コーヒーを作ろうと思って台所へ行った時に気が付いた。流しの上の棚に、ぽつんとひとつヤカンが置いてある。よくある色が付いた琺瑯のヤツではなくて、今時どこでみつけてきたんだと訊きたくなるような、アルミ製のあのヤカン。
 見たところだいぶ使い込まれているようだった。底は火に炙られてまっ黒こげだし、プラスチックで出来た把手も端の方が少し溶けかかっていた。どんな状態で放置したらこんなところが溶けるんだろうとMZDは首をかしげる。その姿を、ベッドのなかから家主が見ていた。
「なんだよ」
 煙草の煙を吐いてKKが尋ねる。寝起きで髪の毛はボサボサで、でも目覚めの一服は外せないとばかりに、ベッドで横になったままだるそうに煙草の灰を叩き落としている。
「ヤカン」
「うん」
「珍しいなぁと思って」
 そうかね、とKKは興味なさそうに呟くだけだった。MZDはコーヒーの用意をしながらも、ことあるごとに棚の上のヤカンを見続けた。

 ――恋をしています。

「この辺りって、お寺あったっけ」
 MZDが訊くと、寺はないけど三十分ぐらい歩けば八幡様があるぞと教えてくれた。
「毎年お参り行ってんの?」
「別に」
 今更神だの仏だの、と呟いて、KKはなにか言いたげな目付きでMZDを見る。まだ少し眠り足りないのだろうか。気の抜けたような顔で起き上がり、床に放ってあったスウェットを着込むと、寒い寒いと身震いしながらトイレに向かった。

 恋をしています。相手はとてもぶっきらぼうな人です。

 あとでお参り行こうよと誘うが、KKの返事はかんばしくない。理由を訊けば、ただ単に「面倒くさい」とのこと。
「混んでるんじゃねぇの」
「もう三日だし、平気っしょ」
 出来上がったコーヒーを持って二人は台所から部屋へと戻る。扉を閉めて暖房を入れたが、KKはまだ寒いと言ってベッドにもぐり込んでしまった。それを見たMZDは、俺も入れて、とKKの足側から入り込む。壁にもたれかかるようにして互いに向かい合い、しばらく無言でコーヒーを飲んだ。

 昔はもっと怖い人でした。なにが気に食わないのか始終怒ったような顔をして、いっつも一人で、自分以外の全てのものを憎んでいるような、そんな顔をしていました。

「……出店、あるかな」
 ぽつりとKKが言った。
「あるとしたら今日までだな」
「たこ焼き食いてぇな」
「じゃあ行こうよ」
 そう言ってMZDは、爪先でKKの太股の辺りを軽く蹴りつける。KKはそれに対して渋い顔をしてみせた。蹴られて怒っているというわけではなくて、どうしようかと迷っているようだ。
「お賽銭あげるから買ってこい」
「新年早々神様をパシらせるつもりですか」
 いい度胸ですね。MZDは布団のなかに手を入れてペチンとKKの足を叩く。KKはなにしやがると笑って蹴り返してきた。

 ――時々見せる笑顔も、どこかウソっぽくて、

「行こうよ、初詣。お正月なんだからお正月らしいことしようよ」
「正月らしいことねぇ」
 KKは肩をすくめて首を振る。どうやら彼にとっての新年とは、単に年度表記が改まるという程度の認識でしかないらしい。年末MZDの店で行われたカウントダウンのパーティーには顔を出してくれたが、暇だったし、というのが顔を合わせた時の挨拶だった。世の中には社交辞令というものがあってね、と言いかけて、やめた。わざわざ足を運んでくれただけでも喜ばしい限りだ。
 イベントが終わったあと、今年もみんなで初日の出を見に行った。それからずっと一緒に居る。初夢どんなだった? と訊くと、普通に仕事してたとものすごく不機嫌そうに言われて笑ってしまった。
 元旦から一緒に過ごすのは初めてだった。考えてみればこんな風に一緒に居るようになったのは、つい最近のことなのだ。それが時々信じられないと思う。知り合ってずいぶん経つのに、ずっと側に居たつもりだったのに。

 この人はなにを抱えているんだろうって思ったのが、多分気になり出した理由です。

 KKはもう一本煙草に火を付けた。窓の外を眺めて、いい天気だなぁと呟く。時刻は昼に近い。初出勤は七日だそうだ。年末が忙しかった分、年明けの掃除屋は暇らしい。
 彼が振り向いた瞬間、ふと目が合った。なに笑ってんだよと怪訝そうに訊いてくる。
「髪、すっげーはねてんなぁと思って」
「うるせぇよっ」
 KKはあわてて煙草をくわえると片手で髪を掻き上げた。MZDは笑いながら、そっちじゃなくって右右、と自分の髪の毛で位置を示してやる。KKはしばらく髪の毛を掻き回していたが、やがて梳いたところでどうにもならないと気付いたようだ。煙草をもみ消すと、「シャワー浴びてくる」と言ってベッドを抜けた。
「俺も一緒に――」
「来んなっ」
 灰皿と空になったカップをテーブルに置いて、代わりに着替えとタオルを持って部屋を出ていく。MZDはその後ろ姿を見送ると、もぞもぞと布団のなかにもぐり込んだ。
 KKの温もりが残っている。

