扇風機が首を振るたびに、カーテンの下の方がふわりと持ち上がってはまた元に戻る。居間の床板に横になってぼんやりと外を眺めていた榊は、そういえばあれ外して洗おうと思っていたんだっけと今更のように考えた。
 そばにあった文庫本をわずらわしげに手で押しやり、半身を起こしたはいいが、ねっとりとまとわり付く熱気に全ての気力を奪い取られ、やっぱり明日でいいかとソファーにもたれかかった。
 さっき薄い眠りから目醒めたばかりだ。暑いのは平気だが、汗を掻く為必要以上に体力を消耗するのか、ここのところ昼飯を食ったあとは必ず眠ってしまう。後片付けもそこそこに横になった自分を見て、KKはおっさんが、とにやりと笑った。そうして休む間もなく一人で川へ遊びに行ってしまった。みっともないから溺れるなよと言って送り出すと、うるせぇジジィと返事があった。包丁でも投げつけてやれば良かったかも知れない。
 ぼさぼさの髪を掻きむしってカレンダーを見る。日付に丸がされている日は掃除の手伝いの日だ。八月の後半になると仕事が立て込むらしく、悪いけど、と毎度の如く知り合いに頭を下げられて働きに行くことになっていた。どのみちこっちはその日暮らしの気儘な身だ。暇を潰せて、更に金までもらえるなんて、世の中はなんて素晴らしい仕組みになっているのだろうか。
 ――さて。
 今日はこのあとなにをしよう。扇風機の風に揺れるカーテンを眺め、やっぱり外して洗ってしまおうかと立ち上がった時、不意に呼び鈴が鳴らされた。
「たっちゃーん。居るー?」
 滅多に人が訪れることのないこの家に来る唯一の常連の声だった。一瞬不在のフリをしようかと思ったが、表に車があるので居るのはもうバレバレだ。榊はイスの背もたれにかけてあったタオルで顔の汗を拭きながら玄関へ向かった。
「ちわー」
「よお」
 唯一の常連である香月は、手に大きな買い物袋を提げていた。遊びに来るたびに、土産だと言って必ず酒を持ってくるのは評価する。が、大半を客自らが飲み干してしまうので、一体土産の意味があるのだろうかと時々疑問に思うことがあった。
「遊び来たよ。ケイちゃんは?」
「川に泳ぎに行った。魚でも捕まえてるんじゃないのか」
「相変わらず野性的な子だよね」
 そう言いながら香月はなかに入り、立ち込める蒸し暑い空気に眉をしかめた。
「なんでこんなにあっついの」
「そうか?」
 棚から新しいTシャツを取り出して着替えた。汗でぐっしょりと濡れたそれを洗濯カゴに放り込み、ついでに洗面台で顔を洗う。居間に戻ると、香月は買い物袋から荷物を取り出す途中で手を止めて庭を眺めていた。
「ねえ、外で飲まない?」
 扇風機は家のなかの蒸し暑い空気を掻き回すばかりだ。その合間に、時折涼しい風が窓から吹き込んでいた。外の方が絶対涼しいよと主張するので、仕方なくイスを出して木陰に置いた。バケツに水と氷と缶ビールを大量に突っ込み、残り物の柿の種とポテトチップスをつまみとして出してやる。
 イスに腰を下ろしてビールを開けた。窓際に置いた扇風機のスイッチを最強にして回しているので、確かに家のなかに居るよりは涼しい気がした。
「やっぱり夏はビールだよねぇ」
 丸メガネを外し、首にかけたタオルで顔の汗を拭きながら香月が笑った。お前は一年中そう言っていないかと言うと、僕ビール党だからさとまた笑った。
「というか、お前はうちに来る以外に出掛ける場所がないのか」
 なんだかんだで月に一度は必ず顔を見ている気がする。この男は裏稼業での仲介人も務めているので必然的に顔を合わせることが多い。一応本業は医者をやっているし婚約者も居る筈なのに。
「だって和美さん、今日仕事だって言うんだもん」
 そう言って香月は子供のように膨れっ面をしてみせた。三十過ぎの男がむくれても全く可愛げがないなと思いながら、榊は無言でビールを飲んだ。ケイちゃんにも会いたかったんだけどねぇと残念そうに言うので、なんなら迎えに行ってこいと林の向こうをあごで示した。
「来月、暇?」
 いきなり香月が切り出した。多分な、と答えると、「熊本で馬刺し食べたくない?」と訊かれた。
