「どうした」
 堂島の声で我に返った。心配するような眼差しに耐えられず、足立はいいえと首を振り、麦茶を飲んだ。それから買い物袋を探って着替えを取り出すと、あらためて頭を下げた。
「じゃあ、あの、……お風呂、お先にいただきます」
「おう。ゆっくりつかってこい」
「あ、汚れ物あったらカゴに入れておいてください」
 聞き馴れない声にどうしても反応してしまう。足立は台所へ振り返り、振り返った自分を不思議そうに見る女性をみつめ、あれは菜々子という名の女の子なんだと自分に言い聞かせた。ぺこりと頭を下げると、向こうもまた不思議そうにうなずき返してくれた。そのまま足立は逃げるように脱衣所へ向かった。
 後ろ手に扉を閉めてため息をつく。タオルと着替えを洗濯機の上に置き、のろのろとシャツのボタンを外す。
 ――やっていけるのかな。
 自由の身になれたのだという実感が全然湧いてこない。
 堂島の車に乗って、稲羽市までの長い距離を走った。その途中にある量販店で当座の着替えやら必要品やらを買い込んできたのだが、足立は店のなかに五分と居られなかった。効き過ぎた冷房も、賑やかしの音楽も甲高い子供たちの声も、これまでの生活にはなかったものだ。騒がしさと溢れるほどの色彩に耐えられず、結局買い物は堂島に任せ、駐車場の隅にあるベンチの上でずっとうずくまっていた。
 戻ってきた堂島は最初呆れたような顔をしてみせたが、すぐ真顔に戻り、自販機でスポーツドリンクを買ってきてくれた。そうして並んでベンチに座り、広い駐車場を車が出たり入ったりする様を、しばらくのあいだ二人で眺めていた。
『すぐ馴れるだろ』
『……』
 昔、自分がどんな風に町を歩いていたのかが思い出せない。稲羽市に初めて足を踏み入れた時、なんて田舎なんだろうと思った筈の自分が、まるで夢のように感じられる。
 出てきたばかりなのに塀の内側が恋しかった。あそこではなにも迷う必要がなかった。服装も髪型も、一日の行動も全部決まっていた。皆が使う道具は全部同じ形をしていた。
 自由が重くてたまらない。
『僕、どうやって生活してたんですかね』
『俺が知るかよ。ま、しょっちゅうジュネスに行ってるような話は聞いてたがな』
『……ホントにそうやって生きてたのかな』
 見知らぬ他人の話みたいだった。
 今日一日でこんな調子なのに、新しい住居に移ったあかつきには一体どうなるんだろう。足立は不安と共にお湯をかぶった。手早く頭と体を洗って湯船につかる。そうして落ち着いた時、胸の奥から湧き出たものは、不安が塊になったため息だけだった。
 新しい住居については夜に説明するとだけ言われている。堂島の知人と一緒に暮らすことになるらしいが、詳しいことはまだ教えてもらっていない。だがどこへ行くことになるのだとしても、今感じるのは恐怖だけだ。
 一体なにを目指して生きろというんだろう。
 刑期を勤め上げたことで法律的には良しとされた。だが勿論死んだ人間が生き返るわけじゃない。過去がやり直せるわけでもない。親兄弟からは絶縁され、数少なかった友人たちとも連絡を取る手段がなくなった。身元引受人になったせいで堂島も立場を悪くした筈だ。これ以上自分が生きていて、一体なんの意味がある?
「……」
 足立の目はシャンプーなどが並べられた小さな棚の辺りをうろうろしている。さっき石鹸を探した時に剃刀をみつけていた。でもあれじゃ駄目だ、もっと刃が出ているヤツじゃないと。それに、ここだと最期まで迷惑を掛けることになる。どこか他の場所、誰にもみつからない場所――そうだ、山にでも入ればいい。簡単じゃないか。
 天井から落ちてきた滴が水面に当たった。その音で足立は我に返った。棚から目をそらせ、湯のなかに突っ込んだ手の平を意味もなく見下ろして、ホントに死ぬ気なのかなと他人事のように考えた。
 本気で死にたいと思うわけではない気がする。ただ先のことを考えるととにかく不安で、どこかへ逃げ出したいと思ってしまう。
 不意に磨りガラスの向こうで電話が鳴った。菜々子の声が何事かを答えている。その声を聞きながら足立は、ともかく邪魔だけはしちゃいけないな、と思った。
 堂島にも菜々子にも仕事があり、二人の生活がある。これ以上自分というお荷物を抱えさせるわけにはいかない。安心させることが出来るかどうかはわからないが、なにか仕事を探して日々をつましく生きる、とにかくそれだけを考えてやってみよう。
 夢も望みも今はいらない。どうせそんなもの、最初から持ってないんだから。
「……っ」
 突然に込み上げてきた嗚咽を隠す為に、足立はあわてて顔にお湯を掛けた。誤ってお湯を飲み込んでしまい、変なところに入って咳き込んだ。そうやって咳き込むフリで自分を誤魔化しながら、ちょっとのあいだだけ静かに泣いた。


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