授業終了のチャイムが鳴るのは苦痛だった。四時間目が終わる時は特にそうだ。孝介は教科書やノートを仕舞いながら、今日はなんて言い訳をしようかと考え続けていた。
「相棒。今日天気いいし、屋上行ってメシ食わね?」
 後ろの席から陽介が声を掛けてくる。返事はひと呼吸だけ遅れた。
「ごめん。今日は用事があって、ちょっと図書室行かないといけないんだ」
「マジで? じゃあ先行って食ってるからさ、終わったら来いよ」
「うん……」
 途中まで一緒に行くと言って、陽介は弁当を手に立ち上がった。
 廊下にはざわめきがあふれていた。授業と授業の合間のこの時間は、生徒たちにとっては解放のひと時だ。あちこちで楽しそうに笑う声や大きな話し声が聞こえてくる。だが今の孝介にとっては辛いものでしかなかった。
 菜々子がさらわれて以来、何を食べても紙の味しかしない。腹が減ったと認識することは出来ても、何を腹に入れればいいのかがわからない。食わなければ体力が落ちる、体力が落ちたら戦えない、その義務感だけでここ数日は過ごしていた。
「ちょっと遅くなるかも知れないから、俺のことは気にしなくていいよ」
 階段で別れる時、孝介は言った。何故か返事はひと呼吸だけ遅かった。
「月森」
 声に足を止めて振り返ると、陽介は階段の手すりから身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。
「お前、ちゃんとメシ食ってんのか?」
「――食べてるよ」
「夜は? 寝てる?」
「なんだよ、急に」
 陽介は困ったようにがりがりと頭を掻いた。
「あのさ、悪い想像ばっかすんなよ」
 菜々子のことを言っているのはわかった。孝介は誤魔化そうとして口にしかけた言葉を呑んだ。
「俺たちならやれるよ。絶対大丈夫だから」
 ――死ねばいいのに。
 笑いたくないのに口元が笑っていた。孝介は恐らく笑っているであろうその顔で、ありがとうと陽介に返した。一旦言葉を続けようとした相棒だったが、その表情で安心したのだろうか、「じゃあな」と手を上げるとそのまま階段を昇っていった。
 その後ろ姿を見送ってから、孝介は用のない図書室に足を向けた。
 ――死ねばいいのに。
 みんな、ただでさえ菜々子のことで気をもんでいるこの時に、なんで俺は余計な心配なんかさせるんだろうか。俺が折れたらおしまいだ。そんなのはわかっていた筈じゃないか。
 昼休みに入ったばかりの図書室には係の人間の姿もなかった。無人の図書室に足を踏み入れた孝介は、怪訝に思われないよう、何かを探している素振りで棚と棚のあいだをゆっくりと歩き始めた。
 ここ何日か、なるべく仲間と顔を合わせないようにする為に、休み時間はずっと逃げ回っていた。下手に気を遣われると余計に辛くなる。仲間の不安そうな表情や、言葉に出来ない暗い気持ちが、なんとかしなければという焦りに変わる。焦りは日常を狂わせる。不安は恐怖を増幅する。そしてまたそれが仲間に伝わり、彼らを不安にさせ、そして自分へと戻ってくる。
 堂々巡りだ。
 終わらせるしかない。それはわかっているが、自分たちの実力を無視して安易に進められることでもなかった。下手をしたら怪我では済まなくなる可能性もある。
 孝介は無意識のうちに右の二の腕をさすっていた。歴史に関する書籍の前で足を止め、題名を眺めるフリをするが、文字などひとつも頭に入っていなかった。
 足立に会いたかった。昨日作ったアザを見せて、バカだなぁと叱って欲しかった。それを出来なくしたのは自分だ。あの日忘れた傘は未だに彼のアパートにある。連絡なんて出来る筈がなかった。訪ねていく勇気なんて欠片もなかった。この不安と恐怖は自分だけで解決しなければいけない。仲間に気を遣わせている場合じゃないのに。
 その日の夜遅く堂島家へ帰り着いた孝介は、全ての気力を失い、ソファーにだらしなく倒れ込んだ。疲労と緊張が体のなかで戦っているのがわかった。体は休息を欲しているが、頭のなかは妙に冴え渡っていて、このままでは眠れそうにない。
「風呂……」
 一旦体を起こした孝介だが、もう少しあとにしようと、代わりにお茶を淹れることにした。ポットの中身をヤカンに入れて火にかける。孝介は湯が沸くあいだ、台所のイスに座り込んでコンロの炎を眺めていた。
 ――あとちょっとだ。
 時折揺れる炎に向かって、孝介は胸のなかで呟いた。
 菜々子の救出も、やっと終点が見えてきた。恐らくあの扉の先に菜々子が、そして生田目が居る。本当なら行ってしまいたかったが、万全を期すべきだという直斗とりせの意見によって、今日はあきらめることにした。
 あわてることはない。孝介は何度も自分にそう繰り返した。霧が出るまでにはまだ余裕がある。焦って飛び込んで、万が一失敗したらどうなる。
 万が一菜々子が戻ってこれなくなったら。


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