たまたまあいつがうちに来てたんだ。最初はどこか部屋でも借りるつもりだったんだが、あいつが、うちに置けばいいって言ってな」
「……」
「当時はあいつも独り暮らしじゃなかったから、そんなの無理だろうって言って断ったんだ。そうしたら」
『近々出ていく予定だから構わないよ。単に引っ越す金が足りなくて部屋に居るってだけなんだし』
言葉だけ聞けば、あぁそうなのかと納得も出来るが、堂島が引っ掛かりを覚えるほど硬い表情だったそうだ。
「あの子が……ですか」
「ああ」
作ってもらった酒にマドラー代わりの割り箸を突っ込み、堂島は暗い顔付きで掻き混ぜる。
「……一緒に住んでたのって、彼女ですよね?」
「みたいだな」
割り箸をテーブルに戻した堂島は、ひとつ大きなため息をついてみせた。
「あいつも、どういうわけか疎いらしくてなぁ」
そもそも女性との付き合い自体にさほど積極的ではなかったようだ。こっちの支社へ異動になった時も呆気なくやって来たし、堂島家に住んでいた時も、週末は友達と遊んでいることが殆どだったらしい。
堂島がいつだったか、あいつはいい年こいて女の一人も居ないのかと、茶化し半分愚痴半分で言った時、菜々子が答えたそうだ。
『お兄ちゃん、好きな人が居るんだよ』
やけにきっぱりとした口調だったという。見たのかと訊くと、そうじゃないと首を振った。
『でも私、わかるんだ。ずっと前からそう。誰かのことずーっと思ってて、その人のこと忘れられないんだよ』
なんでわかるんだと訊いても、ただわかるからとしか返事がなかった。堂島は頭を抱えたようだが、その頃の菜々子は十代半ばの多感な時期だ。ずっと兄と慕ってきた孝介を一人の男として捉え、それに相応しい女性になろうと努力することもあっただろう。
それでも、孝介からしてみれば菜々子は大事な「妹」だ。それ以上に見てもらえない、決して越えられない垣根の向こうに何があるのか、側に居た菜々子は嫌でも感じ取ってしまったのかも知れない。
げに恐ろしきは女の勘――などと、他人事なら笑って済ませられたのだろうが。
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