「――は?」
 足立は両手にコーヒーの入った紙コップを持ったまま廊下に立ち尽くしていた。堂島は片方のコーヒーを受け取ってから繰り返した。
「天城雪子が戻ったそうだ。少し前に女将から連絡があった」
 堂島は心なしかホッとしているようだった。すわ三件目かと色めき立っていただけに、雪子の生還はやはり喜ばしいニュースであるようだ。
「どうした」
 茫然と突っ立っている足立を見て、堂島が不思議そうに声をかけてきた。足立はあわてて我に返り、大袈裟に首を振ってみせた。
「いえいえいえ。いやあ、よかったなぁと思って」
「ああ。これで旅館の連中も安心して眠れるだろう。……けどな」
「なんです?」
 堂島が歩き出したのにつられて足立もあとを追った。
「近くに居た連中が話を聞きに行ったんだが、天城雪子は居なくなったあいだのことをよく覚えていないと言うんだ」
「よく覚えていないって……じゃあ、やっぱり誰かに誘拐されてたってことですか?」
「少なくとも、ただの家出じゃなかったみたいだな」
 そう言って捜査本部である会議室へ入りながら、堂島は小さくため息をついてみせた。
「なんなんだ、こいつは」
「えぇ? いや、僕に訊かれても……」
「もしこれが例の事件につながるものだとしたら、何故犯人は天城雪子を殺さなかったんだ? 少なくとも自力で脱出したわけじゃなさそうなんだ。だとしたらどうして犯人は彼女を逃がしたんだ? なにかまずいことでもあったのか? それともこれは事件と全く関係のない、模倣犯の悪戯なのか?」
 堂島は壁に寄りかかりながら、思い浮かぶ疑問を次から次へと口にしていく。そうして最後に、はたと困った表情になって、「俺にはさっぱりだ」と首を振った。
 ――僕にもさっぱりなんだけど。
 コーヒーに口をつけて足立は考え込む。
 生田目はテレビに人間を入れる力を持っている。そしてその力で雪子をテレビに入れた――本人の善意で。これは間違いない。
 テレビのなかはかなりヤバい場所だ。あそこへ入ったらただで出られる筈がない。生田目はそれを知らないから、雪子を保護する為にテレビへ入れた、だからテレビから出す筈がない。
 ということは、どういうことだ?
 雪子が自力で出てきたのか、あるいは生田目以外の誰かが助けたのか。
 ――まさか。
 足立は自分が思い至った考えのおかしさに、思わず笑いを洩らしてしまった。そうして、
「なんだか余計に混乱してきましたねえ」
「まったくだ」
 堂島はがりがりと頭を掻き、大きなため息をついた。
 捜査本部に人の姿は殆どない。時間が遅いせいもあってか、数人が報告書をまとめているだけだった。
「今日はもう上がるか」
 気が抜けたように堂島が呟いた。
「あ、じゃあ途中まで送ってってもらえませんか。商店街の辺りで降ろしてもらえると、すっごく助かるんですけど」
「この野郎、上司をタクシー扱いか?」
 そう言いながらも、堂島は笑っていた。いっそう謎が深まろうとも、ともかく雪子が戻ったという報せは、暗礁に乗りかかっている事件のなかにわずかな光をもたらしたようだ。堂島は紙コップに残っていたコーヒーを飲み干して続けた。
「どうせだ。うちで晩飯でも食っていけ」
「え、いいんすか!?」
「と言っても、あるのは出来合いの総菜ばかりだがな」
「うーわー、すんません、ゴチになりますっ」
 大きく頭を下げながら、とにかく明日にでも生田目に会いに行こうと足立は考えた。絶対になにか知っている筈だ。出来る限り聞き出してやる。
 あんなうだつの上がらない男が、自分以上に情報を握っているなんて、許せるものか。


 駐車場に戻った軽トラの運転席に生田目の姿を認めて、足立は車を降りた。道路を横切り、事務所へ戻ろうとする生田目を呼び止める。
「あぁ、どうも」
 生田目はいささかうんざりしたような顔で足立を出迎えた。ども、と足立は片手を上げて、いつものように笑ってみせた。
「今度はなんの御用ですか」
「いやあ、今日は話を聞きに来たわけじゃないんですよ。一応報告をと思いましてね」
 そうして雪子が戻ったということを教えると、
「本当ですか!?」
 不思議なことに、生田目の顔がぱっと明るくなった。
 ――あれえ?
 瞬時にして足立の頭のなかはクエスチョンマークでいっぱいになった。
「……ま、まぁ、ひどく衰弱してるらしくって、今は学校も休んでるみたいなんすけどね」
「そうですか……でも本当によかった。これで親御さんも安心したでしょう」
「そっすねえ」
 動揺したせいで足立の返事は不自然に力の入ったものとなった。しかし生田目はそれに気付いていないようだった。二人の男は互いに自分の思考へと深く入っていた。
 ――あれれれれ?
 足立は心のなかで首をひねっていた。生田目の喜びは本心からのもののようだ。だけど、だとしたら、これは一体どういうことだ?
 あんたが助けたんじゃなかったの? だってテレビに放り込んだのはあんただし、ほかにそんなこと出来る奴なんて居るわけが――。
 ――まさか。
 そのことに思い至った時、足立は不意に戦慄を覚えた。
 ――居るのか?
 雪子を助けた第三の力が、この町のどこかにあるというのか?
 だけど考えられないことじゃない。今ここに、同じ力を持つ人間が二人居る。三人目が居ないなんて、どうして断言出来るだろう?
 ――へえ。
 喜びに浸る生田目を前にうつむき、見えないところでにやりと笑った。
 ――いいんじゃないの?
 テレビのなかに入り込んで、あんなヤバそうな場所から人を助けることが出来る、そんな人間が。
 あんな場所へ入り込んで他人を助けようなどと思う、バカな誰かが。
 それがどうやら居るらしいとわかっただけでも収穫だった。足立は満足してぞんざいに挨拶をすると、さっさと車へ戻ってしまった。
 運転席に腰を下ろして勢いよくドアを閉める。煙草を取り出し、火を付けながら窓を開ける。大きく煙を吐いた時、我慢出来ずに口にしていた。
「おっもしろいなあ」
 そうして存分に笑い声を上げた。怒りにかまけて殴りつけたこぶしがクラクションを鳴らしてしまい、それがおかしくて、また足立は笑った。

あれえ?/2010.11.24


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