陽介はそっと目をそらせると木の脇を抜けて獣道まで戻っていった。必要以上に息をひそめながら石段までの道を早足でたどる。手すりにしがみつくようにして一歩一歩確実に石段を下りていったが、ふと、どこまで下りても終わらないんじゃないかと恐ろしいことを想像してしまい、いやそんな筈はない、確か登る時だってそんなに時間は掛からなかった筈だ、もうじき終わる、ってか終わるよな? いや終わってちょうだいお願いだからと半泣きになりつつ終点を目指した。
 林が途切れてアスファルトが見えた時は、本気であの世から戻ってきたような気分だった。
「あいぼおおおぉぉぉ!!!」
 孝介は柵の前で地面に腰を下ろし、飽きもせずに山をみつめている。
「ちょ、聞いて聞いて! 俺すっげぇモン」
 孝介は泣いていた。
 自分が戻ったことに気付いてあわてて涙を拭ったが、それでも止められない涙が次から次へと溢れ、何かを言いかけた口がしゃくり上げた時、観念したように両手で頭を抱え込んで、また泣いた。
「おい――」
「いつか話す」
 そう言った直後に、またしゃくり上げる声が聞こえた。
「今は無理……っ」
 そうして、何が腹立たしいのか自分の頭をゆっくりと殴りつけ、しゃくり上げてはこらえきれない嗚咽を洩らした。陽介は茫然と立ち尽くしたままその姿を見下ろしていた。両腕で頭を抱え込んだ孝介は、まるでこの世から消えてしまおうとしているみたいに見えた。一人ではしゃいでいた自分が急に恥ずかしくなってきた。
「……いいよ、別に」
 陽介は手すりの支柱に背を預けるようにして座り込んだ。
「無理に聞かねぇよ」
 しゃくり上げる声が返事だった。
 それから長い時間、孝介は泣き続けた。陽介は膝を両手で抱え込み、時にあぐらを掻き、組み合わせた自分の手や道路の向かい側にある石段や、それを取り囲む林に目を向けた。日の光に目を細め、どこからか聞こえる鳥の鳴き声に耳を澄ませ、ごく稀に通り過ぎる車の姿を目だけで追った。どういうわけかつられて泣きそうになり、実際わずかにだが涙をにじませ、気付かれないよう指で拭ってから深く息を吐いた。
 ――ちくしょう。
 無力な自分が腹立たしかった。こうなることをちらりとも予想していなかった、愚かな自分が憎くてたまらなかった。親友が傷付いていることにも気付かず、ただ毎日呑気に笑っていた自分。あぁ、クソ。
 もう一度深く息を吐いた時、我慢していた筈なのに、目の端から涙が落ちた。孝介の慟哭は胸の奥を深くえぐり、忘れようとしていた傷の在り処を目の前に突き付けてくる。しかもその傷を埋めるものは何もなく、癒せるものはどこにもない。親友の背中は一切の慰めを拒んでいる。陽介に出来るのは、ただ側に居ることだけだ。
 いつ終わるとも知れないその嘆きを、自分のもののように感じるだけだ。


 気が付くと日が暮れかかっていた。西に傾き始めた太陽が雲に影を生み出している。吹き付ける風が肌寒く感じられて、風邪引かねぇかなと心配になって振り向くと、孝介は体を起こしてぼんやりと遠くの景色を眺めていた。
 少し前から泣き声がやんでいたのには気付いていた。小さな嗚咽がしばらく続き、何度か咳き込んだあと、座り直す音が最後だった。孝介は今あぐらを掻き、力の抜けた顔で途方に暮れている。陽介の視線に気付いて振り返ったが、その目は何も見ていないようだった。やがて泣きはらした真っ赤な目を静かに伏せ、また山の向こうをぼんやりとみつめた。
「……腹減った」
 それが最初の言葉だった。陽介は苦笑して立ち上がった。
「愛家でも寄ってくか?」
「うん」
 脇に立つと孝介は一度こっちを見上げ、それから手すりに掴まってのろのろと立ち上がった。そのまま身を乗り出すようにしてまた遠くを眺め、陽の陰り始めた空を名残惜しそうにみつめた。
「……星がすごく綺麗なんだよ、ここ」
「へえ」
「俺、流れ星なんか初めて見たなぁ」
 誘うように一歩を踏み出したが、孝介は動かなかった。再び足を止めて振り返った時、泣きはらした目がためらいがちにこっちを向いた。
「ありがとな」
 陽介は返事に困って頭を掻いた。そうして自転車にまたがり、後ろの方を相棒に向けながら言った。
「またチャリ使いたくなったら言えよ。いつでも貸してやるからさ」
「うん」
「…………その、俺で良けりゃいつでも付き合うからさ」
 一人で泣くなよ。
「……」
 言った瞬間に後悔していた。人生ってのは恥の積み重ねなんだろうか。そう思った時、孝介の声が背中にぶつかってきた。
「陽介、かっこいい」
「茶化すな、アホ!」
 振り返ると孝介はにまにま笑っている。陽介は腹立たしくてたまらず、一人でさっさと走り出した。
「ちょ、置いてくなよ!」
「うるせえ! 一人でのんびり歩いて帰ってこい!」
「俺死んじゃうって!」
 道が下り始めるところで自転車を止めた。後ろから孝介がとぼとぼと歩いてくる。
「も、陽介最悪だな。俺マジで腹減ってるのに」
「泣き過ぎなんだよ」
 孝介が後ろに乗ったことを確認すると、陽介は地面を蹴った。自転車はなだらかな傾斜に沿って滑るように走り始めた。しばらくすると、左の方を見ろと孝介が言う。一部分だけ林が途切れて町が見下ろせるのだそうだ。
 言われたとおりに見ていると、木々の合間に町が姿を現した。黄昏のなかで所々、街灯や家の灯りがきらめいていた。遠目で見ると畑や田んぼがあちこちにあるのがよくわかる。田舎で、野暮ったくて、大っ嫌いだった町。
 でも今は、大事な家族や仲間や、親友と共に暮らす大切な場所だ。その町が今、黄昏のなかで今日を終えようとしている。また新しい明日を迎える為に。

それも俺だ/2012.01.09


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