さわやかな日射し、というのが、どうも自分は嫌いらしいとKKは思う。
 今彼は都内にあるカフェのテラスに突っ立って、木枠で組まれた手すりにもたれかかりながらぼんやりと煙草をふかしている。こういうところで飯を食うのがお洒落なのだと思い込んでいる奴らは一体どんな間抜け面をしているのだろうとKKは思い、まぁそんなこと俺が知ったってしょうがねぇんだけどよ、と煙草の灰を目の前の道路へと叩き落とした。
 そのとたん、背後から誰かに頭をぶっ叩かれた。
 かぶっていた帽子を直しながら振り返ると、榊のジジィが腰に両手を当てた格好でこちらを睨みつけていた。
「お前は仕事しに来ているのか、それとも邪魔しに来てるのか?」
 そう言ってジジィはKKの足元を指差す。そこには今までKKがこぼした煙草の灰があちこちに散らばっていた。そういやぁさっきジジィが掃除してたっけなぁと思いながらKKは口元に愛想笑いを浮かべ、「一応仕事っす」と答えつつ煙草を投げ捨て、靴の先で灰を蹴り落とそうとした。だが床板がまだ半分しけっていた為に蹴れば蹴るほど灰はこびりついてしまい、結局、「全部拭き直しておけ」とジジィからモップを渡されて仕置きはおしまいになった。
 今度あの邪魔っくせぇ口ひげ全部引っこ抜いてやる、とKKは内心で毒づきながらテラスを隅から隅まで水拭きした。そうして店内に戻ろうとした時、今度は空のバケツが飛んできた。咄嗟にモップの柄でそれを叩き落とすと、
「モップはきちんと絞れ!」
 また榊のジジィの怒鳴り声がした。
「絞ってんじゃないっすか!」
「そんな水がだらだら落ちててなにほざく! もう一回拭き直し!」
 あいつが社長でなかったら絶対に殺してやる、今夜にでも躊躇なく殺してやるのに、KKはぶつぶつうなるようにそう繰り返しながら再びテラスを拭き終えた。そうして広い店内に戻ると、ジジィが普段の能天気な目付きに戻ってこちらを見上げてきた。
「とりあえず一斗缶投げつけんのはやめてくださいよ」
「すまんな、ほかに投げるものが見当たらなかった」
 掃除屋できちんとプラスチックのバケツを使っているところは殆どない。大抵は空になったワックスの入れ物(容量18リットル)をそのままバケツとして使う。金物だから当たると結構痛い。
「って言うか、物投げないでくださいって話なんすけど」
「うん。それは私に言っても無駄だな」
 投げさせているのはお前だしなぁ、と榊のジジィはからから笑った。
 ――絶対に殺ってやる。
 どうせ掃除屋はここだけじゃない、こんなちんけな会社が一つ潰れたところで誰も困りはしない、KKがそう内心で決意を固めた時、不意にジジィがコンビニの袋を差し出した。なかには缶コーヒーが入っていた。休憩しよう、ということらしい。
 KKは袋からコーヒーを取り出しながら決意がまたしても緩むのを感じていた。毎度毎度つまらないことでジジィに殴られバケツを投げつけられ、そのたびに殺意が臨界点まで駆け上がるくせに、こういうちょっとしたことでリミット満タンになっていた決意がひゅるひゅるとしぼんでいってしまう。もしかしたら俺はやっぱりガキなのかもな、と缶のフタを開けながら思わず一人で赤面した。
 店の外に出て二人で煙草を吸いながら作業手順を確認していると、不意にジジィの携帯が鳴り出した。床にワックスをかけておくようにと指示を残してジジィは表の方へと出て行った。時計を見るとまだ八時を回ったところだ。こんな朝早くから電話が入るということは、なにかトラブルがあったに違いない。
 また今日も忙しくなりそうだとため息をついてコーヒーを飲み干し、空き缶の飲み口に煙草を放り込むと、KKはワックスの缶を持って立ち上がった。
 店内に戻ると、大きな窓から床に向かって朝日が射し込んでいた。光のなかを小さな埃が静かに舞っている。窓際に置かれていた観葉植物は入り口の方へと移動させてあったが、大きな緑の葉はかろうじて朝日のなかにその身を晒し、光を受けてきらきらと輝いているように見えた。
 さわやかで、健康的で、
 ――吐き気がする。
 KKはうつむきがちに店内を横切ってワックスの重い缶をどしんと床に放り出した。そうしてなるべく窓の方へ顔を向けないようにしながらワックスをかけ始めた。
