外階段を駆け上がり、息を整えながら呼び鈴を押した。青いドアの二○二号室。左右は空き部屋だと聞いている。続けざまにもう一度呼び鈴を鳴らして、更にドアを叩いた。
「…………はい」
ひと月振りに聞く足立の声が、ドアの向こう側で静かに答えた。
「俺です、月森です。開けてください」
「……なんの用?」
「いいからっ」
イライラと吐き捨てる。少しの間の後、渋々といった感じで鍵が外され、ドアが開いた。孝介は足立を押しのけるようにして玄関に入り込み、ドアを閉めた。ポケットから金を引っ張り出して奴の胸元に突き付ける。
「落し物です。届けに来ました」
「……」
部屋着姿の足立は困惑一心という顔でこちらをみつめている。やがてがりがりと頭を掻き、いかにも面倒臭いなぁという表情を作ってみせた。
「……僕、生活課じゃないし、第一今非番だし……」
「あんたの金だろ。受け取れよ」
「……」
「ずっと拾っといてやったんだ。あんたの金だ、受け取れよ!」
足立は目をそらせたまま呟いた。
「君にあげたんだから、君のものだ」
「――誰が欲しいって言ったよ!?」
足立は逃げるように奥へと向かった。孝介は靴を脱いであとを追った。足立はベッドに寄り掛かるようにして腰を下ろし、相変わらず目を合わせないまま煙草に手を伸ばして火を付けた。その手がわずかに震えているのを、孝介は見逃さなかった。
「……何しに来たの」
吐き出した煙は扇風機の風に煽られてあっという間に消えてしまう。すぐ側にあった雑誌を遠くに放り投げ、脱ぎ散らかしたワイシャツも同じように放り投げ、足立はとにかくこちらを向くまいと必死になって手にする何かを探している。
「なんで電話くれなかったんですか」
「……」
「叔父さんからの電話には出るクセに、俺の電話は無視するんですね」
「……仕事だからしょうがないでしょ。そんな、しょっちゅう君に付き合ってられるほど暇じゃないんだよ」
「今日は家に居たのに? 電話の一本も出来ないんですか。刑事って大変なんですね」
「……」
煙を吐き出した足立は灰を叩き落とし、あきらめの表情と共に振り向いた。
「……何しに来たのさ」
迷惑だけではない何かがそこにある。それがわかってしまうから、孝介も言葉がみつからない。
「……俺だって訊きたいですよ」
終わらせたかったのか。そもそも始まっていたのか。自分たちは一体何をしていたのか。何がそこにあったのか。
「俺だってこんな恨み言、言いたくないですよ……っ」
足立が好きだった。足立に会いたかった。足立の声が聞きたかった。それだけなのに。
札を握り締める手が震えた。足立はまだ長い煙草を消した。わずかに紫煙の立ち昇る灰皿を押し遣って、膝を抱える恰好でうつむき、ため息をつく。
「電話は、ごめん。わざと無視した」
「……」
わかってはいたが、実際に言われるとさすがにきつかった。
「電話来るたびに、言わなきゃ言わなきゃって思ってたんだけど、勇気が出なくってさ。……でも来てくれてちょうどよかった。手間が省けたよ」
淡々と語る足立の横顔を見て、孝介は血の気が引いていくのを感じた。予想していた最悪の事態だ。半ばそれを期待していた筈なのに、いざ現実になると足から力が抜けるようだった。
「もういいよね。終わりにしようよ。君も結構いいお小遣い稼げたでしょ? あんまり付きまとわれても迷惑だしさ、そろそろ――」
「……本気なんですか」
壁に寄り掛かって体を支えた。気を抜いたら呆気なくへたり込んでしまいそうだった。足立は顔を上げて手元を眺め、しばらくのあいだ言葉を探していた。何度か口を開けて喋ろうとし、だけどそのつど言葉が出なくて、またうつむいた。
「君は汚れちゃ駄目だ」
「……」
「僕なんかと一緒に居たって嫌なものしか見れないよ。だから」
鼻で笑っていた。半ばキレかけていたと思う。
「ふざけんな」
声に足立が振り向いた。怯えたような眼差しだったが、視線をそらされることはなかった。
「何が綺麗だ。何が『汚れちゃ駄目だ』だ。あんたが俺の何を知ってるんだよ」
「――君は綺麗だよ」
「うるさいっ!」
腹が立つ。
足立はじっとこちらを見上げている。その目に何が見えているのかとっくりと訊きたかった。あんたの目玉は節穴だと百万回でも繰り返したかった。結局俺は何も出来なかった。助けられたかも知れない人間一人を見殺しにして、それでいて犯人を追い詰めているとうぬぼれていたただのバカだ。
何が綺麗だ。
何が汚れちゃ駄目だ、だ。俺はただの役立たずだ。
「嫌なものならとうに見てますよ。金をやるから好きにさせろ、なんて馬鹿げたことを言う汚い大人が目の前に居やがる。……俺が嫌がりましたか? 喜んで金受け取っただろ? 嫌なら帰ればいいって言われたけど帰らなかっただろ!?」
「君は――」
「俺はそういう奴だよ、俺が綺麗ならあんただって綺麗だ、俺とあんたは同類なんだよ……!!」
握っていた札を投げつけた。紙幣は扇風機の風に乗ってばらばらと広がり、脱ぎ散らかしたシャツの上に、汚れたテーブルの上に、ベッドの上にと舞い落ちた。
孝介は息を切らせながら足立を睨み続けた。目を見開いていないと今にも泣いてしまいそうだった。足立は茫漠とした目でこちらを見上げている。その目には一体何が見えているんだ。なんで誰も俺を責めないんだ。八つ当たりなのは充分わかっていた。でも今欲しいのは慰めじゃない、誰かが自分を罰してくれることだ。
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