雨が降り始めたのはアパートに帰り着く一歩手前のところだった。
外階段の下に佇む孝介は、駆け寄ってくる足音が足立のものだと気付くと嬉しそうに手を上げ、
「お帰りなさい」
そう言って満面の笑みを見せた。まるで雨に濡れながらも健気に主人の帰りを待つ子犬のようだ。足立は勢いを殺さぬまま外階段の下へと駆け込んで孝介の体を抱き締めた。
「ただいまー!」
「ちょ、足立さん、ここ外だから!」
キスをねだる顔を懸命に押し戻され、足立は渋々腕を離した。そんな二人の戯れを嘲笑うかのように一度大きく風が吹き、続いて暗雲のなかに閃光が走った。雷鳴がほぼ同時に鳴り響き、音のさなかで再び空が激しく光る。
「凄いね、こりゃ」
首をすくめた足立は孝介の手を取って階段を目指した。
アパートの通路には落下を防ぐ為の鉄柵が付いているだけだから、雨も風も容赦なく吹き付けてくる。足立は鍵を開けて部屋の扉を開け、孝介を先に玄関へと放り込み、吹き付けてきた突風に押し遣られるようにして自らもそこへ飛び込んだ。
風に押された扉が物凄い勢いでバタンと閉まる。二人は薄暗い玄関で顔を見合わせたまま、しばらく無言で息をついていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって。濡れなかった?」
「俺は平気です。足立さんは少し降られちゃいましたね」
孝介はそう言って足立の髪を梳いた。じっと見ていると、彼は視線に気付いて目をそむけ、恐る恐るといった風に手を引っ込めた。
「……背広乾かさないと、皺になりますよ」
「じゃあ脱がして」
耳元での囁き声に、孝介はぴくりと身を震わせた。しばらく返事はなかった。
やがて戸惑いの目で振り返った彼は、言葉の真意を確かめるようにじっとみつめてきた。足立は、なに、と訊くみたいに首をかしげ、無言でにまにまと笑い続けた。
「……ハンガー貸してください」
孝介の手を取って一緒に部屋へと向かった。
窓の外では風が唸り声を上げ、大粒の雨が窓ガラスに叩き付けている。つい二十分前には空の片隅にあるとしか見えなかった真っ黒な雲が上空を覆い、それを切り裂くように立て続けに稲妻が走り、薄暗い足元を照らしてくれた。
「はい」
床に放ってあったハンガーを拾い上げて渡した。そのまま動かないのを見て、孝介は「本当にやらせる気なんですね」と苦笑を洩らした。
「当然」
足立はにっかりと笑って胸を張った。孝介は困ったように頭を掻くと、ハンガーを腕に引っ掛けて背広の襟に手を触れた。
「後ろ向いてください」
するすると上着を脱がされるあいだ、足立は窓の外をぼんやりとみつめていた。稲羽市に来て三ヶ月が過ぎたが、こんなに激しい夕立は初めてだった。鮫川とか凄いことになってるんだろうなと思うと妙にわくわくしてくる。
促されて振り向いた。背広を箪笥に仕舞った孝介は、一瞬ためらったあと手を伸ばしてネクタイに触れた。
「早く」
頬にキスをする。孝介はくすぐったそうに笑うばかりだ。
「早くしてってば」
「も……」
何かを言いかけた唇を塞ぐと、孝介は叱りつける目でこっちを見た。
「じっとしててください」
「はーい」
だがじっとなんてしてられない。すぐにまたちょっかいを出しては叱られ、懲りずに唇を奪い、自由を奪った。
「駄目ですよ」
もう一度。
「……駄目ですってば」
叱る声が少しずつ熱を帯びていく。
ネクタイを引き抜かれ、ワイシャツのボタンに手が掛かった時、真似をするみたいに孝介の首元に指を触れた。感触に誘われて孝介が目を上げた。
「早く」
ひとつボタンを外されるごとに同じくボタンを外していく。孝介にとって残念なのは、こっちはワイシャツも長袖で、そこにもきちんとボタンがあるということだった。
孝介が袖に取り掛かっているあいだ、ふと悪戯心が湧き上がり首筋に噛み付いた。その瞬間孝介の口からかすかな悲鳴がこぼれ、同時によろけた。あわてて支えてやり、寄り掛かってくる体をやんわりと押し遣った。押し戻す腕の力に、孝介が疑問の眼差しを投げかけてくる。
「大丈夫?」
自分以上に孝介の方が焦れてきているのはわかっていた。足立はにやにや笑いながら孝介と額を合わせ、早くしてよとわざとらしく急かした。
「足立さん――」
「脱がしてくれたところにさわってあげる」
孝介は熱いため息を吐いて再度袖を持ち上げた。馴れていないと、他人のはやり辛いものだ。
「まだ首だけだよ」
「……も、意地悪しないでくださいよ……っ」
「やーだ」
雨粒が風に飛ばされ、窓ガラスに当たって大きな音を立てた。唇を重ねると夢中で求めてきた。でもそれだけだ。足立はあっさりと身を引き、孝介の困惑顔ににたりと笑い返した。
駄目だ。「滅茶苦茶にしてやる」と約束したのだから。
なんとか袖のボタンを外し、毟り取るようにシャツを脱がされ、同じく脱がしながらきつく抱き合いキスを交わした。噛みつくように深く口を吸い、舌を絡め、互いの熱さを味わった。
ベッドに押し倒してのしかかる。孝介は夢見るような表情で手を伸ばし、頬に触れてきた。
「足立さん」
――なんだろう。
滅茶苦茶にしたいのと同じくらい、大事に大事にさわりたい。ひとつひとつの箇所全部に唇を触れて、自分のものだと世界中に宣言したい。
足立は孝介の前髪を掻き上げ、額にキスを落とした。こっちを見上げる瞳は既に恍惚に酔っている。
腕を引いて起き上がらせた。時刻は六時過ぎ。日が暮れるにはまだ早いが、空を覆い尽くしたカミナリ雲のせいで部屋のなかは薄暗い。そのせいだろうか。大粒の雨も吹き付ける風も、どこか遠い世界のことのように感じられた。秘密の隠れ家で二人きり、淫靡な遊びに今は夢中だ。
「ズボン脱がして」
もはやためらいはなかった。時折手元を確かめる以外、孝介はじっとこっちをみつめている。
「さわって欲しかったら全部脱がして」
欲望にまみれた熱っぽい瞳が、もっと言いつけてくれと懇願していた。下着を下ろした手が露わになったそれに触れた時、足立も同じように手を触れ、熱いため息がこぼれるのを見守った。あの時みたいだとぼんやり思った。恍惚にたゆたう瞳、羞恥に震えるまぶた、濡れて誘いかける唇。初めて孝介に触れた日。あの時はこんな想いを抱えるなんて想像もしていなかった。
「……足立さん」
名前を呼ばれるたびに欲望が強くなる。抱き付かれ、震える体を抱き返し、醒めた目で見返すたびに孝介の熱は上がっていく。口に出来ない欲求は熱いため息となって部屋を湿らせる。触れられるだけでは満足出来ないと潤んだ瞳が訴えかける。
「……も、早く……っ」
焦れて首を振る孝介の姿が閃光に浮かび上がり闇へと消えた。すすり泣きのような嬌声と熱い吐息に、だんだんと頭の奥が痺れて何も考えられなくなる。押し倒して身を開き、甘くて残酷な誘惑のなかに足立は沈んだ。
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