 どちらかというとKKは暗くて閉鎖された場所が好きだった。たとえば押入れのような、薄暗くて湿った空気の漂う狭い空間。勿論ライトをつければそこは見えるけど、消してしまえばまた闇に戻る。そういう場所が自分には似合っている、KKはそう思う。
 朝の光は――窓の外の白っぽい景色を一瞥してKKは鼻を鳴らす――それは、なにかを象徴している。姿の見えない幸福のようなもの。自分が手に入れられなかったなにかを思い出させられて、ひどく嫌な気分になる。
 それは多分別の世界にある、KKはそう思っていた。俺には行けない場所、そして誰も連れていってはくれない場所。
 今までかけらもその存在を知らず、この先も知ることのない――
 不意に後頭部になにかがぶつかってきた。
「だから物投げんなって――」
 殺意を再び沸点まで上げながら振り返ると、にやにや締まりなく笑う口元が目に飛び込んできた。
「グッモーニン、ミスター」
 MZDが片手をひらひらと動かしつつ店の入口に立っていた。影が足元から伸びて同じようににやにや笑っている。
「……なにしてんだよ、こんな朝っぱらから」
「今帰るところ。お前の姿が見えたんで、朝のご挨拶」
「人の頭に空き缶ぶつけるのがお前の挨拶なのか」
「そんな、褒められるほどのことじゃ」
「褒めてねえ」
 足元に転がるコーラの空き缶をMZDの方へと蹴り出して、KKは放ってあった水拭き用のモップで床の汚れを拭き取った。そうして送風機を回しながらまた新たにワックスをかけ始める。
「朝も早くから仕事熱心だねぇ」
 そう言ってMZDは店のなかへと足を踏み入れた。モップを動かしながらKKはちらりと背後を振り返り、
「しょうがねえだろ。働かざるもの食うべからずってな」
「――それは俺に対する嫌味ですか」
「嫌味ってわかるだけ上等だ」
 KKの言葉にMZDが小さく舌打ちを返す。背後に伸びる影もけらけら笑っている。やかましいですよとMZDが腕を伸ばすと、影は嘲笑うように体をくねらせ、足元に沈んでしまった。
「殺風景なもんだなぁ」
 声に振り返ると、MZDはテーブルやイスを全部どかした店の中央に立って店内を見回していた。壁や柱にかけられた飾りはそのままで、厨房につながるカウンターの荷物もいじってはいない。それでも床板が剥き出しになった店の中心部は、言われてみれば確かにひどく殺風景に感じられた。店を飾る小道具がどれほど雰囲気を演出しているのかということを強く意識させられる。
 KKが返事をしなかったのは面倒だったからではない。朝日の射し込むその空間のなかに当たり前のように奴が立っていたからだ。KKは今カウンターのなかに入り込んでMZDへと振り返っている。店の前の道を駅の方向へと足早に歩いてゆく人の姿と相まって、音の神はまさしく世俗から切り離された存在に見えた。
 ――俺は、
 やっぱりこいつが嫌いだ、と思ってKKは視線をそらす。
 その空間はいつだって身近にある。こっちに来いよと呑気な声で自分を誘う。そのくせ、入り込もうとすれば、自分があまりにも異質すぎるということだけを知らされる。
 そんな空間のなかに奴は呆気なく入り込み、向こうからこちらをのぞいて、お前も来れば? というように他愛なく笑う。その笑顔を目にすると、もしかしたら行けるかも知れないと思ってしまう。
 ――こいつが俺を連れ出してくれるかも知れない。
 だけど、
 ――やっぱり行けないかも知れない。
 期待や希望や夢は、時として毒になる。
 MZDがなにかを言った。サングラスの奥から眠たげな視線をこちらに向けている。KKは口元に愛想笑いを浮かべて生返事をし、もう一度しっかりと神の姿を見たいという欲求をなんとかして振り払おうとしていた。
 ――言葉に出来ない幸福のようなもの。
『境がないってのは幸せだぁね』
 いつかのMZDの言葉を思い出す。KKは無意識のうちに、そうだな、と呟いていた。
「今度こういう店でさあ――」
 声に顔を上げて、そこワックス塗りたて、と言おうとした瞬間、MZDが派手に転んだ。KKは鬱憤を晴らすように大声で笑った。


じっと見る/2006.01.16

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とりあえず元掃除屋としては、モップはきちんと絞れ! と突っ込んでおかなぁいかんかな、と。


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