孝介の部屋は七階建てマンションの三階部分にあった。送ってくれた堂島と共に三人でエレベーターに乗り、部屋へ向かった。孝介がポケットを探りながら先頭を行き、廊下の途中で立ち止まってこっちに振り向いた。
「ここです」
 壁にある作り付けの表札には「月森」とマジックで書かれてあった。硬く、素っ気ない手書きの文字だ。多分孝介が自分で書いたのだろう。二人分の名前が書き込めるようになっていて、下の段には何かが書かれた跡だけが残っていた。前の住人の名前だろうか。
「どうぞ」
 入ってすぐは狭いホールになっている。側の扉を示して、ここがトイレ、あっちが風呂だと教えてくれた。
「相変わらずお前んところは綺麗だなぁ」
 堂島が感心したように声を上げた。確かに綺麗だ。三和土にはスニーカーが一足、細い傘立てのなかには青味の傘と靴ベラが一本ずつ、あるのはそれだけだ。他は靴箱に収められているらしい。物が少ないだけだよと孝介は言うが、続いて入った台所も居間も、やはり綺麗に片付けられていた。男の独り暮らしでここまで清潔に保たれているのも珍しい気がした。
「こっち使ってください」
 孝介が示したのは向かって左側にある洋室だった。六畳ほどだろうか。薄い緑色のカーペットが敷かれ、布団の掛かったパイプベッドがひとつ。奥はベランダで、窓は大きく、そこから午後の陽射しが射し込んでいた。孝介は窓を開けて風を通すと、次に押し入れを開いて足立を呼び寄せた。
「ここ、上の段に洋服が掛けられるんです」
 見るとパイプが一本渡されていて、そこに何本かハンガーが掛けてあった。下の段には掛布団と空の衣装ケースが収まっている。
「ケースは友達が置いていったヤツですけど、よかったら使ってください」
「ありがとう」
 足立は手にした買い物袋を床に置き、がらんどうの押し入れを覗き込んだ。
「ちなみに布団は新品です。足立さん来るって聞いたから買ってきたんです」
「え? じゃあ、お金……」
「渡すなら叔父さんにお願いします。俺は買ってきただけですから」
「あ、うん」
 相変わらず、孝介は目を合わせようとしない。説明を終えるとくるりと向きを変えて部屋を出ていってしまった。
 足立は中央に立ち尽くして部屋のなかを見回した。窓から隣のビルが見えたが、あいだに立つ大きな樹木のお陰で視界は殆ど遮られている。吹き込む風のせいで、空調などなくても充分快適に過ごせそうだった。
 ここが、自分の家になる。
 いつまで世話になるかはわからないが、ともかくあまり散らかさないように頑張ろうと足立は思った。
「足立さん、お茶入れましたからどうぞ」
 普段着に着替えた孝介が部屋の入口から顔を出して足立を呼んだ。居間へ行くと、テーブルの上に緑茶の入ったグラスが三つ置かれてあった。
「どうだ?」
 堂島がグラスへ手を伸ばしながら訊いた。
「すごく住みやすそうです。なんか申し訳ないくらいで……」
「駅にも近いしな。結構するんじゃないか?」
「そうでもないよ。東京に比べたら全然安い」
 言いながら孝介はテーブルに鍵を置いた。
「合鍵です。なくさないでくださいね」
「あ、はい」
 足立は鍵を拾い上げるとポケットに突っ込んだ。座る後ろにキッチンがあり、大きな冷蔵庫が置かれている。その隣の棚には電子レンジが乗り、下には米櫃と、ラップやゴミ袋などの細々した物が入れてあった。
 ホールに通じる扉の脇にはテレビが設置されている。足立の向かいの壁際には床に直置きのソファーがある。詰めれば三人くらいが座れそうな、ゆったりとした物だ。今は何故か誰もそこに腰を下ろしていない。孝介と足立はテーブルの下に敷かれたラグマットの上へ、堂島はクッションにとそれぞれ座っている。
「昨日話したガラス屋な、土日祝日は休みなんだ。連絡入れるなら週明けにしてくれ」
「わかりました」
 今日は土曜日だから、連絡が出来るのは明後日ということになる。それまでに少しでも馴れておかなければ。
 しばらくとりとめもなく話をしていたが、やがてお茶を飲み終えた堂島が、二人の顔を交互に見て言った。
「じゃあ俺はそろそろ行くわ」
「うん」
 堂島が立ち上がるのにつられて足立も腰を上げた。玄関へ行き、靴を履いた堂島は、ゆるりとした動作で振り向いた。そうして何かを言いかけ、しかし上手く言葉がみつからなかったのか、困ったように苦笑した。
「ホントに、ありがとうございました」
 足立は深々と頭を下げた。
「何かあったらすぐに連絡しろ。今更遠慮なんざ要らんからな」
「はい」
「……頑張れよ」
 そう言って、ぽんと腕を叩いてきた。足立は言葉もなくうなずいた。
「じゃあな」
「気を付けて」
 遅れて脇に立った孝介が笑顔で手を振った。扉が閉まるまで、二人はその場に立ち尽くしていた。
「さてと――」
 居間に戻った孝介は、堂島が腰を下ろしていたクッションを拾い上げてソファーに放り投げた。
「ちょっと辺りブラブラしませんか? 晩飯買うついでに、駅までの道教えますよ」
「あ、うん。お願い」
 孝介は堂島の分のグラスを流しに入れながら、自分のお茶を飲み干した。足立も同じようにお茶を飲み、そうしながら孝介の後ろ姿を眺めていた。
「……ちょっと、背伸びた?」
 声に孝介がこっちを見た。少しだけ見下ろされる恰好になる。
「二センチ程度ですけど」
 すぐに目をそらせて孝介は言った。残った氷を流しに空け、そのままグラスを置いて部屋へ行ってしまう。足立はグラスを軽くすすぎながら、こっそりとため息をついた。
 丸っきり話さないわけにはいかないだろうが、何を言えばいいのかがわからなかった。下手に話題を振ろうとすると、どうしても当時を蒸し返すことになる。
 考えてみれば短い付き合いだったのだ。半年程度で終わりになった。あれから十二年が過ぎている。今の孝介は、当時と別人だと考えた方がいいのかも知れない。
「行きましょうか」
 部屋から出てきた孝介は、片手に青い袋を持っていた。足立はうなずいて手を拭いた。


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