「ホラ、着いたよ」
「はぁーい」
 だらしなく言って孝介は勢いよく腕を振り上げた。それが壁に当たって「いでっ」と声を上げ、スニーカーを脱ごうとして姿勢を崩し、壁に頭をぶつけてまた悲鳴を上げている。足立は呆れつつも靴を脱いで先に部屋へ上がり、居間の明かりを付けた。そのまま背後を振り返り、足元になにかつまずく物はないかと確かめる。
 酒に酔った孝介は何がおかしいのかニヤニヤ宙をみつめて笑っている。そうしてホールと居間の境目辺りで立ち止まると、いきなり上着を脱いでソファーに放り投げた。
「トイレ」
「いってらっしゃい」
 再びホールに戻っていく孝介の後ろ姿を見送って足立は自室の扉を開けた。明かりを付け、上着を脱いでハンガーに掛け、作業着から部屋着に着替えてしまう。
 気配に振り返ると、孝介が流し台の前にぼんやりと突っ立っていた。
「上着」
 ソファーに放った自分の上着を指差し、酔っ払い特有の頑迷な声でそう告げる。
「うん」
「持ってきて」
 そうして自分はふらふらと部屋へ向かった。足立は苦笑すると上着を拾い上げてあとに従った。
 部屋に入った孝介はいきなり着ていた物を脱ぎ始めた。足立はタンスを開けて上着を仕舞った。振り返ると孝介はスウェットを着込んでベッドにもぐり込むところだった。
「気持ち悪いとか、ない? 大丈夫?」
 部屋の明かりを付け、顔を見下ろしながらそう訊いた。孝介は相変わらずニヤニヤ笑うばかりで要領を得ない。この子、酔っ払うとこうなるんだ、などと思いながら返事を待っていると、
「足立さん」
 不意に名前を呼ばれた。
「なに?」
 だが訊き返しても孝介は何も言わなかった。布団の隙間から手を伸ばしてくるだけだ。足立は仕方なく側に寄ってしゃがみ込んだ。孝介は伸ばした手で足立のトレーナーを掴み、無言でぐいと引っ張った。
「なぁに」
「………………水飲みたい」
「早く言いなよっ」
 足立は流しでグラスに水を入れて孝介の処へ戻った。ベッドの上で起き上がった孝介はグラスを受け取り、何回かに分けてゆっくりと水を飲んだ。
「……なんか」
 思わず苦笑が洩れた。笑い声に気付いて孝介が振り返った。
「君とこうやってお酒飲みに行くようになるとか、想像もしてなかったな」
「……」
 孝介は口元だけで笑ってグラスを付き返し、再びベッドへ横になった。
「足立さん」
 布団の隙間から手を伸ばし、トレーナーを掴む。そのままブラブラと左右に振られるあいだ、なんとはなしに孝介の顔をみつめていた。
「なに?」
「……前、俺が叔父さん家に居た時に、何回か泊まりに来ましたよね」
「あぁ、うん。行ったね」
「居間に布団敷いて」
「うん」
「楽しかったよね」
「うん」
 楽しかった。よく覚えている。堂島や菜々子が居た時もあったし、居ない時もあった。孝介が晩飯を作ってくれて、恥ずかしながら新婚のようだと浮かれたこともあった。
 布団のなかで孝介を抱きしめ、おやすみと言ったあとも、しばらく眠れなかったことを覚えている。当たり前のように腕のなかにある幸福も、目を閉じてしまえば見えなくなる。一分でも一秒でも長く一緒の時間を確かめていたいと、あの時は真剣に思っていた。
 唯一未来を思い描けていた頃のことだ。
「ねえ」
 左右に腕を振る手が止まった。目覚まし時計の秒針の音が聞こえ、我に返って孝介の目を見た瞬間、部屋の空気がひどく緊張したものに変わっていることに気が付いた。何故部屋に入ってしまったんだろうと後悔したが、遅かった。
「……今があの時の延長じゃ駄目なんですか?」
 懇願するような声だった。
「……」
「何があの時と違うんですか?」
 見下ろす格好の孝介には、高校生の頃の面影がある。
 足立は咄嗟に返事が出来なかった。言葉を探しあぐね、目をそらせようとしても、まるで酔ってなどいないかのような孝介の真剣な眼差しに捕えられ、少しも身動きが出来なくなる。
 何があの時と違うのか?
「…………その……」
 トレーナーを掴む孝介の手に力が加わった。答えを欲していながら知るのが怖いと顔に書いてあった。この為にわざと酔っ払ったんだろうかと一瞬考えたが、真実はわからない。
 足立は言葉を探した。納得してもらえる言い訳がどこかにないかと、酔いの吹っ飛んだ頭でぐるぐる考えた。
 返事がないのを見てあきらめたのか、孝介はトレーナーを掴む手からゆっくりと力を抜いた。そうして落ちそうになる手を、足立は思わず掴んでいた。そのまま布団に戻すことも、引き寄せることも出来ずにいる。中途半端な位置で止まった手が、まるで今の自分たちみたいだ。
「……俺、変わりました?」
 手を握り返して孝介が訊く。足立は首を振った。確かにあれから時間が流れた分、孝介の状況は変わっている。学生だった彼が今や立派な社会人だ。助手席に座るしかなかった彼が自分の車を持ち、足立をどこかへと連れて行ってくれる。共に酒を飲み、仕事の楽しさや苦労を色々と話してくれる。あの頃には出来なかったことだ。
 でも世話焼きなところは変わっていない。案外甘えん坊なところも相変わらずだ。生意気な言葉も、ふてぶてしい表情もあの頃のまま、いやあの頃以上に魅力的に見える。男振りが上がり、時々横顔に見蕩れてしまうことさえあった。
 何があの時と違うのか?
 ――そんなの、
 こっちが訊きたい。このまま腕を引けば呆気なく孝介は戻ってくる、その時の様子がまるで映像みたいに脳裏で瞬いた。現実にそうなっていない今の方が幻に思えるほど重みのある光景だった。それがただの妄想でないことはお互いが知っていた。過去に何度も抱きしめた体、肌を擦り合わせて感じた熱が、今自分の手のなかにある。
「足立さん――」
 抗うのを無理矢理遮って腕を布団のなかに押し込んだ。そうして立ち上がり、相変わらず言葉がみつけ出せないまま孝介の顔を見下ろした。
「――ごめん」
 それが、唯一絞り出せた言葉だった。
 孝介は半身を起こし、何かを言うように口を開きかけた。だが足立と同じように言葉は出なかった。不意に目を落とすと、のろのろと首を振り、
「……なんか、俺一人だけバカみたいですね……」
 そうして力を失ったようにベッドへ横になり、こっちに背を向けて布団をかぶってしまった。
 足立はまだ答えを探していた。孝介の為ではなく、自分の為に。しかし最後までそれはみつからなかった。
「電気、消すね」
 電燈の紐を引っ張ってオレンジ色の光を灯す。グラスを持って戸口まで行き、扉に手を掛けて振り返った。
「……おやすみ」
 孝介の返事はなかった。


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