菜々子の母親は、数年前に事故で他界したという話だった。菜々子からの情報だけなので詳しいことはまだわからないが、どうも普通の事故ではなかったようだ。そのせいか、話題を振るたびに見せる叔父の遼太郎の表情も硬く、遠慮してしまってなかなかその先を聞き出せずにいた。
陽介も、以前菜々子から聞いた話を思い出したのだろう。ふっと表情を曇らせ、手元へと視線を落とした。
「どのみちいつかは死ぬってわかっててもさ、……やっぱ辛いよな。しかもあんなに小さいのにさ」
陽介の言葉を聞いた時、どうせ死ぬのに何故生まれるんだろうとちょっと思った。これほど多くの人間が存在するのに、何故これ以上生まれる必要があるんだろう?
辛いことがあるのに。嬉しいことよりも悲しいことの方が多いのに。
別れは絶対にやって来るのに。
孝介はしばらく考えたあと、でも生まれてなければここに居ないんだよな、と思った。ここで陽介と話をすることもなく、稲羽市へ単身引っ越してくることもなく、だから菜々子にも会えなかった筈だし事件のことも知らないままだ。
――もし俺が居なかったら、花村はどうしてたんだろ。
孝介はいつの間にか思索に囚われていた。蛇口から細く水を出してそこへ筆先を突っ込みながら、つらつらと頭に浮かぶ疑問を推し進めていった。
テレビに入る力を得たのは自分が最初だ。もし自分が居なければテレビのなかのことなど気付かないままだろうし、そうしたら雪子は理由もわからないまま行方不明になって、……そして?
今月半ばには完二がテレビへ放り込まれた。……自分が居なくても、それは同じように行われたのだろうか? この先に起こることも、自分の存在とは無関係に続くのか? もしかして別の可能性があるんじゃないのか?
――まさか。
たどり着いた結論に孝介は愕然とした。――まさか、助けるから、誘拐されるのか?
「どしたん?」
少しボーっとしていたようだ。孝介は声をかけられて我に返った。
「……あのさ」
「うん」
だが言葉を口にしようとしたとたん、頭のなかで渦巻いていた思いはぐしゃりと歪み、なにをどう説明すればいいのかわからなくなってしまった。覚えているのは「助けるから誘拐される」という非常に飛躍した理論だけで、でももしそれが当たっていたとしても、やはり解せない部分が残る。
何故彼らが狙われたのか? 何故誘拐が続くのか?
孝介は頭を振って、それまでのことを忘れようとした。考えることも大事だが、その為には正確な情報を手に入れなければならない。
「完二って、まだ学校には来てないんだっけ」
水道を止めて孝介は訊いた。「まだみたいだな」と陽介は首を振る。
「っつうかあいつ、ちゃんと学校来るんだろうな?」
「今度様子見に行ってみようか」
流し場から教室へ戻る途中、陽介がふと窓の外を見た。
「すっげー。久々にいい天気」
窓の外では初夏の眩しい陽射しが照りつけている。学生服では暑いくらいだ。
「――そうだ。今日さ、一緒に昼飯食わない? 俺、弁当持ってきてるんだけど」
「弁当? お前が作ったの?」
「そう。酢豚作ってきたんだけど食べる?」
「食う! お前料理上手いもんな、すっげー楽しみ」
そうと決まれば片付けだと言って、陽介は教室へ駆け込んでいく。孝介は笑ってそのあとを追った。
「ただいま」
「たっだいまー」
玄関の引き戸が開くと同時に、男の声がふたつ重なって聞こえてきた。父親が帰ってきたと喜んだ菜々子は、しかし立ち上がる途中で不審そうな目を孝介に向けた。そうして二人は恐る恐る玄関へと振り返った。
「おう、遅くなってすまなかったな」
台所へ迎えに出た娘の頭を撫でて、叔父の遼太郎はネクタイをゆるめた。その後ろからやって来たのは、
「ども、こんちゃーっす」
相変わらず口元に締まりのない足立透だった。
「なんで当たり前のように入ってくるんですか」
「まあまあまあまあ。はい、これお土産」
アイスの入ったビニール袋を孝介に差し出しかけて、足立はふっと菜々子に向き直った。
「はい菜々子ちゃん、お土産だよぉ」
「アイスだ。ありがとう!」
「いえいえ、どういたしまして」
足立はにまにまと笑いながら菜々子の頭を撫でた。そうして背広を脱いで台所のイスに引っ掛けると、やれやれと言って腰を下ろしてしまった。
「……帰らないんですか?」
「来たばっかなのに?」
そもそも何故当然のような顔をして家に上がり込んでくるのか。そこからして孝介には解せなかった。それは菜々子も一緒のようだ。お土産は有り難く頂戴したものの、冷凍庫へと仕舞い込んだあとは若干手持無沙汰な顔で立ち尽くしている。
「足立は今日、うちに宿泊だ」
早々部屋着に着替えた遼太郎が部屋から顔を出しながらそう言った。
「なんか知らんが風呂釜が壊れたらしくてな。明日修理の人間が来るそうなんだ」
「銭湯だったら商店街の先に一軒だけあるじゃないですか」
「それが『かずさ湯』さん、水曜日はお休みでさぁ。ね、頼むよ。今日一日だけお泊りさせて」
「……とまぁ頼み込まれちまってな。どうせ俺もこいつも明日は非番だし、いいかと思って――」
「お父さん、お休みなの?」
遼太郎の言葉に、菜々子の顔がぱっと明るくなった。
「おぉ。明日の放課後は小学校まで迎えに行ってやろうか?」
「ダメ。お父さんはおうちに居て。それでね、菜々子がかえってきたら、おかえりって言って」
「そんなことでいいのか?」
菜々子にとっては「そんなこと」じゃないんだよ、と孝介は思った。いつも帰りを待ってばかりだから誰かに出迎えて欲しいのだ。孝介も幼い頃はそうだった。仕事の忙しい両親を、無人の家で待つのが常だった。だから菜々子の気持ちは痛いほどに理解出来る。
「菜々子。ご飯の仕度しよう」
「うん!」
孝介が声をかけると、菜々子は今から楽しみで仕方ないといった顔で振り返った。
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