「なんだ、突然」
「向こうでヤクザが睨み合ってるらしいよ」
「……」
「まだ本決まりじゃないんだけどね」
 どうやらただ遊びに来たわけではないようだ。榊はしばらく黙ったままビールを飲んだ。
「馬刺しは魅力的だがなぁ」
「あんまり気が乗らない?」
「……そうだな」
 暑さのせいだろうか。仕事のことを考える気にはなれなかった。それに熊本まで行くとなれば長く家を空けることになる。現場の視察、打ち合わせや段取り。一泊二日の温泉旅行とは違うのだ。
「ケイちゃんだったら、うちで預かるよ」
 心配の種を察したのか香月が言う。それはあいつの方が嫌がるだろうと思ったが口には出さなかった。
 香月はその昔、殴ってKKの歯を折ったことがある。KKがまだこの家に来たばかりの頃だ。あの時奴は痛みに泣き、口から血を流しながらも抵抗をやめなかった。
「でも僕、ケイちゃんには嫌われてるからなあ」
 香月の言葉に思わず吹き出してしまった。自覚があったのかとつい言ってしまう。
「そりゃ、あれだけあからさまに不機嫌そうな顔されたら、嫌でもわかるって」
「お前が顔合わすたびに、ちっちゃいちっちゃい言ってバカにするからだよ」
「だってホントにチビなんだもん」
 ちゃんと食べさせてるの? と疑いの目を向けられた。それでも拾ってきたばかりの頃と比べれば幾分かは成長しているのだ。ちょうど二年が過ぎたこの春、洋服を全部買い直したばかりである。
「お父さんは大変だねぇ」
 香月は立ち上がると庭に放置してあった大きな盥の中身を引っくり返し、そこにホースで水を貯め始めた。お父さんねえ、と榊は思わず鼻を鳴らした。
 所詮は赤の他人だ。
「で? どうなのよ」
「なにが」
「使い物にはなりそうなわけ?」
 榊はうなずいてピーナッツを口に放り込んだ。
「筋は悪くない」
 突然香月が笑い出した。
「たっちゃんが子供拾って育ててるなんて知った時は、なんの冗談だろうって思ったけど」
「意外だったか」
「充分意外でしたよ。いきなり改心したのかと思っちゃった」
 しかもあんな野性児。そう言って更に笑う。榊は苦笑を洩らした。
 目の前に引きずられてきた盥のなかにサンダルのまま両足を突っ込んだ。泥が落ちてすぐに水が汚れてしまう。汚いなぁと香月は文句を言ったが、自分も同じくサンダル履きのまま足を突っ込み、イスに腰を下ろした。
 榊は盥のなかで足を動かし、ぴちゃぴちゃと小さく水を撥ね上げさせた。気持ちいいねと香月が言うのに、ぼんやりとうなずき返す。
 盥はずっと雨ざらしだったのでひどく汚れている。草がこびりつき、泥にまみれたままだ。なんの為に買ったものなのかもう覚えていない。木枠を締めつける箍の一部がわずかに凹んでいる。
 ――こんな風に、汚らしい子供だった。
 伸びた髪は長いあいだ洗われた形跡がなく、食事も満足に与えられていなかったのか、骨と皮だけのガリガリの体型をしていた。腕に幾つか火傷の跡――恐らく煙草だ――それから、まだ新しい大きなアザ。こちらをみつめる落ち窪んだ目。
 KKは「仕事」先でみつけた。男を一人殺して欲しいとの依頼だった。標的以外の人間が居るとは聞いていなかったから、初めて見た時は驚いた。
 最初は、ついでだから殺してしまおうと思った。だが死体を見ても表情を変えないことに気付き、ふと思い止まった。会話が成立することを確認してここへ連れてきた。
 あれから二年。
 時々、自分はなにをやっているんだろうと思うことがある。
 人手が欲しいと感じる時は確かにあった。だがそれは滅多にないことだし、自分の手に負えないと思う仕事は最初からきちんと断ってきた。そういった選択を許される立場なのは本当に有り難いことだ。なにも無理をしてまで殺す必要はない。仕事はほかにもあるのだから。
 その代わり、受けた依頼は必ず遂行してきた。失敗は今までに一度もない。たとえこちらの身が危うくなろうとも、とにかく仕事は完了させた。
