「……なんでですか?」
 失望したような声が聞こえた。
「なんで、足立さんは――」
「帰りなよ」
「…………俺、そんなに信用ないですか?」
 煙を吐く音がやたらと大きく聞こえた。
「信用があるとかないとか、そういうことじゃないんだよ。……君に聞かせる話じゃないの」
「……」
 孝介は動かなかった。ベッドの上でわずかに身じろぎをしただけだ。ベッドがきしむ音、それから耳を澄ませれば、窓の外で降り続く雨の音が聞こえた。
 何を考えているんだろうと足立は思う。この雨は霧を運んでくるものじゃないと確信して、ただ煩わしいと思っているのか。
「ここんとこ、ずっと何か考えてますよね」
 不意に孝介がベッドを降りた。足立の脇に立ち、恐らくこっちを見下ろしている。足立は素知らぬフリで煙草の灰を叩き落とした。
「ずっと、何か悩んでる」
「……別に?」
 孝介は怒りを抑えるように深く息を吐いた。そうして、嘘だ、と呟いた。足立は前だけを見て煙草を吸い込んだ。絶対に振り向くまいと決めていた。孝介の姿を目に入れたら決心が鈍ってしまいそうで怖かった。
 嘘を暴くのはこんなにも簡単だ。知らないフリを続けることの方が百倍も千倍も難しい。
「俺、足立さんのことが知りたいんです。……教えてください」
 ため息の代わりに煙を吐き出して煙草を消した。
「それ聞いたら、僕のこと嫌いになるよ」
「なりません」
「なるよ。絶対」
 絶対にねと足立は繰り返した。
「……俺が聞いたらいけない話なんですか?」
 足立は両膝を抱え込んだ。どうやったらこの場を誤魔化せるのかをさっきから一生懸命考えているが、ちっとも妙案が思い付けなかった。じりじりと胃が焼けるような痛みが続いていた。緊張で吐きそうだった。そうやってまとまらない意識を持て余しながら、どうして誰もかれも簡単にあきらめてくれないんだろうとぼんやり考えた。堂島しかり、孝介しかりだ。犯人が誰だろうとどうだっていいじゃないか。
 結局あいつらは死んでしまった。
 誰が殺したのかなんて確認して、それでなんになるっていうんだ?
 膝に当てた自分の指がわずかに痙攣していることに気が付いた。それが恐怖による震えだと悟った瞬間、足立は本気で吐きそうになり、あわてて口を押さえた。
 何故こんなみっともない姿を晒さなければいけないのだろうか。自分だって好きで嘘をついているわけじゃない、好きで知らないフリを続けているわけじゃない。でも今のままなら、少なくとも憎まれずに済む。呆れられ、離れていかれるかも知れないが、憎悪の眼差しを向けられるよりはずっといい。
「足立さん」
「…………やだ」
 君の怪我は僕のせいだ。
 僕が全部始めたんだ。
 なんで今更そんなことが言えると思う?
「言ったら嫌われる」
「……そんなことありませんよ」
「やだ」
「足立さん――」
「うるさいなぁ!」
 ヒステリックな叫び声が静かな部屋に響いた。いい歳をした大人がみっともないとか、子供相手にだらしないとか、そんな体裁を気にしていられる余裕はなかった。足立はうつむいて顔を隠し、ごめんと呟くので精一杯だった。
「……今日は帰って」
 しばらくののちに、おやすみなさいと言い残して孝介は去っていった。ドアが閉められたあとも足立はなかなか顔を上げることが出来なかった。
 うつむいて頭を抱えながら、結局いつかはこうなる筈だったんだと何度も自分に言い聞かせていた。出会った時にはわからなかったが、今思えば全てが当然の成り行きだった。
 孝介たちが補導されたのは、あの日天城雪子を助けようとしたからだ。天城雪子が誘拐されたのは自分が生田目を焚き付けたからだ。生田目が自分の言葉にそそのかされたのは、山野真由美と小西早紀が死んでしまったからだ。
 あの二人が死んだのはテレビに入れられたからだ。
 あの二人をテレビに入れたのは僕だ。
 全部僕が始めたことだ。僕が一番汚いに決まっている。地底の泥のなかから見上げた君があんなに綺麗に見えるなんて知らなかった。でも今思えば君が綺麗なのは当たり前なんだ、だって僕が一番汚い人間だから。
 誰かが事件の真相を追い掛けていることには気付いていた。誘拐された人物が全員無事に戻ってきていたから。でもまさか君がそうだなんて思わなかった。よりによって君が。
「バカじゃないの……っ」
 吐き捨てるように言って、笑おうとして、果たせなかった。こらえていた涙が次から次へと溢れて止まらなくなった。もう終わりだ。あんなに全身で向かってきてくれた彼を拒絶して、これまでどおりの日々を続けられるわけがない。
 本音を言えば白状してしまいたかった。君が文字通り傷だらけになって追い掛けている犯人を知っている。君がよく知る人物だ。もうそんな辛い目に遭わなくていいんだよ――。でもそんなこと言えるわけがない。
 たとえ呆れられて離れていってしまうのだとしても、憎悪の眼差しを向けられるよりはずっとましだ。君に憎まれるくらいなら嫌われてもいい、嘘をつき続けることを僕は選ぶ。
 泥や嘘にまみれた僕にとって、君は絶対の光だった。
「馬鹿野郎……!」
 足立は泣いた。うずくまり、何かに許しを請うように身を震わせながら長いあいだ泣いた。けれど誰も許してなどくれなかった。彼はこれまでそうだったように、そしてこれからもそうであるように、彼の世界で一番汚く、矮小な存在だった。
 その彼は願う。――どうかあの子がこれ以上怪我をしませんように。どうかこれ以上辛い目に遭いませんように、と。
 いつもいつも心配している。
 君のことを。君の無事を。
 そして君の嘘が僕にはばれていないという嘘が、どうかいつまでもばれませんように、と。

世界で一番・その3/2014.02.23


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