足立は唾を呑み込んだ。口のなかがカラカラに渇いていて、それは単純な行為なのにひどく難しいことに感じられた。
 ――もう一度?
 そうだよ、思い出せ。あの時、最高にワクワクしてただろ。あれが戻ってくるんだ。わかるか? 戻ってくるんだよ。
「――足立さん」
 軽く頬を叩かれて足立は我に返った。孝介はこちらに向き直り、膝立ちになって心配そうな顔を見せていた。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「……」
「……今、そんな顔だった?」
 孝介はうなずいた。足立は頭を掻いてうつむいた。
 ――ああ。
 そうか、隠し切れていたつもりだったけど、案外顔に出ていたのか。困って目を上げると、孝介は相変わらず不安そうにこっちをみつめていた。
「……たまに、足立さんが怖いんです」
 かすれた声の呟きに、だろうね、と足立は呟き返す。
「僕もだ」
 孝介を求める声、孝介を憎む声。そのどちらもが自分のなかに存在している。どっちが本当か、ではなく、どちらも同等の意義と比重を持って。
 今すぐ帰れ、という声が聞こえた。このままここに居続ける資格なんかお前にはない。だが足立は腕を伸ばしてしまう。誘うように手を広げると孝介が抱きついてきた。そのままごめんなさいと言うので、わけがわからなくて顔を上げた。
「なんか、嫌なこと思い出させちゃったんじゃ……」
 足立は小さく笑って首を振った。
「そんなんじゃないよ」
 孝介はまだ不安そうな目をしている。言ったことを後悔しているらしい。足立は手を上げて孝介の髪の毛を梳いた。なにか言いたそうな顔をしていたが、続く言葉はなかった。
 足立は腕を放して孝介の両手を握り直した。互いに向かい合って座り、握り合った手を床に置いて、額をくっつけた。
「まだ怖い?」
「今は、別に。……でも、たまに怖いって思う時があります」
 でも、と孝介は繰り返す。
「それも足立さんなんだな、って」
 ――君を一生騙し続ける僕を。
 孝介は顔を上げた。目が合うと、ぎこちなく笑ってみせる。足立は泣きたいような気持ちになり、あわてて目をそらせた。
 ――君を裏切り続けている僕を、どうか。
 頬の辺りに孝介の視線を感じた。ちらりと目を向けると、彼は不思議そうにこっちを見ていた。涙の浮かびかけた目を見られたくなくて、足立は再びそっぽを向いた。なのに孝介は無理矢理横から顔をのぞき込んできた。逃げるとまた追ってくる。しばらく無言で追いかけっこをするうちに、意味もなく二人とも笑い出していた。
「もー、なに!?」
「こっちの台詞ですよ!」
 やがてなにがおかしいのかわからないまま二人は笑い転げた。畳の上に寝転がってまた髪を梳き、布団敷こう、と呟いた。
「やらしいことしよ」
「………………はい」
 孝介は照れながらも、笑ってうなずいた。
 布団を敷いているあいだ、キャベツ鍋をいつやろうかという話になった。
「今度の週末は?」
「来週、期末テストなんですよね」
 ここのところバタバタしていたから、少し勉強しないとまずい、と孝介が言った。
「じゃあテストが終わったら」
「だったら大丈夫です。来週の土曜日とかどうですか?」
「来週っていうと……十二月三日か。うん、多分平気だと思う」
「じゃあその日に」
 孝介から受け取った枕を布団に据えながら足立は振り返った。
「……また泊まりに来てもいい?」
「勿論」
 孝介は玄関へ行って戸締りを確認している。足立は煙草へ手を伸ばしかけて、ふと思い出し笑いをした。
「なんですか?」
 怪訝そうな顔つきの孝介を手招きで呼び寄せる。
「ね。おやすみのちゅーして」
 それで孝介も思い出したようだ。呆れたように笑って、目の前へ両膝を突いてきた。
「アイちゃんでなくていいんですか」
「君じゃないとヤダ」
 嬉しそうに笑う唇が重ねられた。足立は孝介の体を抱き寄せて何度もキスをする。そのまま布団に押し倒して、上からじっと顔を見下ろした。
 乱れた髪の毛を梳いて整えてやるあいだも、孝介の視線はしっかりと足立に向いていた。明日になったら自分のアパートへ帰らなければいけないのだという事実が、どうしても信じられなかった。
 なんでこういう毎日じゃないんだろう。足立は髪の毛に手を差し入れたまま考えた。夜寝る前には孝介の顔を見て、朝起きたら一番に孝介を見る、――そういう日々を望んだっていい筈だ。この町へ来て以来、心を動かされたものは二つしかない。
 あの力と、孝介自身。そして今の足立は、そのどちらをも手にしている。
「……なんかホントに、幸せ過ぎて死んじゃいそう」
「死んじゃ駄目です」
「はーい」
 抱き寄せる腕に誘われて足立は唇を重ねた。唇が離れたあと、孝介は恥ずかしそうにゆっくりと目を上げた。
「……足立さん」
「うん?」
 首に回った腕が足立を再度抱き寄せる。しばらく逡巡したあと、
「足立さん、大好き」
 孝介の呟く声が聞こえた。

ちょうどいいかも/2011.02.07

2011.02.13 一部加筆訂正


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