 恐らく問題なのは、「仕事」に対して完璧さを求めてしまう自分の潔癖症だろう。もし万が一仕留め損なったら。そう考えて怖くなることはしょっちゅうあった。だからしつこいほどに全てを確認し、武器の手入れは毎日怠らない。
 それでも頭の奥底に不安がこびりついている。もし思いも寄らない事態が持ち上がって、標的を取り逃がすことがあったとしたら。――そんな時、自分の手足と同じように動ける人間が存在するとしたら。
 そこまで深く考えてKKを連れてきたわけではなかった。だがあのまま放っておけば間違いなく餓死していただろう。
 ここへ来たばかりの頃、奴はなにも知らなかった。文字が読めなかったし数も数えられなかった。通常あの年頃の子供が身につけているであろう社会性をなにも持ち合わせていなかった。試しに缶詰と缶切りを与えてみたが、一時間ほど苦闘したのち、かろうじて空いた穴からなかの汁を吸い尽くした状態で放置されていた。
 野性児というのはまだ可愛げのある呼称だった。人間の言葉を話せる猿と言うのが相応しい。
 そんな子供を何故育てているのか――自分の後を継がせる為? まさか。そこまでこの仕事に入れ込んでいるわけじゃない。ただの気まぐれだ。正直自分がいつまで生きていられるのかもわからないのに、他人の心配などしている余裕はない。
 だがKKと暮らし始めてからひとつだけ変わったことがある。
 どこに居てもなにをしていても、必ずこの家には自分を待っている人間が居るということ。
 自ら面倒を抱え込んだのだとようやく実感した。香月が「改心した」と言うのもうなずける。榊は煙草に火をつけ、髪の毛を掻きむしった。
 二年も経って今更だが、どこか遠くにでも捨ててきてしまおうか。それで自力で戻ってこられたらもう一度一緒に暮らすというのはどうだろう。あるいは香月がKKのことを気に入っているようだから、いっそのことくれてしまうというのもひとつの手だ。
 そんな榊の人でなしな思考を知らないまま、香月は盥の水を庭にぶちまけ、新しく水を入れ直している。煙草の灰を叩き落として、なあ、と声をかけた時、玄関の方で「ただいま」と声がした。
「あ、ケイちゃん帰ってきた」
 ホースで水を入れながら、お帰りーと嬉しそうに手を振る香月を見て、KKはうんざりしたような顔になった。
「なにしてんの、二人して」
「庭先でピクニック。ケイちゃん、焼けたねぇ」
 まあね、と素っ気なく呟き返してKKは袋から荷物を取り出している。
「早かったな」
「なんか、知らない奴らが居て騒いでたから。うるさくってさ」
 そう言って素足のまま爪先立ちで庭に出ると、手を伸ばして物干し竿にタオルをかけた。その足にホースで水をかけて、「ケイちゃんもピクニックしようよ」と香月が誘っている。
「やだよ。俺、疲れてんの」
「子供のクセに生意気な」
 そう言っていきなり顔に水を向けた。ぎゃっと悲鳴を上げて逃げようとしたKKは、のけぞった拍子に物干し台の支柱に後ろ頭をぶつけてしまった。涙目で頭を押さえ、逃げようとするのを見て香月が叫んだ。
「たっちゃん、捕まえて!」
 大声に触発されたKKは素足のまま庭を回って玄関方向へと駆けだした。榊は盥のなかに煙草を投げ捨てて「仕方ないなぁ」と立ち上がる。
「今日は特別に得物なしで相手してやるか。――よし、来い」
「うわ、ちょっ、待って! なんでおっさん二人でタッグ組むの!?」
「誰がおっさんだ、誰が」
 庭を逃げ回るKKを追いかけ、車の隅から駆けだそうとしたところで捕まえた。抱きかかえるようにして裏庭へ移送すると、香月が満面の笑みでホースの水をぶっかけてきた。
「つめてえー! ちょ、死ぬ! 人殺しー!」
「嫌味にもならんな」
「まったくだね。十五点」
 こんな家、絶対出てってやる。全身びしょ濡れになり、半泣き状態で言うKKを見て二人は笑った。

 KKと暮らし始めてからひとつだけ変わったことがある。
 この家には、自分ではない誰かの痕跡がある。


私でない人/2008.11.04


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