菜々子を見送ったあと振り返ると、足立はまだ川原で伸びていた。
「そうだ、気を付けないと頭打ちますよ」
「先に言ってよ……っ」
どうやら遅かったらしい。足立は側頭部をさすりながらようやく身を起こした。のろのろと立ち上がり、スーツに付いた土埃を払っている。孝介は斜面を途中まで下りて足立の差し出す段ボールを受け取った。
「なんかまあ、牧歌的でいいよね、こういうの」
さすが田舎って感じがするよと言って足立は斜面を上がってくる。その途中でなにかを踏み外したように、不意にバランスを崩して孝介の側へと倒れ込んできた。
「なんでこんなところに落とし穴が……っ」
見ると、右足が穴のようなものに刺さっていた。
「そういえばこの前、里中が作ってましたよ。カツアゲの犯人どもを捕まえるんだって言って」
「……そういうのは警察に任せて欲しいなあ」
苛立ちのこもった口調で言って足立は足を抜き、靴の泥を払い始めた。このあいだからもやもやとしたものを抱えていたので、内心かなりスッとした。
――ナイストラップ、里中。
孝介は思わずにやりと笑う。
「まあね、世の中バカな奴らが多いから仕方な――」
及び腰で斜面を上がり始めた足立は、再びなにかに足を取られてずっ転んだ。
「ああ、その辺りは菜々子が草結んでました。足引っ掛けるんだって言って」
「菜々子ちゃんまで……っ」
もはや満身創痍の足立はうずくまったまま泣き真似を始めた。いい気味、と孝介はほくそ笑んだ。
――ナイスアシスト、菜々子。
ふと視線に気付いて顔を向けると、足立が怒りのこもった目でこちらを睨み付けていた。よからぬ気配にあわてて足を引いたが一歩遅かった。伸ばした腕に片足を取られ、孝介は草むらのなかへとずっ転んだ。手にしていた段ボールはどこかへと飛んでいき、転んだ拍子に頭を打ってしまう。痛みに顔をしかめているあいだに、罠から足を抜いた足立がわざとらしく覆いかぶさってきた。
「君ね、友達は選んだ方がいいと思うよ。あと菜々子ちゃんに変な遊び教えないの」
「……田舎なんで、牧歌的なことしか出来ないんですよ」
「このお」
憎々しげに口元を歪ませると、左右から頭にこぶしを押し付けてくる。反撃しようとした時、伸ばした腕を取られもう片方の手で口をふさがれた。驚いて見ると、足立は草の陰に隠れるようにして土手の方をうかがっていた。孝介が上げた抗議のうなり声に驚いて腕から手を放し、自身の口の前へ人差し指を立てる。黙ってろ、ということらしい。
孝介は足立の視線を追って頭上へと意識を向けた。――遠くの方から怒鳴り声が聞こえてくる。
「おぅ足立ぃ! ……ったく、どこ行きやがったんだ、あいつは」
叔父の遼太郎の声だった。足立は怒鳴り声が聞こえると不意に身をちぢませ、うひゃあ、と言うように口を開いた。
しばらくして声が聞こえなくなると、安堵のため息と共にようやく手をどかしてくれた。
「なにサボってんですか。仕事してくださいよ、公務員」
「うわ、税金も払ってない癖になにを偉そうに」
そうして互いに睨み合っていたが、やがて足立は相好を崩し、おかしそうに吹き出した。つられて孝介も笑ってしまう。二人は少しのあいだ、声を抑えて笑い合った。それが収まると、不意に足立が身を預けてきた。
「まあ、たまにはいいじゃないの。毎日気合いなんか入れてらんないよ」
「……この前、ジュネスでもサボってませんでしたっけ」
「あれは休憩してただけ」
「手品セットはどうしたんですか」
「結構面白かったよ。子供だましだけどね」
今度来た時、教えてあげるよと言って足立は身を起こした。
そうして気が付くと真上から見下ろされていた。孝介は焦って視線をそらせた。草いきれにむせていると、顔の脇に手が置かれた。逃げ場を失った気分になって、恐る恐る上に向き直る。足立の手が前髪を掻き上げていった。
「なんで来てくんないの?」
孝介は返事が出来ない。
「ずっと待ってるんだけどな」
「……嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ」
親指が下唇をそっと撫でる。
奥歯を噛み締めた時、唇が重ねられた。こんなところでと思いながらも、孝介はそれをはねのけることが出来なかった。
久し振りにそこへ触れた他人の体温が心地よくてたまらない。すぐに離れていってしまうのが、淋しくて仕方ない。
唇を離したあと、足立はうかがうようにこちらを見下ろした。孝介は足立のずれたネクタイを目に留め、手を伸ばして直してやった。
「遊びに来てよ」
「……今度」
「今度って、いつ?」
孝介は困って目を上げる。足立はおかしそうに笑っていた。
そうして不意に身をもたげると、再び唇を重ねてきた。今度は舌が滑り込んでくる。
スーツの肩にしがみつく手を捕えられた。手首を握って土手の斜面に押し付けられる。唇が離れたあとも、その手は握られたままだった。
「まあいいや」
足立は軽く肩をすくめて身を起こした。
「もう行くよ。お仕事戻んなきゃね」
そうして孝介の手を握ったまま立ち上がり、ゆっくりと斜面を登っていく。孝介は手を伸ばして離れそうになる指に自分の指を絡ませた。だが互いに握り合うことはなく、足立もこちらへ振り返ることはしなかった。
草の上で横になったまま、孝介はぼんやりと空を見上げていた。しばらく動くことは出来なかった。
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