「菜々子が弁当を持っていきたいって言ったんです」
空は段々と白み始めている。夜明けが近いようだ。辺りが明るくなるのにつれて、ぼんやりとしか見えなかった足元の景色もはっきりとし出した。整地はされていないが、歩きやすいよう大きな石をどけた、なだらかな山道。それがどこまでも続いている。足立は彼の手を握り直して、お弁当? と訊き返した。
「おかずはなにが入るのかな」
「なにがいいんですかね。足立さんだったらなに入れます?」
「んー、とりあえず唐揚げと玉子焼きは欲しいなあ。あとウインナー」
あとはどうでもいいやと言うと、彼が笑った。
「定番ですね」
「だって、ほかに思い付かないし」
「野菜ももうちょっと取りましょうよ」
冷たい風が吹き付けた。足立は背広の下で身震いをし、今更のように白い息を吐いている自分に気付く。隣を見ると、彼は相変わらず学生服の前を開けて片手をポケットに突っ込み、それで平気そうな顔をしていた。若いと寒さが気にならないのだろうか。十年前の自分はどうだったんだろう。どういうわけか思い出せない。
「野菜って、たとえば?」
彼の腕に寄り添って歩きながら足立は訊いた。服を介して、わずかな温もりが伝わってくる気がする。
「たとえば、煮物とか。サラダとか」
「……どうでもいいかなあ」
「栄養バランスってものがあるじゃないですか」
気を付けないとあっという間に成人病ですよ。揶揄する彼の言葉は、聞こえないフリで誤魔化した。
空を覆っていた雲はどこかへと流れ、わずかに残った塊が、朝日を受けて輝いている。しかし今朝は清々しい夜明け、というわけにはいかないようだ。陽光を受けた雲はオレンジ色に燃え、手前の光が届きにくいところは不気味な紫色に焼けている。確か朝焼けが綺麗な日は雨が降るんじゃなかったっけ。そんなことを思いながら空を眺めていると、あちこちに似たような色の雲が浮かんでいるのをみつけた。
これまでのことをわざと忘れて空だけ見ていると、今が夜明け前なのか、はたまた夕暮れを迎えつつある時なのか、わからなくなる。
「足立さん?」
手を引かれて振り向いた。彼が不思議そうにこっちを見ている。
「どうしたんですか」
「――別に」
そっと笑いかけて手を握り直した。
「結局お弁当にはなに入れたの?」
「それが」
彼は一瞬だけ言葉を詰まらせた。躊躇のわけは知っていた。だが足立はおとなしく言葉を待った。
「叔父さんに仕事が入っちゃって、結局旅行には行けなかったんですよ。だから弁当も作ってないんです」
「そっか」
彼が身を寄せてきた。振り向くと、気落ちしたような表情でぼんやりと前をみつめている。
「残念だったね」
「……菜々子が淋しがっちゃって」
入院中の従妹のことを思い出したようだ。危険な状態からは持ち直したとはいえ、まだ退院の目処は立っていない。
しばらく二人とも無言で歩いた。足立は空をゆっくりと流れる雲をみつめたあと、山裾に沈みつつある大きな月へと目を動かした。不気味なほど真っ赤に輝くまん丸の月は、明るくなり始めた空に浮かんだ大きな目玉のように見えた。誰かがあの穴を通して自分たちを観察している、――何故かそんな風に感じられる。
だけど足立は恐ろしいとは思わなかった。見るなら見ろ、と、何者に向けてかは自分でもわからないまま、心の内で語りかけている。どう足掻いたって、間もなく夜は明ける。朝がやって来る。自分の手のなかには彼があって、空気は気持ちよく冷え切っていて、歩き続けた疲労感が心地よく全身に広がっている。間もなく高台にたどり着く筈だ。もう少しでこの旅も終わる。
「寒くない?」
「平気です」
彼は笑って首を振った。足立さんこそ寒くないんですかと、からかい気味に訊き返してくる。
「大丈夫だよ」
足立はわざとらしくムッとした顔をしてみせて彼の手を引いた。すたすたと早足で先に進むと、おかしそうな彼の笑い声が背中から追い掛けてきた。
「もうちょっと行ったら、少し休もう」
「はい」
足立は歩調を緩め、彼が並ぶのを待つ。鳥のさえずりも聞こえない、静かな朝だ。
next
top