 最近、ようやく自然に笑い返してもらえるようになりました。特別扱いされているわけじゃありません。あの人自身が、少し変わったように感じます。昔ほどかたくなではなくなった、そんな気がします。

「お前、まだ寝てる?」
 さっぱりとした顔で部屋に戻ってきたKKは髪の毛を拭きながらそう訊いた。
「え? なんで?」
「俺、出かけるけど。寝てんなら寝てるでいいし」
「え、ちょ、待ってよ。もしかして初詣? だったら一緒に行くよ」
 置き去りはひどいよと言ってMZDはあわててベッドを抜けた。シャワーは起きた時に浴びていたからいいものの、そろそろ置いてある着替えが少なくなってきた。今日辺り、一度家に戻らなければ。
「っつうか、お前いつまで居る気だよ」
 KKの言葉に、MZDは着替えの手を止めた。
「……なんだよ、その顔」
「俺、居たら迷惑?」
「いや、迷惑っつうか」

 あの人は、私にとっての特別です。でもあの人にとっての私は、多分ほかの人と比べてもあまり大差は無いように思います。昔からそうでした。あの人は誰と居てもいつも変わらず、どこか自分とそれ以外の世界との線引きをきちんとしているような、……そういう人でした。

 そろそろ掃除したいんだけど。あまり汚れの目立たない部屋のなかを見回してKKは言った。
「――そんな取って付けたみたいなウソ言うんだったら、素直に邪魔だ迷惑だって言えよおぉ」
「いやマジで。大掃除これからだし」
 大晦日まで仕事だったんだぜとKKは表情を曇らせる。

 この人は一体なにを抱えているんだろう。

「手伝ってくれるっつうんなら大歓迎だけど」
「……………………」
「そこまで悩むんなら、素直に帰れよ」
「帰らない! まだ居る!」

 そこには一体なにがあるんだろう。

「とりあえず初詣行くからね! そんでお好み焼きとか食っちゃうんだもんね!」
「あーもう、好きにしろよ。やかましい」

 私がそこへ入ることは出来るのか――。

 着替えを済ませた二人は揃ってKKのアパートを出た。少し風はあるが、日が照っているのでさほど寒さを感じない。初詣日和だねぇとMZDが言い、そういえば正月に天気悪かったことってないよなとKKが呟いた。
「そういえばさ」
 こっち、と道を示されながらKKを見上げた。
「あのヤカン、なにに使ってんの?」
 湯沸かしポットあるし、別に必要なくない? と訊くと、「夏にな」とKKが答えた。
「麦茶作るんだよ。煮出し用のパック買ってきて」
 ものすごく意外だった。なんでそんな面倒なことすんの? と思わず訊いてしまった。今時二百円も出せばよく冷えたヤツがすぐ飲める状態で売っているのに。
「――なんとなく」
「なんとなく?」
 言葉を濁したKKは、歩きながらちらりとこちらを見た。
「……ジィさんがそうやってたんだよ。それで」
 「なんとなく」昔からの習慣で、麦茶というのは煮出して飲むものなのだと。
 だから独り暮らしを始めて最初の年にヤカンを買った。当時はまだそれが普通だった。コンビニで普通にペットボトルを売り出すようになってからも、「なんとなく」飲む気になれなくて、ずっと自分で作っている。
 昔、うちではそうだった。だから。
「習慣ですか」
「ですね」
 ちらほらと初詣帰りらしき人の姿が見受けられるようになった。ビニール袋を手に提げている人をみつけて、屋台あるみたいだなと嬉しそうにKKが呟いた。そうだね、と呟き返しながら、MZDは小さく笑った。

 ――恋をしています。
 あの人は私を受け入れてくれたけれど、それは別に特別なことではありません。あの人には大事な人が居て、それは私にはどうしようもないほど大きな存在で、だからそれを羨むつもりはありません。
 ただ淋しいのは、
 ……淋しいのは、あの人にしてあげられることが、私にはなにもない。
 あの人は一緒に居てくれます。一緒に居ることを嫌わないでいてくれます。でもそれだけです。あの人はまだ、私の全てを受け入れてくれたわけではありません。でもそれは別に構いません。
 ただ時々、不安になります。
 私がここに居ることを、あの人は覚えていてくれるでしょうか? ふとした時、私が居たことを思い出してくれるでしょうか?
 私はあなたのなにを知ることが出来たんだろう? あなたの人生のなかに私の痕跡が少しでも刻まれているのだったらいいのだけれど。

 恋をしています。もしかしたら一生叶わないかも知れない、恋をしています。


恋をしています/2009.01.03


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