「沖奈に住んでるって……?」
「仕事で」
 短く答えたあと、孝介はビールで口のなかのものを飲み込んだ。そうして缶を取り上げると叔父のグラスにビールを注ぎ、言葉を続けた。
「本社は都内なんですけど、こっちの支社に異動になったんです。社内で希望者募ってたから立候補して、そのまま」
「もう四年くらいになるのか?」
「三年半かな。最初はここに住んでたんですけど、残業とか続くと通うの大変だったから、向こうでアパート借りて独り暮らししてます」
「そうなんだ……」
 堂島家へやって来た時のめまいが再び襲ってきた。高校生だった孝介と、目の前で酒を飲み、背広を着て仕事の話をする彼とが、全く重ならない。ただあの孝介だということはわかる。その事実が受け入れられないだけだ。
「……で、お前の住む場所なんだがな」
 ためらいがちに堂島が目を上げた。
「しばらくうちに居てください」
 当然のように孝介が言い放った。足立は再び言葉を失った。
「――え?」
「だってここじゃ無理でしょう」
 広さのことを言っているわけじゃないのはわかった。ここはかつての自分が暮らし、働いた町だ。沖奈市だってそう離れているわけでもないけど、管轄が変われば顔ぶれも大分違ってくる。ここには当時の同僚も居るだろうし、被害者だって――。
「あ……あの、」
 ふと出た言葉に、孝介は一瞬の間を置いてから振り向いた。
「なんですか?」
「……あの酒屋は、まだあるのかな」
「小西なら引っ越しましたよ」
 吐き捨てるような台詞だった。堂島が何か言いたげに孝介を見た。その視線に気付いた孝介は一度気まずそうに目を落とし、それから何事もなかったかのようにテーブルの上の料理を見渡した。
「息子が一人居て――まぁ俺の後輩なんですけど、そいつが県外の会社に就職したんです。研究職みたいなことやってて、向こうで知り合った子と結婚した時に両親呼び寄せたんですよ。確かあっちで店開いてる筈です」
「……そうなんだ……」
「墓はこっちに残してるみたいですけどね」
「今日行ってきた」
 堂島が言って、ビールの缶を差し出してくる。足立はあわててグラスを持ち上げ、少しだけ飲んだ。
「うちに来る前に寄って、線香上げてきたよ」
「……ふうん」
 テーブルに沈黙が落ちた。戻ってきた菜々子が戸惑ったように面々を見渡している。何か言わなくてはいけない気がしていたが、何をどう言えばいいのかが全くわからなかった。ぐずぐずしているうちに、堂島が先に沈黙を破った。
「明日、俺が車で送っていってやる。なにか買っていった方がいいものとかあるか?」
「一応揃えておいたから大丈夫だと思う。足りなければ向こうで買ってもいいし」
「そうか」
「――あ、あの」
 そうしようと思っていないのに、どういうわけかやたらと孝介を凝視してしまう。その視線に気付くと、孝介は一度目をそらせてからまたこっちを見た。前髪の陰からそっと覗くように。
「なんですか」
「その……いいのかな。僕が行くと狭くなるんじゃ……」
 孝介は、ああ、と言って首を振った。
「ちょっと前まで友達と一緒に住んでたんですけど、半年くらい前にそいつが出てったんです。元々ひと部屋空いてるから、足立さん一人くらいなら大丈夫ですよ」
「そうなんだ」
「……別に、ずっと居ろとは言いませんから」
「え?」
 孝介はもうこっちを見ていなかった。言いながら箸でサラダの残りを掻き集めている。
「足立さんが金貯めて出ていきたいっていうんなら好きにしてください。俺も、まぁ先々どうなるかわからないし」
「……そうだね」
 東京に本社があって元々そこに居たというのなら、呼び戻される可能性もある。恋人が居るのなら、たまには部屋へ呼んでのんびりしたい時もあるだろう。
 とにかく忘れてはいけないことがひとつだけ出来た。昔も今も、自分はただの厄介者なんだ。
「ね、お寿司だけでいいから片付けちゃおうよ。この時期、生もの残すの怖いから。――ホラ、足立さん、もっと食べて」
 場の空気を入れ替えるように菜々子が明るい声を出した。そうして、お前の役目とばかりに寿司桶をぐいぐい押しつけてくる。それを脇から押さえつけたのは孝介だった。
「ちょっと待て。お兄ちゃんまだ満足してないんだから」
「お兄ちゃんは最近食べ過ぎだよ。夏なのに太ったとか言ってたでしょ」
「ストレスのせいですかねぇ。口うるさい妹が野菜食えだの酒減らせだのやかましいから」
「ムカつく!」
 菜々子に背中を叩かれて孝介は大仰な悲鳴をあげた。初めて堂島が楽しそうに笑った。


 居間に用意してもらった布団のなかで足立は寝返りを繰り返している。刑務所で使っていたものとは比べ物にならないほど柔らかな布団で、それが却って落ち着かない。
 淡いオレンジ色の光のなかで仰向けになり、ぼんやりと天井を見上げた。ちょうど頭上に孝介の部屋がある。今日は泊まっていくとのことで、たらふく食べて飲んだあと、風呂に入ってさっさと部屋へ行ってしまった。
 明日から一緒に暮らすことになる。その実感も、当然なかった。
 ――たまたま、かな。
 こうなったのは偶然だと足立は思い込もうとしていた。新たに部屋を借りるにはまとまった金が必要になる。堂島には今日だけで随分金を使わせてしまった。働き口まで紹介してもらって、これ以上贅沢など言えるわけがない。
 雨風をしのげるだけでも充分だ。それに、ずっとそこに居なくてもいいと孝介は言っていた。しばらく働いて、なんとか金を貯めて、そうしたら出ていけばいい。孝介だって共同生活を望んでいるわけがない。
 だって、どんな顔をすればいい?
 なんて言って謝ればいい?
 死人に対しては、ある意味詫びればそれで済む。申し訳なかったと何千回、何万回も繰り返すしか方法はない。だけど孝介は違う。あんなことがあって、事実を知って、それでも自分を追い掛けてきた相手だ。土下座するとか、好きなだけ殴ってもらうとか、そんな程度で収まる筈がない。
 それに、孝介だけじゃない。堂島にも、菜々子にも、生田目にも、遺族にも、自分の親兄弟にも、元同僚や元上司たちにも、不安に陥れた町の人たちにも。全ての人に許してもらう方法なんてありはしないのだ。そんなことを叶えようとしたら、命が幾つあっても足りやしない。
 ――なんだ。
 ふと口から乾いた笑いが洩れた。――なんだ、やっぱり終わってなかったんじゃないか。
 ここは「自由」という名の牢獄だ。出たと思ってたけど、場所を移されただけだったんだ。なるほど、それなら実感も湧かないよね。
 天井をみつめていた足立はそろりと起き上がった。部屋の隅に大きな液晶テレビがある。布団を出て、物音を立てないようそろそろと四つん這いでテレビに近付いた。今電源は落とされ、真っ暗な画面がわずかな光を頼りにうっすらと部屋の様子を映し出している。
 顔を近付けると、自分の形に影が濃くなった。光のなかから抜き取られたカラッポの自分がテレビのなかにある。
 足立はゆっくりと手を上げた。無駄と知りながらも、そっと指を近付けていく。
 かつん。
 爪が当たる音がした。硬いガラスが足立を拒んだ。

なんでかなぁ・その1/2012.02.10


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